第一章イオニアの華 二、騾馬の王 一  リュディアという名の王国は小アジア沿岸にあり、その首都はサルディスである。豊かな国として近隣に知られたこの国の主はヘラクレスの末裔を名乗っており、その後裔カンダウレスは自分の妻を盲愛していた。閨の中のことなど、たとえ王といえども他の者に漏らしてはならぬものだが、彼は熱愛のあまり箍が外れかけていたのかも知れぬ。 「ギュゲスよ。妻は世界最高の美女でな。その肌の肌理の濃やかさと瑞々しさと言ったら、もう触れた途端にしっとりと掌に馴染んできて…」  口の端から涎が滴り落ちんばかりのその様子を、辟易したように眺めつつもギュゲスと呼ばれた男は臣下としての節度を守りながら王の機嫌を損ねぬよう努力していた。 「はい、この国の娘は誰も皆お妃様のお美しさに倣おうと…」  適度に相槌を打ちつつ話題から逃れたいと望むのだが、王はギュゲスの迷惑そうな様子には気づいた様子がない。近習の中でも特に気に入りであるこの男には、普段から重要なことも打ちあけてはいたが、この日は些か常軌を逸していた。 「気のない返事を。よし、ならばお前に妃が衣を脱いだところを見せてやろうではないか。儂の言葉が真実であることを教えてつかわそう」  正気とも思えぬ発言に慌てたのは臣下として当然だろう。 「な、何を仰せでございますか。お妃様が世界一お美しい方であることは、お姿を拝したことのある者なら稚い子供でも判ることでございませぬか」  真っ赤になっているギュゲスに悪戯心を刺激されたか、王は完全にその気になっていた。 「人は目程には耳を信じぬというしのう」 「分別ある国主のお言葉とも思えませぬ。尊いお妃様のそのようなお姿を臣下の私が覗き見るなどと、ご無体をお求め下さいますな」  我が身にかかる災難を思って、ギュゲスは既に青ざめかけている。 「何、妃がお前に気付かぬようにしておいてやるから、安心して見るが良い」  そのような太鼓判を押されましても、という溜息交じりの嘆願はあっさりとはねのけられた。かくして、彼は望まずして「世界一の美女」の全裸を覗き見る運命に恵まれたのである。  その日、王は寝室にギュゲスを伴った。予めの段取り通りに隠れはしたものの、恐れ多いという気持ちばかりが彼の心を重くした。しかし王命に逆らうことも出来ぬ。逆らえば最悪の場合は死が待っているからである。暫くして妃が入ってくるのが彼の目に映った。  衝立の後ろに隠れ身を竦ませていると、妃が一枚ずつ衣を脱いでいるような衣擦れの音が密やかに響いた。脱ぐ毎にそれを寝台の傍にある椅子の上に畳んでいく律義さは、或いは王の欲望を掻き立てるために計算された行動かも知れない。王は既に妃の次第に露わになっていく肌に意識を奪われているようで、自ら引き込んだ近習の存在を最早忘れているようである。焦るような息遣いが響く。ギュゲスは極力妃の方を見ないように努力してはいたものの、王に明日聞かれたらどう答えるべきかと考えているうち、ついそちらの方に視線が行ってしまった。それは、彼の運命の分かれ道だったのである。  暗闇の中に、青白い熾が彼を捉え、その凄まじさにギュゲスは身を震わせた。それは見られていることに気づいた、妃の射るような視線であった。一瞬の間だけ。見られた女と見ていた男の視線が絡み合い…、彼女は何事もなかったかのように王の隣にその一糸まとわぬしなやかな体を横たえた。王は待ちかねたように細くくびれた腰を抱き寄せ、もどかしげに妃に口付けを繰り返す。 「世界一の美女だ。お前は」  酔ったような王の囁き声を耳元に浴びながら、妃は挑発的な瞳で大胆に体をひらき、王の腰に自らの足を絡ませて悩ましげに身をくねらせた。