桜茶を淹れながら  彼女が好きだった紅茶の銘柄は、フォション。その中でも殊に好きだったのは、アプリコットとブレンド、そして桜だった。  切れてしまったアプリコットティーを買いにいって、桜を見付けたのよ。彼女はいつもそう言って、楽しそうに微笑んでいた。  彼女は紅茶が好きだった。僕が彼女の所へ遊びにいくと、お湯を沸かして、時間がかかるわよ、電話してくれれば用意して待っていたのに、と怨ずるように笑って、それでも丹念に紅茶を淹れてくれたものだった。  彼女は外で紅茶を飲まなかった。一度何処かの喫茶店に入ったとき、紅茶を頼んで、ひどく不味かったからだという。それを聞いたとき、僕はそうだろうな、と思った。彼女が淹れる紅茶より美味い紅茶なんて、お目にかかったことがなかったから。でも、これには僕の贔目もあるかも知れない。僕が彼女に惹かれていた、という事実を考えれば当然のことだろう。けれど、彼女の所に一緒に行ったことのあるコーヒー狂いの友人は、出された紅茶を見て感嘆し、それを飲んで更に驚嘆した。こんなに美味い紅茶は、滅多に味わえないぞ、と毒舌家の彼らしくもなく彼女の腕を誉めたものだった。  彼女と僕が知合ったのは、百貨店の紅茶売場だった。妹にせがまれて紅茶を買いにいって、どれなのか判らなくなってしまって困っていたときに、そこでアルバイトの売り子をしていた彼女に、どの紅茶が一番美味しいんでしょうかと聞いたのだ。僕が余程鯱張っていたんだろうか、彼女は、ふっくらとした優しい微笑みを僕に向けて、一番よく売れてますのはこちらですけれど、私はこちらの方が美味しいと思いますわ、と答えた。その時の僕の心境をどう表現したらいいのか、僕は未だに判らない。桜の花のようなイメージを持った彼女に、僕は桜の花のような仄かな想いを抱いたのだ。  その次の日曜日、僕は彼女に会うために紅茶売場を訪れた。その次の週にはわざと閉店間際に飛び込んで、彼女を送っていった。そしてまた次の週には妹に紅茶の淹れ方を教えてくれと頼んで、家に呼んだ。妹は僕の話を聞いて、薄薄感付いていたらしい。良い出汁よね、と毒突いていたが、彼女が試しに淹れた紅茶を飲んで、お兄ちゃん頑張りなよ、と激励してくれた。  その夜、僕は彼女を送っていった。近道はこっちだけれど、こちらの方が好きなのよ、といって彼女が通ったのは、桜並木だった。  折しも桜は満開にもう少し、といった頃合で彼女は何時に無くはしゃぎながら桜の樹の下を歩いていた。散り始めた桜の花が、彼女の全身をさり気なく包んでいるようにも見えて、僕は何となく桜に嫉妬した。桜さん、と呼びかけて僕は我に還った。驚いたように彼女は僕を見つめ、それから、はい、と応えた。僕はつい、これからも逢ってくれますかと聞いてしまった。彼女は少し考えるような仕草をして、ええ、と言った。  それからは、三日に一度は彼女に逢うようになった。時時は彼女の所へ行ったり僕の家に彼女を呼んだりして紅茶を飲んだ。そしていつもそんな時は、彼女が紅茶を淹れてくれた。最初は僕が淹れたのだが、彼女の目の前で紅茶をこぼして以来、彼女の役目になってしまったのだった。  そんな理由で、僕の家にはフォションのアプリコットとブレンドと、そして桜が常備品になったのだった。彼女と同じ名前の、彼女の一番好きな紅茶。それを彼女は桜茶と呼んでいた。彼女のように優しい香りの、優しい味の紅茶。  僕もこの桜茶が一番好きだった。彼女と同じ名、彼女の分身のような紅茶だったから。 それを飲むたび、いつも僕は思うのだ。彼女の微笑みや、ちょっとした仕草や、気付かないところに気をつけてくれた優しさを。