「最後の挨拶」 西山ヤスヒロ  その夜、ぼくはいつものようにベッドのうえで眠ろうとしていた。  外には落ち着いた雨の呟き。  なぜか眠れずにぼくは、覚醒と眠りの境界線をさまよっていた。 「……。……さん。健二さん……」  夢うつつのなか、誰かがぼくの名を呼んだ。  ぼくはびっくりして跳び起き、あたりを見廻す。 〈怪訝しい……いったい誰がぼくの名前を呼んだんだろ……?〉  その声には聞きおぼえがあったけど、そう気にもとめず、ぼくはふたたびシーツをひき寄せた。  目を閉じる。 「……じ、さん……健二さん……」  誰の声だったろう?  眼をあける。こんどは上体を起こさず、そのまま寝たままでいた。すると、暫くして何も見えないはずの暗闇のなかから、ぼうっとした人影が浮かびあがる。  ――志保だ。  彼女がそこにはいた。  一糸まとわぬ裸身をさらして。  ぼくは唖然としながら、 「志保……どうして……?」  訊きたいことはいろいろあったが、どれも言葉としてカタチを成さなかった。 「健二さん、あたし帰れなくなっちゃった」  志保は悲しげに微笑んでそう言った。 「な、何があったんだ?」  言いながらぼくは、彼女がいま、夏の北海道を旅していることをおもいだしていた。 「……ごめんなさい」  ぼくの問いかけには答えず、志保はただ一言だけつぶやいた。  彼女のとじられた瞳からは涙がひとすじ伝う。不自然に蒼くかがやいていた。  その涙のきらきらがやがて、志保をたよりなさそうに浮かぶ球体に取りこむ。蒼いきらきらのかたまり。ぼくはただ呆然と見ているだけだった。  不意に志保の乳白色に透きとおる両の腕が、映画のスローモーション・シーンのように残像をのこしながら動く。それらはぼくに向かって拡げられていった。志保の瞳は憂愁に濡れ光り、こきざみに震える口唇が何かを告げようとしていた。たぶんぼくの聞きたくない何か。それだけは直感でわかった。 「……さようなら……」  そう言うと志保の蒼白い裸身は黒い闇のなかへじんわり熔けてゆく。女らしい曲線を描く両脚や胸のふたつのふくらみ、泣き腫らした瞳をたたえた貌、そして最後にはぼくに差しのべられた両腕が、暗い闇にのまれてゆく。  しばらくぼくは志保が熔けさったあとの暗がり、自室の暗がりをぼんやり見つめているだけだった。ようやく正気に還ったときはじめて、切実な想いが急激に衝きあげてきた。 〈志保を失いたくない――〉  ぼくは絶叫をふりしぼった。 「志保っ、志保――っ!」  ――ぼくは眼をあけた。 〈――眠ってたのか? じゃあ、いまのは夢?〉  頭をぶんぶんと振る。部屋のあかりをつけた。そして志保のことをかんがえた。  胸騒ぎがする。とても厭な胸騒ぎだ。  テレビのリモコンに手をのばした。  画面が映り、ニュースキャスターが緊迫した顔で何ごとかをしきりにまくしたてている。  しぼっていた音量をあげた。 『――ていません。臨時ニュースを繰りかえします。今夕十18時20数分頃、K岬沖合数キロの地点で、北海道を出航しT県に向かう大型フェリー遊鈴丸が、おりからの強風に煽られ、座礁、転覆した模様です。乗客乗員320名の安否が気がかりですが――』 〈遊鈴丸――!? 志保が乗るって言っていた船だ――!〉  テレビ画面にフェリーの乗客名簿が映し出される。  そこには疑いようのない、志保の名が載っていた。  ――ぼくは眠れぬ一夜を過ごした。  明け方。なかなか入らない続報に疲れ、一瞬眠ってしまったときだった。 『――身元不明者の確認ができた模様です。……にお住まいの……さん……にお住まいの……さん……にお住まいの……さん……』  キャスターの読みあげは続くが、ぼくは最後まで聞いていられなくなった。何番目かに志保の名があったからだ。 〈志保――〉 〈じゃあ、ぼくが夜にみたあれは――やっぱり……〉  ぼくは白くぼうっと浮かびあがった彼女の姿を思いだす。 「……ごめんなさい」  ――志保はあやまっていた。 「……さようなら……」  ――別れを告げていた。  たぶん志保はここに、ぼくに最後の挨拶をしにやってきたのだ。永遠の別れを言いに。 〈ぼくのことを想っていてくれたから〉  ふいに激しい雨音がとどく。  外ではいつの間にやら雨が激しくなっていたようだ。ぼくの悔しい気持ちのたかぶりとそれは同調していた。  気づいたときにはドアへと駆け、それをひき剥がし、泣き崩れた街へ飛びだしていた。  ぼくは全身ずぶ濡れではしりつづける。  息も切れ切れになってきた。  でもはしる。  そうしていれば心配した志保が、赤いかさを差しかけてくれるだろう――  優しく微笑みながら濡れた頬を、白いハンカチでふいてくれるだろう――  そんな気がしたからだった。                  【了】 あとがき  最初のオリジナル小説ですね。  ホントは現国の教科書に載ってた芥川龍之介の『羅生門』を教師が続きを想像しながら書いてくるようにって宿題が出ていて、それを土・日没頭して書いて原稿用紙50枚くらい――書いたのが真の処女作です。  もう一回読んでみたいのですが、もうムリでしょう。幻の処女作です。散逸してしまって読めません。クラスのみんなには結構好評だったのになぁ……  で、本題。  『最後の挨拶』――これを書いたのは西山が多感な高2生のころです。  いま読み返しても稚拙で、赤面した顔の上で焼肉をじゅうじゅう焼けそうだったので、今回の掲載でかなり直しました。  いま思うと、結構こういう雰囲気をもった作品が多い――いまでもかな?――ようです。その頃から将来プロになりたいって漠然と思っていたような気がします。  タイトルの『最後の挨拶』はシャーロック・ホームズシリーズの短編集最終巻からとりました。