白い二の腕を夫の首筋に投げかける。その豊満な乳房はその小さくはない掌で覆ってもまだ全てを隠しおおせることは出来ぬ。吸い付くような感触を楽しみながら、男が性急で濃厚な愛撫を繰り返すのを、冷ややかな切れ長の目が見つめている。ギュゲスは目が合ったように感じたのは錯覚だったのだ、と自分に言い聞かせながらその場を遁走した。足音を立てぬように急いで宮殿の出口まで来ると、それからは全力疾走した。自宅の前でようやく大きな息を一つ吐く。扉を開けると、明るい微笑みが待っていた。 「あなた」  隣の子供には構わず、ギュゲスは妻に激しい接吻を浴びせた。彼女はいつもの優しい夫とは違う性急な行動に戸惑いはしたものの、それを拒みはしなかった。寝室へ入ると焦れたように衣を脱ぎ捨てたギュゲスは、先程見た青白い熾が瞼から消えることを願いながら、妻の中に溺れて行った。  翌朝、まだ早い時間にとんとん。と扉を叩く音が響いた。 「ギュゲス殿、お妃様がお召しでございます」  妃の腹心である筆頭女官がいつものように彼を呼びに来た。その後ろに従って行き、宮殿の一室に静かに座っている妃の姿を見た時、彼はその異様さに気づいた。いつもなら傍に侍っている筈の女官達の姿がない。そして、彼を呼びにきた筆頭女官もまた、静かに隣室へと姿を消してしまっていたのである。彼は不安に包まれながらも静かに妃の前に跪いた。 「よう来たの、ギュゲス。お前に道を二つ与えようではないか。どちらを選択するもお前の自由」  そう言って嫣然と微笑む妃には、毒で出来た化粧粉がふりかけられているかのように見えた。彼女の言葉にギュゲスは暫時呆然とし、やがて嘆願もしたが。前夜同じように嘆願したときと同様、それは受け容れられることはなかった。彼は自らに降りかかった運命を呪ったが、引き返すことは出来そうになかった。 「妾の肌を覗き見るという不埒な事をしでかしたお前が死ぬか、それを企んだ王が死ぬか、二つに一つじゃ」  冷徹に言い放つ妃は、己の受けた恥辱を雪ぐ手段としてそれを選んだのである。跪くギュゲスに近づき、その耳元に熱い吐息を注ぎ込んで、その円やかな胸元に彼の手を導く。 「お前の妻はそのままにおいてよい。妾を手に入れ、この国を治めるのじゃ」  赤い唇からちらちらと覗く舌の先は二つに割れていなかったか。漂う芳香には媚薬でも混じっていたのか。彼はいつのまにか喘ぎながらその場に女を押し倒し、冷たい床の上で昨夜の王よりも性急な愛撫を加えていた。妃はギュゲスの動きに応えるようにゆっくりと目を閉じ、やがてその快楽の波に豊かな裸身を委ねた。  その夜、王は近習ギュゲスによって弑された。  翌朝、簒奪の話を知って驚愕しカンダウレス王の横死に憤激したリュディア人は、当然ながら簒奪者ギュゲスに対して武装蜂起した。ギュゲスとて王位が欲しくて弑逆の大罪を犯した訳ではない。ただ死にたくなかっただけである。両者和解のきっかけになったのは、デルフォイの神託であった。もし神託がギュゲスの王位を認めたならばそれを受け容れること、さもなくばギュゲスはカンダウレス王の血筋に王位を返還することという条件は両者にとって納得の行くものであった。デルフォイの巫女はギュゲスの王位を認めたが、その神託に「騾馬がメディアの王になったなら、ヘルモス河に沿って逃れ止まること勿れ」との一文が付されていることに気を止めた者は居なかった。  命拾いをしたギュゲスはデルフォイに膨大な財宝を献納し、それは奉納者に因んで「ギュゲスの宝(ギュガダス)」と呼ばれる。この後、彼の子孫が王位を継ぐことになった。  彼の孫に当るサデュアッテスは、ミレトスへの進出で知られている。