今となってはもう目にすることも叶わないことだけれど。  出会ってからまる一年になろうとする冬の終わりに、彼女は僕と一緒に住むようになった。僕はそれまで居た自宅から出て、二人が住める部屋を探した。いい条件の揃った物件を幾つか選び、彼女に考えを聞いた。そうすると、その中でも僕が一番気に入っていた部屋の写真を指差して、これを見たいと言った。  半月後、僕達はその部屋に引っ越した。  お揃いのマグカップがキッチンの食器棚に並び、彼女が使いこんだ調理器がコンロの上に座を占める。  きょうは何がいい?と聞く楽しそうな表情がキッチンのカウンター越しに僕を見る度、咄嗟に買ってありそうな材料と出来そうな料理とを頭に思い浮べたものだった。そして材料が足りない時などは、二人して近くのスーパーへ買い出しに出掛けた。  外出はあまり好きではなかったけれど、彼女が嬉しそうに材料を選ぶので、その表情を見ているのが好きだった。今日はお魚が安いの、とかお野菜が新鮮なのよ、と子供のように目を輝かせている姿は、いつもの落ち着いた彼女からは想像もつかない程だった。 腕を絡めて彼女が僕に寄り添う時、小首を傾げている仕草を見ていると、僕はいつも顎に手をかけて口付けしたくなる衝動に駆られた。  二人でいる時間はさして長い訳ではなかったけれど、いつも僕達は穏やかな気分を味わっていた。そして、どんなに僕の帰りが遅くなっても、その日にあったいろんなことを二人で話した。満たされている自分を僕は感じていた。そして、多分彼女も。  夢のように時は過ぎる。楽しいときは、すぐに。  目を閉じると、瞼を走る細い血管が透けて見えるほど白い彼女の肌は、じっとしていると石膏か大理石のようだった。僕は生きてることを確認したい衝動にかられて、彼女の頬に触れる。頬から伝わる熱は心地よかった。唇に触れた瞬間、頬以上の熱が僕を受けとめてくれた。僕はいつまでも彼女を抱きしめていた。そうしなければ、彼女が腕から逃げて行くような気がして。  か細い彼女の哀願する声が聞こえて、僕が慌てて力を抜くと、彼女はそっと息をついた。そして、頬を美しい桜色に染めながら、僕の胸に頭を預けた。彼女の細い指が僕の胸から背中に伸びてやがて僕に絡み付くのを感じながら、僕は幸福な思いに包まれていた。  朝食をとっているとき、彼女が唐突に席を立って洗面所に駆け込んだ。暫く咳き込むような声が聞こえた。  ダイニング・キッチンに戻ってきた彼女は、苦しそうで少し蒼ざめた顔色をしていた。 風邪ではないと思うのだけど念のために病院に行ってくるわ、という彼女に僕は同行を申し出た。いつもなら断ることが多い彼女だったが、何かを感じて心細くなっていたものらしい。案に相違して、お願い、と応えた。  その日の夕方、原因が判った僕達は久しぶりに外で食事をした。お祝いをしたかったし、彼女にかかる負担を少しでも減らしたかったのだ。  本当にいいのと彼女は訊いた。僕は何も言わずに彼女の背中に手をまわし、抱きしめたまま髪の匂いを嗅いだ。そして髪から額、額から頬、そして唇へと口付けした。彼女は僕の目を覗きこんでいた。僕は、微笑って力強く頷いた。そして、彼女は安心したように眠りこんだ。僕は彼女が目覚めるまで、抱きしめていた。  料理をしながら楽しそうに歌う彼女の声は、ともすれば歌詞が同じところをぐるぐる回るようなこともあったけれど、僕は彼女の歌うバラードが特に好きだった。喉声はすぐ嗄れてしまうのよ、といいながらそれでも歌う彼女の声は優しくて、時に泣きだしてしまいたくなるような切なさを秘めていた。