「人形サーカス団」              西山ヤスヒロ  雨は、朝から静かに降りつづいていた。  午後になっても、止むどころか一層勢いを強めたようだ。  あらゆるものが、形あることを否定し、雨の直線運動を受け入れ、白く溶けこんでゆく。  氷川亜由美は駅の改札を抜けると、待合室の出口前に張りだした軒下で、しばし目の前の降りしきる雨に心を奪われる。 『雨の日って不思議……これがあたしの見慣れていた世界かしら?』  土曜日、PM1:04――放課後、すぐに電車に飛び乗った計算になる。  足下で、屋根から落ちてくる雨粒がはじけて、亜由美の制服のスカートがにじみ、いくつかの黒い斑点ができていた。少しの間ためらっていた亜由美は、決心して小さくうなずくと、あかいカサの花を咲かせ、「ポンッ」と誰かに背中を押されたように雨の中へと歩み出す。  右手にはカサ、左手は胸の前でバッグを抱きかかえている。  お気に入りの曲をハミングしながら、軽い足どりで歩いてゆく。  こんな雨降りの日には、やることなすことすべてが憂鬱なものになるはずだが、今日に限ってそうではなかった。  その理由はショッピング、である。  古今東西、身に纏うものに気を遣わない女はいない。  あしたはクラスメイトの啓子と、水着を買いにゆく約束をしている。 『明良は大胆なのを買えっていってたけど……どうしようかな……』  立ち止まり、カサの中、ちょっと上をむいて亜由美は考える。 「でも。あれは、きわど過ぎるからダメ」  少し間があり、明るく微笑むと、いっそう足どりも軽く歩きだす。  そして、雨を避けるためカサの下で体を小さくすると、駅から丘のうえの住宅街へと続く一本道を急いだ。  丘までの全行程の約半分、平坦な舗装路が緩やかな坂道へと傾斜を始めるあたりまで来て、彼女はある異変に気づき、立ち止まった。  視線は車の整備工場跡地をとらえている。  背の低い雑草がまばらに生えた、広いその空き地に、小型のサーカステントがひとつ、雨に濡れそぼって立っていた。 『おかしいな……。昨日までは、ううん、今朝までこんなテントなかったのに』  不思議だとは思ったが、抑制できぬ好奇心が心に忍び込み、亜由美はテントへゆっくり近づいてゆく。  古びた、粗い生地でできたテントの前に立ち、上を仰ぐと、傾いて吊り下がったかんばん板を、しげしげと見つめた。  『人形サーカス団』と書かれている。  それは、どうやらこのサーカスの団名のようだ。  亜由美は唇に指をあて、少し考えようとした。  そのとき――  彼女の頭のなかで、何かが小さくカチリと音をたてた。 「入ってみようかな。どうせ帰ってもすることないし」  そう言うと、何気ない気持ちで、亜由美はサーカステントの粗布をまくって、吸い寄せられるように中に入ってゆく。  雨降りの日に時折起こる、水けむりの幻想のなかへ。  テントの中は静かで薄暗く、亜由美は目が慣れるまで、しばらく動けなかった。  会場の様子が見え始めると彼女は、そこが普通のサーカスとなんら変わりないことに気づき、ちいさく溜息をついた。  まず彼女が入ってきたところは観客席で、いすが適当な数、無造作に置かれており、それを過ぎると鉄柵が弧を描いて舞台と観客席を仕切り、その向こうは人形たちが演じるであろう、小型の舞台があった。 『変ねぇ、誰もいない。雨だから、お客もはいんないのかな?』  照明も暗い裸電球がひとつあるだけで、サーカスもやっていないようだ。  柵に沿ってあるきながら、亜由美は出ようかどうしようか迷っていた。と、そこで亜由美は舞台そでの通路を見つけた。おそらく人形の楽屋や人間の楽屋に通じているのだろう。  今日の公演はおしまいなのか、きいてみるつもりで、亜由美は歩いていった。  亜由美がまずたどり着いたのは、人形の方の控え室だった。外から見たときには分からなかったが、どうやらテントの陰にかくれて小屋があったようだ。  