ギュゲス自身在世中ミレトスとスミュルナへ軍を進めたが、祖父を遥かに凌ぐ業績を残したといえるだろう。その子アリュアッテスは父王からその戦いを引き継ぎ、非常な熱意を以ってこれに当ったが、結果的に陥落させる事は叶わなかった。  リュディア最盛期の王は、アリュアッテスの子クロイソスである。伝説ではアテナイの賢人ソロンと会談したと伝えられているが、二人の生没年や活動時期などを考慮すると少々無理があるから、それは恐らく後世の作り話であろう。その治世に国勢は頂点に達し、小アジアのギリシア諸族をはじめとしてハリュス河以西の殆どがリュディアの版図に加わった。彼は更なる領土拡大を望んでいたようだ。その即位は紀元前五六〇年のこととされている。釈迦誕生は紀元前五六三年頃、孔子誕生は紀元前五五一年頃。古代世界は今まさに激動の時代を迎えようとしていた。 二  リュディアのメルムナス家歴代の王は迷信深いのか、信心深いのか。デルフォイに対する献納品の数も神託を乞うた数も膨大なものであった。或いは神託に踊らされた家と言えるかも知れぬ。初代ギュゲスにしてからが神託のお陰で地位を保ち身を守ることが出来た訳であるし、当然といわれればそうかも知れないが、その数人の王の中でも神託を好んだのは最盛期の王クロイソスと言って間違いないだろう。  王には二人の子が居た。一人は言葉を発することが出来なかったが、もう一人は同じ年頃の子の中でも飛びぬけて優れており、また闊達な性格で誰からも好かれ、王位継承者として国中の尊敬を集めていた。名をアテュスと言う。一夜、クロイソスは夢を見た。アテュスが鉄の槍に刺されて死ぬ夢である。恐ろしさのあまり飛び起きた王は、たっぷりと冷汗をかいていた。最愛の息子が死ぬ夢が少なからぬ衝撃を与えた事は想像に難くない。王は急ぎ嫡子の婚礼の準備を整えて軍からは遠ざけ、それだけでは済まず槍は勿論それ以外の武器もすべて片付けさせた。「眠りの森の美女」の父王が、姫にかけられた呪いの成就を怖れて糸巻車を国中からなくしたように。彼の全てを受け継ぐであろう息子が、誤って死ぬことがないようにと。  将来を嘱望された王位継承者の盛大な婚礼が営まれたその夜。  プリギュア人アドラストスと名乗る一人の青年が嘆願者の証であるオリーブの枝を持って現れた。誤って兄弟を手にかけてしまい、殺人者として祖国からも父からも追われる身だという彼を、王は温かく迎え入れ、その穢れを祓いたいという青年の求めるままに、願いを叶えた。婚礼の最中に殺人の穢れとは不吉であると重臣の中には眉を顰める者も居たが、弱者の嘆願を拒む程に王は冷酷ではなかった。作法に従ってクロイソス王は祓いを済ませ、その身の安全と生活とを保障した。彼の到来が幸をもたらすことを願って。  婚儀は青年アドラストスによって中断を余儀なくされたが、それ以外は滞りなく終わり、王子アテュスは幸福の只中に居た。新妻は素直で可憐で、少し恥ずかしがり屋ではあったが王子を心から慕っており、夫婦は日々その絆を深めているようである。国の未来は極彩色で彩られているように見えた。  それから一月程経った頃。自然災害の為に山に餌が無くなって、大きな野猪が人里を襲い田畑を荒らして行く被害が報告されるようになった。里長は人を集めて狩ろうとしたが、狡猾な獣は却って人々を翻弄し、幾人もの若者 がその牙の犠牲になった。万策尽きた里長は王に救いを求めた。 「私どもの手には余ります。どうかお慈悲をもちまして、軍隊を派遣下さい。かなうなら、狩りの名手御子息アテュス様を」  里長の憔悴しきった顔を見て王は躊躇したが、その脳裏にはあの夢がまざまざと迫ってきていた。 「里長よ。息子は妻を娶ったばかりでもあるし、今は遣れぬ。