喩えていうなら、ピアノ。雨のように切ない音をたてて、散る、ピアノ。  風の強い夜、彼女は突然に苦しみだした。救急車を呼ぶ一方、彼女が非常時に用意していた鞄をいつでも運べるように整えて、僕は救急車のサイレンを待った。  真夜中に響くサイレンは不気味で、僕は得体の知れない恐怖を感じていた。担架に乗せられるのを彼女が怯えて嫌がったので、僕が抱きかかえて救急車に乗り込んだ。汗か何かはよく判らなかったが、彼女の衣類がひどく濡れていることが、僕を不安にさせた。 彼女は縋るような瞳で僕を見つめていた。小さな手は緊張のためか、堅くて冷たかった。僕は手を握って彼女を見つめていた。髪を梳いてやると彼女は目を閉じた。目尻から透明な流れが落ちていった。その瞬間、僕は時間が永遠に凍りついたような気がした。  いつだったか、彼女に聞いたことがある。もし、無人島へ行かなければならないとしたら何を持っていくかい?と。一瞬の躊躇いもなく、紅茶をあげて、それからもう一つと言った。それは?と聞いたら答えず、ただ意味ありげに微笑んでみせた。今僕は後悔している。それを、聞きそびれたことを。  晴れたその朝、彼女はその瞼を閉ざした。満開だった桜が前夜のひどい風で殆ど散っていて、何となしにものさびしい朝だった。  まだ温かい彼女の頬に指を這わせて顔にかかった髪を払ってやっても、僕はまだ信じることが出来ずに居た。  眠っているような表情、微笑みを少し残した唇、深く影をおとした長い睫さえも……、今にも動きだしそうな程精彩に満ちていた。  僕は座り込んでいた。何も思いつかず、ただ座り込んでいるだけだった。この上もなく大切なものを永遠に失ったことに気付くのには、もう少し時間がかかった。  彼女が初めて僕の名前を呼んでくれた瞬間を、今でも僕は鮮明に思い出すことが出来る。暖かくて優しいやわらかな声と、小首を傾げながらにこっと微笑んだ彼女の顔。そして僕は高鳴る胸を押さえながらはい、と応える。生真面目な丁寧さで。  夜の暗がりに沈んだ桜は、まるで雪のように儚げだった。枝の隙間から零れるように風に散る花びらは、軽やかに流されて闇の彼方に消えていく。  桜吹雪の中を、僕は走っていた。どこへ行けばいいのかも判らずに。  桜並木はまるでどこまでも続く迷宮のようで、息がつまりそうだった。  ようやく木立ちを抜けて、街の灯と川の水面が視界に入って来たところで、僕は足を止めようとしたらしい。アスファルトがないのにハッとした瞬間、草で足を滑らせて上下が逆になっている自分に気が付いた。  土手の下でようやく体が止まって、僕は大の字になって草の上に寝転がった。星が綺麗だった。とりとめもなく涙が溢れてきた。どこまでも純粋で、流す程に心が洗われるような気がする涙だった。  僕は初めて、声をあげて哭いた。  呼び掛けると、いつも優しい微笑みを向けてくれた温かい瞳が陽光に映えて輝くさまが、僕は殊のほか好きだった。用事もないのに、何度も名を呼んで苦笑させてしまったこともあった。それでも彼女はいつも変わらない笑顔で僕に応えてくれていた。そう、まるで地上に惜しみない慈愛を注ぐ、密やかで切ない雨のように。  朝の風は冷たくて、涼しいというには寒すぎた。僕はその朝日の中をあてもなく彷徨い歩いた。気が付くと、彼女が好きだった桜並木にいた。桜の花はもう終わりだった。  部屋に戻って紅茶を飲もうと思って、僕は帰途についた。その時、彼女の、声にならなかった最後の言葉が聞こえた気がして、僕は振り向いた。  桜の花びらが、風に舞っていた。