「階下に凝り固まるもの」          -THE HORRORS Vol.1-               西山ヤスヒロ  私が最初にそれを見たのは、一ヶ月くらい前のことです。  その日の朝、いつものように妻に見送られ、会社に出勤しようとアパートの二階から、階段をのろのろ降りて玄関へときました。寝惚け眼を手の甲でごしごし擦り、くたびれた古い革靴に、足を突っこむべく靴べらをさがそうとしたとき、階段下の暗がりに、偶然そいつを見てしまったのです。  見たといっても、はっきりと見たわけじゃあありません。階段下の暗く奥深い場所に積み上げられた、新聞紙や段ボール箱の間からさらに暗い輪郭のほんの一部が、動いているのを見たに過ぎません。階下の暗闇で奇妙なものが蠢いている! ――視界の隅でそう感じると、私は反射的に眼を反らしていました。  私は決して気弱な人間ではないのですが、たったひとつ、お化け的得体の知れないものだけは大の苦手でした。恥ずかしながら、三十一歳の立派な社会人になった今でも、TVや映画、小説などで怪奇ものをみたときには、夜ひとりでトイレに行けません。  話を元に戻すと、つまり私は、階下の暗い空間に自分が長年にわたり敬遠、恐怖、さらには無視し続けてきたもの、私の厭な根源的何かを見たような気がしたのです。そのためでしょうか、いつもの逃避とは正反対の心的作用である『興味』が私を支配したのでした。  ひしゃげた段ボール箱だったのだろうか、子供がかくれんぼのために背を向けてうずくまっていたのだろうか、それとも、階下にわだかまった闇が動いたように錯覚しただけなのだろうか。  強い疑問の日差しを遮るには、観察と研究のカーテンを引く以外にありません。私は、怯えながらも数日間『階下の暗がり』を横目で観察した結果、不気味な特徴と一致を発見しました。  ――すなわち。  会社に出勤する朝にしか『階下の暗がり』は姿を現さないという特徴。  私に暴言を吐いたり、危害を加えたりして私が憎悪を抱いた人間が、何故か次の日から行方不明になり、二度と消息をつかめなくなってしまい、決まってその日の朝の暗がりは前日に比べ、ひと廻り大きくなっているという、恐るべき一致。  特徴はともかく、一致の方は最初単なる偶然かと思いましたが、その単なる偶然がすでに五件ほど立て続けに――『階下の暗がり』を最初に見た日から――起こっているのです。  今では、私の憎悪した人間と『階下の暗がり』の成長には、確固たる因果関係がともなわれるに違いない、そう確信するようになりました。  今朝、いつものように『階下の暗がり』をそうっと覗き見てみると、昨日よりもさらに大きくなったように感じました。手前にあった空の段ボール箱と新聞紙が少し押し出され、残りの部分は暗い階下の、さらに闇が凝縮した場所へと伸びていました。  確か昨日の夜、うちの課の連中で飲み屋に繰り出したとき、その席上で同僚のひとりが私の仕事上の古傷を探り当て、ほじくり返そうとしたので口論となり、もう少しで殴り合いの喧嘩になりそうだった、と記憶しています。  多分、相当頭にきていたのでしょう。今までの五件の場合と、私の憎悪と『階下の暗がり』の関係性を考えれば、この急激な成長は相手を相当憎み、言葉の思いつく限り罵倒した結果に相違ありません。  自虐的な言葉を幾ら投げつけたところで、もうどうにもなりません。多分、彼は二度と私の前に姿を現さないでしょう。私が彼に向けた憎悪とともに、湿気た薄暗いアパートの階下に住まう正体不明の生命体へと姿を変えたのですから。  私は自分の行為――そう、確かに私がした行為なのだ――に、自ら戦慄しましたが、とにかく気を取り直し、アパートを出て駅へと足早に歩きだしました。  会社に着いてタイムカードを切り、中に入ると、部長が私を手招きして呼びました。 「山科君、S町にできる新興団地地区に建設予定の建売住宅十一区画の件なんだがねぇ……、第二段階において計画発案者の君が試算した建設費をはるかに超過しそうなので、建設部門が私のところまで建設費を大幅に追加増額して欲しいと泣きついてきた。どうするんだ? ちゃんと物と人と運送に資金を分配したのか?――特に建設資材の調達費に問題あり、だ。試算が甘いんじゃないのか、ええ?」  またか……と私は思いました。  目の敵のように、私の意見・行動・計画に鋭い観察眼を光らせ、僅かでもあらが見つかると、容赦なく、執拗に批判する厭な部長。 『私だってひとりの人間だ。全知全能の神じゃあないんだ。たまには失敗することだってあるさ。自分のほうが何百倍も無能なクセに他人に多くを望みすぎるんだ、コイツはっ!!』  部長への反感がさらに増長し始めたとき、『階下の暗がり』が舌なめずりしているイメージが脳裏をかすめ、それまでの反発を慌てて撤回しようとしましたが、それは全く無駄な徒労なのでしょう。  あいつは、私が思うだけでそれを実行してしまうのですから。どんな些細なことでも、あいつは、『階下の暗がり』は聞き漏らさないのです。  叱るだけ叱って満足した部長は、ひらひら手を振って、下がって良いと顔をしかめました。  部長の眼には、私が自分の非を恥じ、青ざめて押し黙った。そんな風に映ったのでしょうか。本当のことを知ったら――そうではなく、私が自己嫌悪でもって、うなだれ打ちひしがれているのだと知ったら――彼はどうするのでしょう。  私は頭を下げ、自分の席へ戻りましたが、しばらくの間、顔は青ざめ、脚は震えていました。  またも間接的に人殺しをしてしまった。