他の狩りの名手に行かせるゆえ、許せ」 「アテュス様なれば必ずや、と。しかしそれでは仕方ありますまい。我らは一刻も早いご派兵を心より待ち望んでおりまする」  礼儀正しく一礼して去って行く里長を見遣りながらもの思いに耽っていると、涼しげな声が王の深い思考を遮った。 「父上」  人懐こい微笑みは万人を魅了すると思われた。青年らしい溌剌とした気性が仄見える。適度に日に灼けた肌はしっかりとした筋肉を覆って瑞々しく張り詰めていた。平均より少し背は高いだろうが、ひょろっとした感じは与えない。 「今のはミュシア人の里長では? 困ったような顔をしておりましたが、何かあったのですか?」  明るくハキハキとした物言いは、性格の素直さを感じさせて快い。律動的な動きは肉体の健全な成長を示しているかのようだ。王子アテュスは今まさに人生のもっとも華やかな日々を送っていた。 「大したことではないのだがな。野猪が出て田畑を荒らしまわっているので軍隊を派遣して欲しいと言ってきた」  何の気なしにそう答えると、アテュスは身を乗り出してきた。狩りは彼の好むところである。ましてや滅多に居ない程の大きさの猪では興味を惹かれない方がおかしいだろう。青年らしい好奇心を当然ながら刺激された彼は、自分が行きたいと言い出した。 「アテュスよ。出来ればお前には行かせたくないのだ」  国を思う王としての立場と、父として子を思う立場がクロイソスにはあった。そこで夢の話を聴かせ、狩りを断念するようにと伝えたのである。 「しかし父上。猪には牙はあっても槍はありませぬ。ご懸念は無理からぬこととは存じますが、此度は行かせて下さいませ」 「ほ。一本取られたな。止むを得まい。だが、十分に注意して行くのだぞ。そうだ。あのアドラストスも連れて行くと良い。彼にはいい気分転換になるであろうし、何よりお前を守ってくれるに違いない」  頼もしく成長した息子を慈愛の眼差しで眺め、王は出立を許可した。 「アドラストスよ。父として、頼みたいことがある」  王の突然の訪問に驚きを隠せぬ青年は、恐縮しながらも王を迎え入れた。 「先日、嫡子のアテュスが槍によって死ぬ夢を見た。野猪に槍はない、と息子は猪狩りを望んでいるのだが、父としては夢の恐怖が忘れられぬ。どうか、あれを守ってはくれまいか」  父としての慈愛に溢れ苦悩に満ちた表情に、アドラストスは故郷の父を重ねた。誤ってのこととはいえ、兄弟を手にかけたのはまぎれもない事実。被害者と加害者の両方が自分の子という現実は、父にとって耐え難いことだったに違いない。 「お顔をお上げ下さい。誤って兄弟を手にかけたこの身を、王は厭うことも無く受け入れて下さり、穢れを祓って下さった。私はその恩人に報いたいと存じます」 「行ってくれるか。お前が断れぬのを判っていながら頼むのは卑怯なことだと判っているのだが」 「父君としてご子息を思うのは当然でございます。私の力の及ぶ限りご子息をお守り致します」  力強い青年の言葉に、王は安堵した。 「どうか、あれを頼む」  その姿に、年老いた父の面影を見たアドラストスは、深く肯いた。  猪狩りの部隊は、アテュスを指揮官として、数十人程度の規模になった。里長は飛び上がって喜び、「アテュス様がおいでになったからには、最早あの大猪もただではすまぬぞ!」と息巻いている。国中の期待を背負う貴公子が自ら出て野猪退治を行うのである。一行の意気は上がりつつあった。里長の報告を受けて待ち伏せをかけ、罠を張って息を殺す。 「居たぞ!」  哨戒に当っていた者が、鋭く叫んだ。 「こっちだ。囲め」  逃げ場を失った野猪は包囲され、その囲みは徐々に狭められつつあった。  