控え室に入るやいなや、亜由美はちいさく悲鳴をあげそうになった。  ドアを開けると、思ったより広い部屋があった。部屋の両壁側には、人形を収納するためなのだろう、大きな宝箱の容れ物が四つ五つおかれている。つきあたりには半分カーテンをひいた窓。部屋の中央にはテーブルといすがふたつ。窓のそばにおかれた揺り椅子の背からは黒いヴェルヴェットの布が、つややかな床板へと流れ落ちている。  出番を待つ人形たちは思い思いの格好で、床に座っていたり、テーブルのうえの花瓶にもたれたり、揺り椅子でくつろいでいたりするのだが、共通点がひとつあった。  それが亜由美の悲鳴の理由である。  ――それは視線だ。  まるで亜由美が入ってくるのに反応したかのように、彼らの眼は彼女を見ていた。こちらに横顔を向けている人形さえも、片方の眼ではちゃんと亜由美をとらえていたのだ。  一瞬ぎょっとして、入り口に立ちすくんでしまった亜由美だが、すぐに気を取り直してテーブルに近づくと、花瓶にもたれているフランス人形をそっと、両手で抱きあげる。  しばらく顔を見つめて、亜由美は人形を胸に抱きしめた。慣れたようにやさしく。 「かわいいね、お前は」  そういうと自分の顔に近づけ、頬で人形のさくら色のほっぺたを愛撫する。  亜由美の背中越しに見える人形の顔は、心地よさに眼をほそめ、満足気だ。  ちいさい子供の頃からそうだった。  とても人形が好きで、街角のショウウィンドウやおもちゃ屋に気に入った人形が並んでいると、どうしても欲しくなり、父や母を困らせたものだ。亜由美はあまり憶えていないが、母は彼女の部屋に飾られている人形たちを見るたびに、そう述懐するのである。  人形を思わず抱きあげ、頬ずりまでしてみせる彼女の行為も、ごく自然だ。  そんなに人形好きの彼女が、どうしてこの時点でたったひとつの疑念すらも見いだせなかったのだろうか? 「人形が好きなんですね?」  誰かが亜由美に声をかけた。  彼女は人形を抱きしめたまま、体をびくりと震わせた。もう少しで人形を落とすところだった。  何かおかしい、そう感じた。  そして声の方向に振り返るのを躊躇する。  声の主は男であり、位置は彼女の真後ろ二メートルくらいだろうか。しかし、亜由美には全く聞こえなかったのだ。  その男の靴音が、である。  しばし彼女は、動こうにも動けぬまま、その場に立ちすくんでしまっていた。  やがて不可解な事態とあたりのひんやりとした空気に抗うように、勇気をかき集めると、亜由美はおそるおそる振り返った。  と同時に、男は彼女とすれ違い、部屋の中央、天上からぶらさがった、粗末な金属シェード付きの裸電球を点けた。 「すこし暗いですね、この部屋は」  振り向いた男と亜由美ははじめて向かい合った。  急に自分に近づいてきたので驚いたが、いま仰ぎ見ている男の眼は、わずかだが彼女に安堵感を与えた。  男は上から下までサーカスの団長然としていた。背の高い星条旗ハットに赤い縦ストライプのシャツ、明るい青の燕尾服上下、先の反り上がった赤い靴。  男は確かに上から下までサーカスの団長なのだが、決定的に足りないものがひとつあった。それは恰幅の良さだ。男は細身で長身、顔も眼窩深く、神経質そうなのだ。団長よりドラキュラ伯爵の扮装が似合いそうである。 「ごめんなさい。こんなとこまで入ってきちゃって」  彼女は揺り椅子まで歩くと、そこに抱いていたフランス人形をおこうとする。 「ああ、いいんですよ。抱いていてやってください。その娘も喜んでいるようですからね」  そういうと、伯爵は手で揺り椅子近くの椅子をすすめた。  伯爵は座らず腕を組んで、そのまましばらく立っていたが、開いたままのドアを閉め、戻ってくるとテーブルの上に星条旗ハットをおいた。そして自分も席に着く。 