「獣人館――騒げる館の影――」  西山ヤスヒロ  まいりましたねぇ……  失礼。もうしおくれました。  わたくし、この館の主でアーナーバールシュタイン四世ともうします。  以後お見知りおきを。  それはそれとして、どうかお聞きください。わたくしが思うに、こんな体験はおそらく二度と――できないでしょう。  おはなしは我が屋敷でおこった非日常的なできごとのことです。  それは今日の夕食のときのこと。何の前触れもなくおこりました。         ★  わたしたち五人はいつものようにテーブルについておりました。メイドが食前酒をさげます。  まさにその瞬間、ふだんとても物静かな妹が唐突に、理由もなく、大きく口を開け、ゲラゲラ笑いだしたのです。  呆気にとられる私、そして父、母、妻のジーナでした。  しばらく様子を見守っておりますと、笑いごえは始まったときと同様、不意にやみました。  妹は澄んだ緑の瞳をすうっと閉じて、 「何なの、この食事は?」  冷ややかな口調。席をたち、虚ろな眼で一同を睥睨します。  メイドがなにかを言おうと口を開きかけると、それを遮るように言葉をかぶせるのです。 「あたしはお腹が空いているの。とてもね。だからもっと料理を運んできなさい。こんなんじゃなくて、別のものを……そうね、肉が……生の肉が食べたいわ。血のしたたる生肉が……」  妹の言葉に広間は静まりかえりました。  それくらいこのときの妹の様子はいつもと違っていたのです。  メイドはとにかく厨房へと足早に向かってゆきました――妹の要求にこたえるべく。あとに残されたわたしたちはどうしてよいか解らず、ただただ妹をみているだけでした。         ★  赤く、おおきな肉のかたまりが白い皿の上にありました。メイドは言いつけどおり、血のしたたる新鮮な生肉をテーブルへと運んできたのです。  妹はかたまりをつかみ、むさぼり、かみちぎり咀嚼嚥下してゆきます。  ――さながら一匹の獣のように。  なにかに憑かれたかの行為。その行為にわたしたちは為すすべもありません。自分たちの食事も忘れ、見入っています。  やがて肉をくちゃくちゃ嚼む音も消え、皿に流れでた血を一滴のこらず舐めすすった妹は顔をあげました。  ――その表情はもはや、ヒトではありませんでした。  妹の、狂気爛々とした瞳がぐるぐる廻り、唇は無邪気な一言を発します。 「おかわり」 「……」一瞬声のでないメイドです。 「おかわりはっ!?」 「あ……あの、もうありません……」  やっとのことで答えるメイドに、妹はさらに両眼を濁らせて睨み、 「無い?」 「――はい、ございません……申しわけございません……」  メイドの声は消え入りそうでした。かくいうわたしたちも、固唾をのんでそんな成り行きをみているだけでした。 「そう……、無いの……」  視線をいったん落とす妹。そうしてじりじりと時間をかけてメイドに戻すと、紅い舌端が白い歯のつらなりから這いでてきました。べとついた唾液もいっしょに。  恍惚の表情をうかべた彼女がメイドに言います。 「あなた……美味しそうね?」 「ひっ……」  声をひきつらせて、逃げようとするメイドの白い喉から鮮血が噴きでました。妹の口唇から剥きだされた鋭い牙がそうしたのです。  倒れ伏すメイドに覆いかぶさる妹。  あたりは朱色に染まり、わたしたちはその場に凍りつきました。突然の出来事に対応できず、身体の奥底から湧きおこる恐怖にうち震えながら、それでもなんとかじれったいほどゆっくり席を立ちました。ここにいれば自分の番が廻ってくる――そう考えたからです。  妹はメイドの顔から目玉を吸いとり、ぴちゃぴちゃ音を立ててねぶります。  ――異形の者。  眼。  口。  耳。  鼻。  その造作のどれをとってみてももはや人間とは呼べない何か。理性のない獣。醜怪なる怪物。半獣人のそれに彼女は変形していました。  メイドの首もとに喰らいつき、人形のように振りまわす。威圧的な咆哮が館を鳴動させるのです。  ジーナが短い悲鳴をあげ、わたしの胸で気を失いました。  母もその場に卒倒し、勇気ある父は暖炉の上に架かっていた猟銃へと後じさってゆきます。  わたしは気を失ったジーナを抱きしめたまま、父を見守るほかありませんでした。  