動きを止められた野猪は、何かを企むような狡猾な面構えであたりを見回している。その目が一点に据えられた。その先には王の愛息アテュスがいる。 「アテュス殿!」  猪の突進に気付いたアドラストスが声を掛け、危うく牙から逃れたアテュスは「追え!」と短く命令を下した。 「アドラストス殿、反対側から回り込むので援護して欲しい」  出来れば隣に居た方が猪から守れるのだが。アドラストスは思ったが口には出さず、即座に肯く。二人は大猪を挟んで左右に展開し、その進路に従って平行に走った。体格優れた二人に追いつけるものは多くはない。猟犬が三頭ほど、漸く二人の後を追いかけてくるばかりである。猪は闇雲に走っているように見えた。アテュスは右側を、アドラストスは左側をほぼ等しい距離を置いて走る。その時、大猪が急激な方向転換を行った。アテュスの居る右側へ。アドラストスは慌てて小槍を猪の足に向かって投げつけ、その背に飛び乗って弾みをつけ、力ずくで引きずり倒した。 「!」  野猪は盛んに抵抗を続けている。長引かせればこちらの負けとなるだろう。長槍を構えてその心臓を目掛けて突き刺す。  凄まじい咆哮が谷間に木霊した。それを聴いて力を漲らせた味方がようやく追いつき、鬨の声を上げようとしたが、再び大猪は猛烈な勢いで抵抗した。既に心臓は貫かれ、辺りは血の海である。それでも生存本能がそうさせるのか、アドラストスを振り落とそうとした。次の瞬間、猪の右足が強く地を蹴り、そこにあった槍が宙を飛んだ。アドラストスの腕を掠め、張り詰めた若い筋肉に細い糸のような傷を作った。青年の劣勢を見て、王子をはじめとした数人が駆け寄って来た。大猪は血まみれの体をぶるぶると震わせ、アドラストスはついに地面に落ちた。その手に細長いものが触れた。  野猪の咆哮が辺りに響き渡った。前足を高くふりあげ、仁王立ちになった猪の牙が日を受けて煌く。最早これまでか、と右手に触れた何かを猪に向けて投げようとした。次の瞬間、大猪は崩れ落ちた。事切れていたのである。しかしアドラストスの槍は既にその手を離れていた。 「王子!」 「アテュス殿!」  標的を失った槍はそのまま飛んで、将来を約束された青年の胸に吸込まれていった。かくして、父王の夢はここに実現したのである。それは、デルフォイの巫女が預言していた、かのギュゲスによって横死を遂げた王カンダウレスの報復であった。 三  物いわぬ息子をリュディア王クロイソスは涙とともに出迎えた。その遺体の傍に項垂れる青年を見付けても、掛ける言葉は見つからぬ。私を処刑して下さい。そう涙ながらに訴えかける青年の姿は、愛息を失ったばかりの父王クロイソスには、冥府の王ハデスにも見紛うものだったけれども、彼はその恐怖に堪えた。 「いや、これはそなたのせいではない」  夢を見せた、どなたかの神の仕業なのだ。我が子を喪うことは不可避のことだったのだろう。と。まるで自分自身に言い聴かせるような物言いに、青年は心を締め付けられるような思いがした。王子アテュスの死など、望んではいなかった。王子を愛する父王の為に彼を救いたいと思っていた。アドラストスの父は兄弟を死なせた彼を追放したが、クロイソス王は恩を仇で返してしまった彼を責めようとはしなかった。 「そなたとて、望んでそうした訳ではないことは、良く判っている。それにそなたを処刑したところで息子は帰っては来ない。そなたの父君の怨みを買うだけ。ただ、憎しみの連鎖を繋ぐだけだ。たとえ神々の王ゼウスといえど我が子を死という運命から解放することは出来なかった。ましてや、人の王など…」  自嘲するかのような台詞は、青年の身に染みた。 「私を殺して下さい…!」  ふりしぼるような声だった。