「さてと――」  言いつつ手をテーブルの上で組み合わせると、亜由美をみて、口端を微妙に緩めた。 「よく見つけましたね、このサーカステントを?」 「ええ」 「よく入ってこれましたね、このサーカステントに?」 「ええ……」  応対しつつも亜由美はこの質問を奇妙だと思ったが、独特の親愛なる皮肉を込めたものと受けとめることにした。 「見ていきますか? うちのサーカスを」  言うが早いか、伯爵はすたすた歩きだす。亜由美も遅れじと席を立った。足早な伯爵に、ついてゆくのがやっとの亜由美だ。 「あ、あの……」  彼女のことなどお構いなく、伯爵はサーカスの舞台中央に立つ。亜由美には座席を手で示し、 「今日は我が『人形サーカス団』においでをいただき、まことに光栄でございます。この町では、本日が初めての上演と相成りました。団員一同はりきっております。どうぞ最後までごゆっくりお楽しみください」  スポットライトが消え、暗闇のなか、ファンファーレが鳴り響く。  と、ライトが、小型の舞台を左右から照射する。 「まず最初は、このサーカスの花形スター、アレウスとジェンマー!」  伯爵は舞台に駆け出し、裏側でこそこそ何事かを始める。  亜由美は紹介の声に合わせ、期待をこめて手を叩きだすが、すぐには何も始まらないようだと悟ると、拍手をやめる。  舞台には幕が引かれ、両側からあてられるライトが、その合わせ目を丸く照らす。  しばらくして幕が引かれると、中からは赤い、金ピカのドレスをまとった女と、黒くて立派なタキシードを身につけた伯爵が姿を現した。  驚いたことに、女のほう――たぶん王女の役か何かだろう――は、人形がいくつも結合してできたものらしいのだ。  ふたりはうやうやしく頭を下げると、頃合よく流れだした音楽に合わせ、タップダンスを踊りはじめる。内容はコメディタッチのようだ。  伯爵ことアレウスは、はにかんで身を離すジェンマの気を引こうと、花や指輪をプレゼントし、彼女は贈り物に揺れる心を抑え、すぐさま毅然とした態度を取ってしまう。しかしアレウスはあきらめず、彼の持てるすべての誠意と愛をこめ、得意のタップを踊る。王女はその懸命な姿に心うたれ、アレウスは彼女の愛と信頼を勝ち得るのだった。めでたし、めでたし。  ストーリーはざっとこんなところだが、アレウスが王女の手を強くひっぱりすぎて腕がもげ落ちたり、指輪を渡しざま抱きしめたら人形たちが分離して、アレウスが驚いていると彼の後ろに立っていたり、と可笑しみを誘う場面もしばしばだった。  つづく出し物は『ピエトロ・ヴァルサントロスの獰猛なる牙の舞と人間の魂のための大聖堂円舞曲――あるいはモナリザの微苦笑とポストモダニズムの破綻と墓碑銘によるパラダイムシフト』というのだった。  なんのことはない。一言でいえば猛獣ショウである。  ただし、ただの猛獣ショウではなく、ムチを振るうのは人間の代わりに人形、スキあらば襲いかかろうとする猛獣はトラやライオンではなくネコ、という小規模なりのスリル感を満喫できるものだった。  スペインの闘牛士のような帽子と飾りたてた服を着たピエトロ――これはあとでわかったことだが、ピエトロは闘牛の出し物も受け持っていた――が、長いネコじゃらしをクルクルと新体操のように回すと、ネコはたまらなくなって、ノドをゴロゴロ鳴らしながらネコじゃらしにまとわりつく。  最初ネコは遊び半分にじゃれついているだけなのだが、次第に真剣にネコじゃらしに飛びつくようになり、先端のケムシ部を両前足で押さえつけると、口にくわえ、ピエトロもろともネコじゃらしを振り廻しはじめる。 「うわぁ〜〜っ、たぁ〜すけてぇ〜〜!!」  亜由美がはっと息をのむ。  慌てて伯爵が舞台に駆けこみ、すばやく幕が引かれた。  ピエトロの泣きじゃくる声。  伯爵は彼を必死でなだめすかしている。  しばらくしてマイクスタンドそばに立つ伯爵にライトがあてられ、 「ちょっと早いですが、ここで小休止です。