白状します。  わたしは目の前で展開される凄惨な有様に正体を無くしていました。がくがくと身体を震わすことしかできなかったのです。  獣人がメイドの腹からぶよぶよした臓物を引きずりだしたとき――  暖炉の猟銃を止め金具からはずし、撃てることを確認した父は、おぞましい光景へ照準を絞りました。  片眼をつぶり、狙いをつけると、 「死ねっ!! 怪物めっ!!」  凄まじい音を銃口から吐き出させました。  わたしは轟音に思わず眼を閉じました。  やがて銃声の余韻も薄れ、恐る恐る眼を開いてみると、メイドの上にかぶさっていた獣人はその骸から姿を消していました。  頭のなかに疑問の投石をするのと、答えの水音がしたのはほとんど同時でした。    なにかが噴きだす音がしました。  ――もうお解りでしょうか?  父が……。  次なる犠牲者に選ばれたのは父だったのです。  ほんの一瞬のあいだに獣人は、無惨にも父の首を胴体から切り離していたのです。猟銃を握りしめたまま、父の身体はどうっとその場に倒れ落ちました。  絨毯には鮮やかな紅い血が盛大にぶちまけられていました。切断面からはいまだ勢いよく飛びだしています。  びちゃ。びちゃ。びちゃ。びちゃ……  獣人は胴体を巻く服を咬み剥がし、肉にかぶりつき、血で汚れながら鼻面をはらわたに挿入してゆきました。まずは血を啜っているのだ――そう思いました。  骨を噛み砕くかたい音。  わたしはそのとき、出しぬけに自分を取り戻しました。 『逃げよう……』 『ここにいては、いずれわたしもジーナも……』  そう思考したあとのわたしに迷いはありませんでした。迅速であった、と断言できます。  気絶したジーナの片腕を肩に廻し、父をむさぼる獣人の食欲をこちらに向けぬよう、慎重に広間をあとにしました。そのままわたしたちの寝室へ、ジーナを引きずっていったのです。  いたずらに長い階段を一段一段踏みしめてゆくときの、わたしの怖れと焦りを察してください。  おそらくジーナ――妻がいなければ、狂ったように悲鳴をあげ、寝室に駆けこんでいたでしょう。  気の遠くなるような行程でした。  階上にたどり着き、寝室のドアをひき、なかから錠をおろしたわたしは、あまりの精神的重圧から解放されたために、その場にへたりこんでしまいました。          ★  ――というのがこの寝室の虜囚となったわたしとジーナの経緯なのです。  妹が狂い、  メイドが喰われ、  父は頭と胴体を離れ離れにされ、  たぶん母も――同じような運命をたどったのでしょう。  まいりましたねぇ……  さっきからノックの音がするのですよ。  すこし派手な、ね。  誰が来ようとも、わたしは不在です。  あーあ、これは……。  寝室のドアはずいぶんともろいようですね? 値は結構するはずなのに。  今度は鉄製の頑丈なのにしましょう。今度……。  それからいま、ドアを力一杯ノックしている方にも一言。  それだけノックをして返事がないのだから、いい加減あきらめたらどうですか? お留守なのですよ。信じられませんか?  まいりましたねぇ……  とうとうドアが、ばらばらの木の切れ端になってしまいました。  まいりましたねぇ……  まいりましたねぇ……  まいりま、                   【了】 あとがき  日付によると、処女作『最後の挨拶』から三ヶ月後に出来上がっています。高校二年生の時の作品。この作品も読者の方に、ありもしない「アバタもエクボ」を強要する一品になってしまいました。恥じいるばかりでございます。  大したストーリーもなく、勢いだけでつっぱしってしまっています――若いね? 今回オンライン小説化するのを一番おそれていたのが本作です。  配偶者は「結構スキ」とゆってくれるのですが、西山には全然、今となっては良さが解りません。  昔はこんなの書いてたんだなぁ……そんな感じ。  つぎ発表予定の『人形サーカス団』までは、『獣人館』から長い長いブランクがあります。  あいだは詩をかいてました。ひたすら。  散文かいてなかった。  だから、次回発表予定のオンライン小説『人形サーカス団』は大学一年生のときの作品なのです。