二度の過失、それも取り返しのつかぬ過失を重ねたことは、彼の心に深い傷となって重くのしかかっていた。 「お願いでございます。王よ。どうか、私を…!!」  しかしクロイソスは最早それ以上の言葉を掛ける心の余裕を失っていたようである。ただ静かに首を横に振ると、葬儀の支度の為に館へ戻って行った。青年は一人取り残されて涙にくれた。 「神よ、神よ。私は取り返しのつかないことをしてしまった。これが私の運命なのか? 人を過失で死なせることが? 一度目は自分の兄弟。二度目は穢れを祓ってくれた恩人の愛息。私はどこまで呪われた運命を生きれば良いのだ? いっそ私、この私こそが…!」  翌日、葬儀は盛大にかつしめやかに営まれた。王家歴代の墓へ葬られる王子アテュスは、数々の財宝とともに豪奢な柩におさめられた。薔薇色の柔らかだった頬はすっかり冷たくなって、大理石よりもなお固いように思われた。見守る父の目前で地中深く埋められた青年の柩。嗚咽を堪えるような吐息がここかしこから響く。国の未来を 担う筈だった王子アテュス。その命を絶ったのは、父王が情けをかけ穢れを祓った客人であった。 「アテュスよ…」  腫れあがった瞼は痛々しい程だったけれども、逝った息子の眠りを妨げることは出来ぬ。 「そなたを救えなかった、この愚かな父を許してくれ…」  豊かな未来はどこまでも続く筈だった。国の夢と父の希望をも彼は忘却の川(レテ/ギリシアではこの川の水を飲んで現世の記憶を失い冥府へ行くと考えられていた。所謂「三途の川」の一つである)の向うに持って行ってしまったかのようである。葬儀を終えた後の墓はひっそりと静寂の中に沈んでいた。 「アテュス殿…」  身を清めたアドラストスが墓前に居た。思いつめたような色はすっかりと消え、何か吹っ切れたようなすっきりした面持ちを浮かべている。青年は短剣を首に突き立てた。凄まじい勢いで吹き出した鮮血は墓前の土を染め、深く深く大地(ガイア)に染みこんでいく。 「私は、ようやく…」  脳裏を走馬灯のように駆け巡るのは、望まず意図せずして己の手にかけてしまった兄弟と、彼の存在をもて余して追放処分にした父の笑顔である。それはまだ幼い頃に、二人で仕留めた兎を父に捧げた時の記憶だった。やがてその体がゆっくりと傾いで崩折れていき。大地は青年をしっかりと抱きとめた。 「……」  青年の呟きを聴いたのは、草木だけだった。  翌朝、行方知れずの客人を探しに来た重臣が見付けた時には、血の海に横たわる青年は永久にこの世の人ではなくなっていた。王は青年を救えなかった自らを責めたが、重臣は首を横に振った。 「恐らく、アドラストス殿は最早己が誰も傷つけずに済むことに安堵していたのでしょう。その死に顔は、まるで無垢の赤子のように安らかで穏やかなものでした」  少なくとも、アドラストス殿本人は、自分の死を喜んでいたと思います。彼はそう締めくくった。  愛息アテュスの死後、未来への希望を断ち切られて、リュディア王クロイソスは絶望の只中に佇んでいた。その彼が神託に凝りだしたのは、夢の「お告げ」によって息子の死を知ったせいかも知れぬ。戦馬の嘶きは近くまで聞こえてきていた。新たな国が勃興しようとしており、それは彼のごく近隣の国を制圧して支配下に置いたばかりである。彼はどういう方針で国を運営したら良いのか、自信を失っていたものかも知れぬ。彼はヘラス(ギリシア)各地の有名な神託所に神託使(テオプロポイ)を一斉に派遣した。神託を求める日にちを、その日から百日後と定め、財宝を献納して神託を伺わせた。言わば、彼が考案した神託所のテストである。