お客様には我が団きっての踊り子たちがダンスを披露いたします」  きれいなフランス人形たちが、舞台袖からしずしずと姿を現す。その中のひとりが、亜由美にスカートをつまんで挨拶する。音楽が流れ、軽やかな調子で彼女たちは踊った。  この後、大砲男や自転車曲芸乗りが登場し、ピエトロがおっちょこちょいな愛嬌をふたたびふりまき、メインイベントの空中ブランコでショウは最高潮に達して閉幕、カーテンコール、という進行でサーカスは終わった。  ショウのあと、亜由美は伯爵と出会った部屋で談笑していた。  彼女はティーカップにつけていた唇を離すと、カップを受け皿にそっと置いた。触れあう音が微かに心地よい。 「すばらしいサーカスでした。人形ってもともとかわいく作ってあるから、何をするにもコミカルで、失敗しても許せるっていうか――」  ――しまった!!  と、亜由美は口に手をあてた。  伯爵の眼がすうっと細まる。表情が頑ななモノへと変わってゆく。 「ピエトロ――のことですね?」 「い、いえ。あのですね。あたしは、その……」 「ピエトロ・ヴァルサントロス、のことですよね?」  確認するように訊き直し、それから伯爵は深い溜息をついた。亜由美も、困った表情を隠すように、顔をふせる。 「あいつにはほとほと手を焼いておるんですよ。とにかく、その……そそっかしいやつでね。今までまともに出来た出し物なんて、ひとつもありゃしません」 「でも、あの……、でも、ええと、かわいいじゃないですか」  とにかく何か言おうとした亜由美だが、思うように言いたいことが言えない。だが伯爵の反応は違った。  彼は微笑むと、 「そうなんですよね。かわいいんですよ、あいつは。いつもヘマをしては私に泣きつくんですが、あれで練習は人一倍――人形一倍やってるんですよ。怒っちゃいけませんよね、やっぱり。努力を認めてやらないと」  うなずく亜由美。ふと腕時計に目がとまり、時間を見る。 「ええっ!? もうこんな……。大変だわ。今日は夕食の準備手伝うってお母さんと約束したのに……」  伯爵を見る亜由美。  その瞬間、何かが頭のなかで小さく弾けたような気がした。 「あたし、もう帰らなきゃ……。お母さん、きっとムクれてるわ」  亜由美が鞄をもって椅子から立ちあがると、伯爵はすでにドアを開けて待っていた。  そのままふたりとも足早にテントの出口へと急いだ。  出口のところで伯爵は粗布をめくって亜由美を外に送り出すと、彼女にこう言った。 「今日はどうもありがとう。明日また来てくれるかな?」 「ええ、きっと。きっと来ます」  そう言うと、亜由美は軽く会釈をし、舗装路へむかって走り出す。 「美味しいお茶も用意しておくからね」 「はーい!」  振り向かず手を振る彼女を、伯爵はさびしそうに見送ると、視線を落とし、誰に言うともなく呟く。 「何も言わずに別れる――人生でこれほどつらく悲しいことはない。あんたはもう忘れているかもしれんが、彼らは……」  顔をあげ、亜由美の立ち去った方向をじっと見つめる伯爵だが、そこに彼女の姿はもうなかった。 「つまりね、その日からあたしは毎日放課後、サーカステントに通ってるの」  亜由美と伯爵の出会いから数日が過ぎていた。その間、彼女は毎日サーカステントを訪れてはサーカスを見、上演後には伯爵とお茶を楽しんだ。今日の出し物はこうだ、とか、ピエトロの詰めの甘さがどうだ、とか。  観客は依然彼女ひとりしかいない。  ショッピングもそこそこに、亜由美が急いで帰宅してしまったことを奇妙に感じた啓子が、明良にそのことを話し、いま彼は直接彼女の口からの説明を求めていた。  本題である、「きわどい」水着ではなく、「ふつうの」水着を買ってしまった彼女の真意を明らかにする、手がかりになると思ったためである。  だがしかし、彼は本題に移る以前の手がかりでつまずいてしまっていた。  