そんな考えに苛まれ続け、すっかり気分が悪くなった私は、午前中で会社を早退したのです。  駅からアパートまでの徒歩五分の道を歩きながら、ぼんやりと心の奥底にできた空虚の大穴に、自分の行為に対するいろいろな言葉を投げこんでゆきました。  後悔、疑問、自戒、自嘲、そしてまた後悔。堂々巡り。何度も同じ言葉を投げこみましたが、大穴は埋まることなく、大穴のままでした。  アパートに着き、階段を上がって部屋の前まで来ると、私はドアを二、三回軽くノックしました。 「おーい、私だ。開けてくれ」  すると、部屋のなかで騒々しい気配がしばらく続き、待つこと数十秒、ようやく妻が顔を出しました。 「ただいま。風邪でも引いたのかな。体がひどくだるいんだ。会社も早退させて貰った。すまないが、少し睡りたいから布団を敷いてくれないか」  妻の顔はすっかり青ざめていました。先程からずっと押し黙ったままなのです。  それに格好も少し変でした。下着の上には薄いスリップ一枚しか着けていないのです。頬には乱れた髪の毛が数本、汗で張りついていました。息も荒いのです。  部屋のなかには第三者の気配があり、家には置いていない煙草の臭いまでが漂ってきました。  ようやく私の硬直した脳細胞がひとつの答えを導き出そうとしたとき、 「三十分くらいしたら、戻ってきて。お話はそのときに……」  そう言うと、妻は私の返事も待たず、ドアを閉めました。 「……」  しばらく呆然と、ドアの前でたたずんでいました。そうして踵をかえすと、やがて狂わんばかりの怒りと悲しみと絶望を背負い、近くの公園へと足を向けました。  数十分後――  私が部屋に戻ると、今度は第三者も煙草の臭いも無かった。妻ひとりだけが背を向けて座り、私を待っていました。私は部屋に駆けあがると、手を振り上げました。  妻の頬が鋭い音をたて、妻はよろけて倒れてしまいました。 「ごめんなさい……」  妻が泣いている。  私も泣いていた。  その夜は、お互いひと言も言葉を交わしませんでした。朝になれば、私は彼女と離婚について真剣に協議しようと思っていました。  しかし、夜が明けて私が眼を覚ましても、妻の姿は何処にもありませんでした。わたしにはどうして妻がいないのか、容易に察しがつきました。  ――あいつです。  あの『階下の暗がり』が妻の消えた原因に違いないのです。  私は階下に急ぎました。今日こそは『階下の暗がり』の正体をつかむつもりでした。  まずは細目で全体を見るつもりだったのが、階下の様相を見て、眼を見開きました。そこには段ボール箱と新聞紙が散乱しているのみ。あいつの姿は何処にもありません。  私はすっかり訳が解らなくなり、暫く階段に腰掛けてぼんやりとしていました。  夜の訪れ――  私は部屋にいました。  明かりも点けずに中央で膝を抱えて座っていました。そして『階下の暗がり』が現れてから今まで起こった事を考えていました。  デジタルの目覚まし時計は11:59を表示しています。  私は今、ようやくひとつのことを悟りました。私は自分に内在する憎悪の塊に、いいように操られていたのです。つまり『階下の暗がり』は私の憎悪がカタチをとったもの、私の精神の別形態で、それが本体である私を……。  同僚、上司、さらには妻までを、自分の抑えきれぬエゴイズム――『階下の暗がり』――の餌食にしてしまいました。私は自分で自分が許せません。自分というものを侮蔑し、嫌悪しました。唾棄し、跡形も残らぬほど何度も何度も踏みつけたくなったのです。  と、そのときノックの音がしました。  私はびくり、と体を震わせました。ドアの向こうに誰がいるのか、私には何故か想像がつきました。圧倒的な『気配』のようなものが伝わってくるのです。おびえが少しだけ喉を引きつらせましたが、 「どなたですか?」  来客は自分の名を名乗りませんでした。  ドアを全部開けると、そこには私と容貌も背格好もそっくり同じの、もうひとりの『私』がにやにや笑いで立っていました。                   【了】  あとがき  ……。  下手な文章、言い廻しです。説明的に過ぎ、読み辛い。所々言いっぱなしで説明が欠如――これはもう物語として決定的にダメです。  まあ、そんな酷評をしてもし足りない作品ですね。  高校生までの自作は割と大目に見れても、大学生時代からの作品には冷たい眼を向けてしまいますね。  大学一年生のとき、サークルの部誌に載せたものですが、評価はやはりイマイチ。  この作品で自分の限界なるもの――そんなの無いのだけれど――に気づいた私は、何とか腕を磨こうと、同人誌に原作を提供したり、商業誌のマンガ原作公募に応募したりするのです。  結果ははかばかしくなかったですが……。  次回作は大学一年か二年。マンガの原作を創作しました。で、ひとつは散逸して現存しません。タイトルは『カーバンクル』。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』からとりました。  このHPで次に掲載するのは、もうひとつのほうで、タイトルを『第三世代人口妻』といいます。  小生は無理矢理書いた記憶があり、作品をあまり好きじゃないですが、創作仲間の友人たちには大好評でした……。  なんで?  ちなみに本作はTHE HORRORSとしてシリーズ化する予定だったので、あと二、三作プロットがあります。また書いてみても良いかもしれません。  書くとしたら二作目のタイトルは『芋虫』