彼自身が決めた日に、彼がサルディスで行っていることを当てさせるというもので、ある意味涜神行為と言われても仕方ないが、彼としてはより正確な神託を与えるところを知りたいと願っての行動だろう。帰国した神託使のもたらした回答……テストに対して彼自身が正確だと判断した神託は二つ。そのうちの一つ、正確さのあまり彼が兜を脱いだという神託を与えたデルフォイに、彼は国と己の命運を委ねることになる。それは、新たな歴史の幕開けでもあった。  クロイソスが河を渡れば大帝国を滅ぼすだろう。デルフォイから押戴いた神託にはそうあった。人というものは都合の悪いものに意図せずして蓋をする性癖がある。クロイソスもまたその性癖を十分以上に所有していた。神託というものの面白さは、ギャンブルに慣れぬ者がビギナーズ・ラックを経験するのに似ているのかも知れぬ。彼は神託を請いまた財宝を献納する日々を送っていた。これだけのものを捧げているのだから、神々の恩寵もまた素晴らしいものになるに違いない。彼はそう思っていたようである。彼には夭折したアテュスの他にもう一人、言葉を発することが出来ぬ子がいたが、その子の為に得た神託は「子の声を聴くことを欲するな」というものであり、周囲は首を捻りつつもその解釈については「この子は声を発することが出来ずに一生を終えるようだ」との見解に到達したようである。その神託の真意を彼らが知るのはもう少し先のことであった。  クロイソスの姉妹アリュエニスが嫁いだのは、メディア王アステュアゲスである。リュディアとメディアの間にちょっとした諍いが起こり、その和平の為に計画された典型的政略結婚であった。クロイソスの父であるアリュアッテス王とアステュアゲスの父キュアクサレスによるものであり、その講和は紀元前五八五年に結ばれた。それはミレトスのタレスが日蝕が起こることを預言していた日であり、現在の天文学の研究によって五月二八日であることが判明している。花婿アステュアゲスはそれより以前に娘を二人儲けていて、うち一人アミュティスはカルデア王国(新バビロニア王国)嗣子ネブカドネザルに嫁いでおり、いま一人のマンダネはメディア辺境の一領主に過ぎぬアンシャン王カンブージャに、父の意志によって嫁がされていた。王女アミュティスの嫁いだ王子が数年後に王位を継いだネブカドネザル二世であり、彼は愛する妃の為に世に名高い「バビロンの空中庭園」を造営することになる。もう一方の王女マンダネとアンシャン王との間に生まれた子がクル。ペルシア帝国を作り上げたキュロス大王とは彼のことである。 四  騾馬という生物は、雌の馬と雄の驢馬を掛け合わせた雑種の生物で、通常繁殖力はない。馬よりは小さいが驢馬よりも大型で粗食にも耐え、性質や声は驢馬に似ており、大人しく体質は強健で耐久力が強く、西アジアを中心とした地域で使役用として使われていた。中国大陸では清末期頃には良く使われていたようだが、逆に雄の馬と雌の驢馬を掛け合わせた、こちらも一代限りの雑種は使役に耐えないという。良馬が少ない地方での、苦肉の策と言えるかも知れない。  黄土色の城壁が同心円を描いて幾重にも折り重なっている。ひとつ一つの壁の輪は、内側に行くに従って胸壁の高さの分だけ高くなっていくように設計されていた。遠目に見たら山と見紛う城壁は、彼の曾祖父が作らせたものである。煙るような空は地上から吹き上げられた砂を含んでいるせいだろうか。眼下に広がるその町並みは、見慣れたメディアのそれであった。  こちらに背を向けた幼い子が、しゃがんで放尿していた。それはたちまちのうちにあたり一面に広がって町中に溢れ、更にアジア全土に氾濫して全てを飲み込んでいった。 「何者ぞ?」  声を掛け、振り向いたその顔を見て息を呑んだ。それはまだ幼い我が娘だったからである。