学校の昼休み。教室には殆どの生徒が残っている。  ここ数日降り続いている雨のためだ。  明良は亜由美の向かいの席に腰かけ、話をきいていた。 「どういうわけか毎日毎日行っちゃうのよ」 「どういうわけかって、亜由美自身、無意識のうちにテントのなかに入ってしまうって事か?」 「そう」 「無意識?」 「そう、無意識」 「……」 「それでね。テントのなかでサーカスを見て、団長さんとアップルティーを飲みながら話をするの」 「――で、どんな内容のサーカスだったとか、団長との会話や話題も殆ど憶えていない、と?」 「うん」 「ほとんど?」 「うん、ほとんど」 「……」  不意に校内の音がよみがえり、廊下をどたどた走り廻る騒々しい足音が聞こえる。  腕を組み、考えこむ明良。 「どう思う、明良? あたしヘンになっちゃったのかな?」  明良は鼻を鳴らすと、こう切り出した。 「医師としての率直な意見を言わせてもらえば、あなたのようなクランケの例は、希有の部類に属するでしょう。ちゃんと治療して差しあげたいが、当院にはその科の専門医もおらず、医療設備も不十分なのですよ。診療簿を国立の専門病院の方にお廻ししますから、そちらでご相談を――」 「ちゃんと答えてっ!!」  沈黙。 「……わからん」  明良は間髪入れず、返答した。 「え?」 「ま、お手上げってことです」  と言って、ポーズをとる明良。 「お手上げ、って……。そんなぁ……」  まともに取り合おうとしない明良に、亜由美は最後の望みも断たれたような気分になった。がっくりとうなだれる。 「とにかく。今日おれが亜由美を家まで送れば、どういうことかが解るんじゃないのか?」 「え?」  さすが明良。何だかんだ言って、あたしのこと心配してるじゃない。  希望に満ちた顔で明良を見る亜由美。が、すぐに呆れ顔に変わる。  彼が微妙に頬を緩めていたからだ。  しかも、あさっての方向を向いて。 「送ってもらうだけよ。それ以上でもそれ以下でもないわ」 「うん?」  ようやく明良が亜由美の冷たい視線に気づいたときには、遅かった。彼女は断固とした言い方で、明良が送ったあとの可能性を否定したのだ。  五時限目を告げるチャイムが鳴る。 「さて、っと」  放課後。  亜由美は鞄に教科書やらノートやらをつめこみ終えると、明良の机の方を見た。 「あれ?」  明良の姿が……ない。 「どうしたの、亜由美?」  啓子が声をかけ、近づいてくる。 「ああ啓子。いえあの、ふふふ。明良がね、いないのよ。一緒に帰る約束してたのに、どうしたのかなぁ……?」 「――化学準備室じゃないかな」 「かっ……、準備室?」 「うん。化学部の部室だよ。明良君、ストレス溜まると、めったやたらに化学実験やりだすって、亜由美ゆってたじゃない? きっとそれよ」 「どうして明良にストレスが溜まるのよっ!?」 「……」啓子は少し考え、「あたしが、亜由美おとなしい水着買ってたよ、って言っちゃったからかなぁ……?」 「よけいなことを……」 「どうする? あたし呼んでこようか?」  亜由美は大きく溜息をする。 「いいわ。どうせムダよ。鍵掛けて何かに憑かれたようにフラスコ振ってるんだから……誰の声も聞こえないわ」  亜由美はもう一度溜息をついた。  啓子が教室の窓の外に眼をやる。話題を変えるように、 「それにしても鬱陶しい雨ね。何日降り続いてるんだろ? 思い出せないわ。梅雨前線はとっくに通り過ぎたって天気予報でいってたのに……」  啓子の言葉にはうわの空で、亜由美は窓の外を見ていた。  気分がだんだん滅入ってくる。  明良が約束を守ってくれなかったこと――それが主な理由であることは疑いない。だが、それだけではなかった。  では、サーカステントに何故か立ち寄ってしまう不思議な現象を考えてのことか。違う。  もちろん、ここ数日降り続いて止まない雨に、啓子と同じく憂鬱を感じたからでもない。  結局――  亜由美は、明良と一緒に帰れないのがつまらなかったのだ。どうしてか、今日は彼と一緒に帰りたかった。 「ねぇ、亜由美?」  ぼんやりしている彼女に啓子が話しかけてきた。 「え? うん……」  相槌をうつ。啓子の話が続いた。 「どうかしちゃったのよ、この町は。意地の悪い雨雲が居座り続けているか、町全体がどこか別世界に存在してるのよ」  昼休みより雨音が大きくなっていた。  亜由美がサーカステントに着くと、伯爵はその入り口の所で立っていた。 「お待ちしていましたよ、どうぞ」  伯爵は彼女をなかに招き入れる。  亜由美の先にたって会場内を歩いてゆく伯爵に、彼女はどこか、いつもと違った雰囲気を感じ取っていた。  客席の、いつも彼女にあてがわれてきた一席に、亜由美を連れてくると、伯爵はそのまま何も言わず、控え室の方へ歩いてゆく。 『どうしたのかしら、妙に哀しそう……』  亜由美は歩み去る彼の背中を見つめながらそう思った。  ――いつものサーカスだった。  適当にコミカルな味付けが施されており、それでいてクライマックスの空中ブランコやナイフ投げは、何度観ても手に汗握ってしまう。最後は団員総出のカーテンコール。闘牛ショーでピエトロ・ヴァルサントロスが角で衣装を引き裂かれ、「た〜すけてぇ〜っ!」と悲鳴をあげたのちに激しく泣きじゃくる、これもお決まりのことだった。  たったひとつの違いは、伯爵はじめ人形たちの、あくまで無意識的視線を感じたことである――そんな気がする、といったような類の。  いつも勝手気ままに、観客である亜由美のことなど気にもとめずに自由にやっていた彼等が、今日は妙にはりつめた、緊張感さえある。  いつも気軽に、亜由美にウィンクしてみせる団員たちが、今日に限って亜由美のいる方向を視界に入れようともしない。  亜由美は、人形たちが視線を合わさないがゆえに、彼等の意識的な、本当の視線を感じとったのだった。  そういう意味においては、いつもと違うサーカスだった。  控え室――伯爵と亜由美が初めて出会ったその場所に、ふたりはいた。  お互いにまだ、ひと言も言葉を交わしていない。  亜由美には会話をする準備ができていたが、伯爵は眼に見えぬオーラのようなもので、それを拒んでいた。  快活とは言えないまでも無口ではない伯爵が、これほどの時間、口を閉ざしている理由を、亜由美は何となく理解しはじめていた。  彼には何か言いたいことがあるのだが、それを口から放りだす決意をするには、かなりの時間と意志力が必要らしいのだ。つまり、この沈黙は逡巡なのではないか、と彼女は感じるようになった。  伯爵が、両の手指を複雑にからめた。  眼は落ちつきなく、さっきから動いている。  と、だしぬけに彼の視線が亜由美を捉えた。  呼応するように、彼女の身は硬くなる。  伯爵の口唇が微かに震えているのを、亜由美は見てとった。 「どう、したんですか……?」 「亜由美さん……」  伯爵は必死に、ある言葉を喉から押し出そうとしているようだ。  唇がわずかにわななき、擦れた声ではあるが、彼は心に深く沈潜していた言葉をようやくのこと吐き出した。 「実は……今日が最後のサーカスだったのです。さっきやったあの公演が、この町でやる最後のものだったんです」 「!?」  楽しいことはいつまでも続くものではない。正確にはほんの、かりそめのものだ。楽しいときはそれに気づきもしない。あとになって、それが終わったり、無くしそうになってはじめて、それと識る。そうして、失ってからは今まで通りの日常が強制的に還ってくるのだ。  亜由美の驚きも、サーカスがこの町を去ること自体に喚起されたものではないのだろう。  楽しいものを喪失することへの心理的抗議なのだ。それは感情の火花が、ごく一瞬間だけ閃いたに過ぎず、本人に意識されるものではない。 「言おう言おうと思っていたんですが、どうしても言い出せなくて。すみません……」  そのとき、亜由美の頭のなか、例のクラック音がした。  不意に控え室そのものが消えた。重力や音までが消失し、亜由美は暗闇をぼんやり浮遊している自分に気づく。  長くて暗いトンネルをひとりで歩いたときに経験する、あの独特の、思考や知覚の減速感を彼女は感じていた。 「ああっ……!」  ぐらぐらする――歪み、ぼやけ、離散する――目まぐるしい空間の転変。  羊水のなかに浸かっている胎児のイメージ。  自己のジグソーパズルを一ピースずつ取り去ってゆく、解体のイメージ。  何処で生成し、何処に向かってゆくのか解らない一本の光線。その上を、危なげな足どりで進んでゆくイメージ。  それらのイメージが通り過ぎたあと、何も見えず、何も感じられず、ただひとつの声のみが亜由美には聞こえた。  伯爵の声だ。 『もう気づいたでしょうか? あの子たちのことに……』  そのとき亜由美のぼんやりした意識が束の間覚醒した。 『そういえば、あの日……。最初ここでサーカスを観たあのとき、初めて人形たちと会ったのに、不思議と懐かしい気持ちになった……、どうして……?』  亜由美がハッと息をのむ。何事かを理解したのだ。  伯爵の言葉が続く。 『あの子たちは、実はあなたの……』 『あたしの人形たちだったっ!!』  伯爵が言うより早く、彼女は叫んだ。 『そう、です……。あの子たちは、かつてはあなたが可愛がっていた人形でした。もう何年も昔のことですが』  再び、亜由美の意識の流れが減速し、朦朧としてきた。 『私は……、ええ、正体は明かせませんが、町から町へと旅をしてきました。ひとりっきりで、途方もなく長い間。  以前、今日と同じような雨降りの日に、やはりある町をトボトボ歩いていると、雨音に溶け入るような悲しい泣き声を耳にしたのです。  声のする方へ行ってみると、そこは立派な家のガレージでした。隅っこに段ボール箱がいくつか積みあげられていて、声はそこから聞こえてくるようでした。開けてみると、なかには薄汚れた人形たちがいました。  私は何も言いませんでしたし、あの子たちもそうでした。そして、私もあの子たちも孤独だった。  お互い、お別れも言われず忘れられた者同士でした……』  伯爵は切なそうに溜息をついた。 『でもね。一緒に旅をしていたある日、いいことを思いついたんです。これだけの人数がいれば何かができる。何かすばらしいことが。そうだ、君たちと私とでサーカスをやろう、人形サーカス団っていうのはどうだい、ってね。  以来いろんな町で公演してきました。常に観客席は超満員――とはいきませんでしたが。残念なことに何かこう、周波みたいなものが合わないと、このサーカステントは見えないようなんです。  そうやってショーを続けるうちに、私もあの子たちもいろいろ考えるようになりました。  別れも言われず忘れられてゆくのは、何も私たちだけじゃないんだ。みんな、生を受けて生きてゆく者はみんな、別れてゆくんだ。みんなひとりっきりで死んでゆく。  被害妄想だったんですよ、私たちの孤独なんて。私たちは自分たちのことしか考えちゃいなかった。  この世に生を受け、お互い裏切り、罵り、傷つけ合い、絶叫し、悲しみに泣き疲れて死んでゆく。  私はね。そんなお客さんが、私たちのサーカスを観て幸せになれたら――そんなことを言ってるんじゃないんですよ。それじゃあ、いくらなんでも無責任で恥知らずですからね』  一呼吸置いて、伯爵は言った。 『亜由美さん、私たちがお客さんたちに言いたいことはね――  皆さん、お元気ですか?  私たちもどうにかこうにか生きています。  生きてサーカスをやっています。  ――これだけなんですよ』 「亜由美っ!」  どこかで明良の呼ぶ声が聞こえた。 『あき、ら……?』  亜由美がその声に応ずる。 『いけない。あなたのボーイフレンドが来たようです。私はこの辺でおいとますることにしましょう』 「亜由美っ!」 『あの子たちもあなたに会えて、とっても喜んでいました。またいずれ、どこかの町で  いいですか亜由美さん。  またいずれ、どこかで、ですよ……』 「亜由美っ!」 『さようなら、亜由美さん』 「亜由美っ!」  遠退いてゆく伯爵の声に替わって、自分の名を呼ぶ明良の声が、存在を増してゆく。  明良の声は亜由美のなかで、次第に確かなものとなり、彼女が虜となっていた無重力と暗闇の空間へと炸裂した。  砕けた硝子の破片が飛散するように、水けむりの幻想は消失し、現実のいう名の光矢が亜由美を射抜いた。  雨上がりの広場。  遠い、上空彼方で、勢いよく雨雲が流れ去ってゆく。  千切れてゆく雲間から、幾筋もの透明な光が地上に降り落ちてくる。  一本の光のすじが亜由美の立っている場所を照らしだす。  まばゆい光のなか、亜由美はおそるおそる眼を開ける。  一瞬自分がどこにいるか解らず、すっかり変貌を遂げた広場に驚く。  そこにはサーカステントはもう無かった。  背後で明良が自分を呼ぶ声がした。  振り返る。 「……亜由美」  明良はたたんだ雨傘を手に、立っていた。 「どうしたんだよ? ずぶ濡れだぜ?」 「……」  何かを話そうとする亜由美だが、その何かが思い出せず黙りこんでしまう。  空に視線を移す明良。 「長雨もすっかり止んだな」  明良は亜由美に視線を戻して、怪訝な表情を微妙に揺らしながらも、肩をすくめただけで何も言わなかった。 「さ、家まで送ろう」 「うん……」  歩きだすふたり。  やっと自分の格好を考える余裕のでてきた亜由美は、どうして自分が全身ずぶ濡れなのか奇妙に思ったが、あまり気には止めなかった。たぶん雨のせいだろう。  ただ、自分の頬が濡れているのだけは、雨のせいじゃないかも……そう感じていた。 「ね、明良」 「ん? 何?」 「あした、水着を買い直しに行こうと思うんだけど……」 「ああ……ええっ!? うんうん」 「デザインがね、ちょっと気に入らないんだ」 「よしよし」  すっかり表情緩みっぱなしの明良。おれが見立ててやる、とかなんとか独り言のように呟いている。  とりあわず、亜由美は眩しそうに空を見上げる。  雲間から覗ける蒼い空。亜由美はその蒼をわざと瞳に染みこませて、ぎゅっと閉じた。 「ねぇ、明良……」  明良は、亜由美に誘われた指のそのずっと先、彼女が見上げているのと同じ空を視た。  心地の良い微風に、亜由美の髪が幽かに揺れる。  くすぐったそうに彼女は瞼を開き、 「夏が来るわ……」  そう呟いた。  ほんの少しだけ、  蒼色に染みた瞳を潤ませながら。                  【了】  あとがき 『獣人館』のあとがきでも書いたのですが、『獣人館』のあとは大学生になるまで、創作をしていません。  じつはこの『人形サーカス団』、高校時代に未完である程度まで書いたのですが、原稿用紙4〜5枚くらいの短編しか書いたことのない西山には、相当手に余るモノだったのですね。  そうこうしているうちに大学受験→失敗→受験浪人時代、と創作どころではなくなってしまいました。  で、大学に受かってワープロ買って一年の時に仕上げたのがこの『人形サーカス団』と、次回アップ予定作品『階下に凝り固まるもの』です。  大学時代は大学時代で、実は結構寡作なのでした。当時は小説やシナリオより、思想哲学書や文化人類学、科学のパラダイム理論に興味があったんですね〜  ――話が逸れた。  今回の『人形サーカス団』ですが、これ凄いんです。  実は配偶者が一番好きな物語なんですね〜  大体どれも気に入ってはくれてるようなんですが、 「一番スキなのは?」って振ると、必ず、 「人形のサーカスのヤツ」って返ってきます。  なんでだろ?