にっこりとあどけない微笑みを浮かべる顔が、たちまちの間に大人びて立ち上がり少女の姿になった。やわらかい上質の布で織られた衣をまとい、裾を鮮やかに捌いて近づいて来る。  夢は、そこで醒めた。  ある朝、王子アステュアゲスは何やら不機嫌な様子であった。妃が宥めたりすかしたりしても今日ばかりはまるで利き目がない。その不必要に厚い胸板にしなだれかかって甘えてみても、いつもならあっという間に伸びていく鼻の下は変化を見せない。途方に暮れた妃は溜息をついた。 「お妃様、何事かございましたか?」  そう声を掛けてきたのは、僧侶(マゴス)で妃がもっとも信頼する者である。美麗であり、少々頭が良いのを鼻にかけるところはあったけれども、何かと役に立つ情報を持ってくるのであればまあ多少の欠点には目を瞑っても良さそうだった。 「殿下が今朝から不機嫌なご様子。お前は何か聴いておるかえ?」  甘い吐息にたゆたうような憂いをのせて、妃はともすれば秋波ともとられそうな視線を流した。 「お妃様の憂いを晴らしてご覧に入れましょう」  彼はそういって王子に近づいた。  その姿を見た王子アステュアゲスが彼を呼びとめたのは、まさに天啓によるものだったのかも知れぬ。 「お前は夢占いも?」 「はい、私が夢占いを」  王子はそこで彼が見た夢の話をした。僧侶が解き明かしたその夢の内容は、彼をして戦慄させるに足るものであったが、僧侶は妃の機嫌を損ねぬような王子の決断を導き出すべく、努力していた。王子に感謝されても妃に疎まれれば、今の満足な生活に翳りをもたらすことは必至である。僧侶の意見を聴いて王子は素早く頭を巡らせた。自分に釣り合うような身分の者ではならぬ。家柄は良い方がよかろう。性質は大人しく、出来れば地位が低い方が良い。その彼の脳裏にふと閃いた顔があった。アンシャン王カンブージャである。控えめで、でしゃばりという言葉とは一生縁がなさそうな青年であった。 「カンブージャを呼べ」  妙案を思いついた。と王子はニヤリ。と笑った。  アンシャン王カンブージャとメディア王キュアクサレスの孫娘マンダネとの婚礼は、それから程なくして行われた。王であり花嫁の祖父であるキュアクサレスは、急な孫娘の結婚に正直戸惑いを隠しきれずにいたが、その縁組を取りまとめた王子から事情を聴き「まあ良かろう」と判断を下した。婚礼の相手が彼の意に適う青年であったからでもある。カンブージャなら大それたことはすまい。とアステュアゲスに肯いて見せた。  カンブージャは、国でもっとも身分の高い娘を妻に得たが、何故彼に棚ぼたのようにマンダネが贈られたのか、知る由もなかった。  若いというより幼い妻は、王族にありがちな気位の高さや我侭さからは不思議と無縁でいたので、彼は掌中の珠のように可愛いらしい妻を慈み。仲睦まじさの結果として、新妻はたちまちに身篭った。子の父となるカンブージャが喜んだことは言うまでもない。彼は早速妻の父であり彼の義父である王子アステュアゲスに報告に赴いた。  愛妻の父は娘の妊娠を喜び、青年は喜びのうちにアンシャンへと帰国したが、彼が帰るとすぐに義父から娘へ里帰りを促す知らせが届いた。それには、初めての出産で心細いだろうし王キュアクサレスも望んでいるゆえ、急ぎ戻るようにとあった。仲睦まじい二人は離ればなれになることを哀しんだが、娘を思う父の好意を無下にすることも出来ず、若い夫婦は初めての別離を味わうことになった。  やがて月が満ちて。  花の香が麗しい月を彩るような夜、王の孫娘マンダネは丸々とした男の子を産み落とした。その知らせは父であるカンブージャよりも先に、祖父であるアステュアゲスに届けられた。  王子アステュアゲスにハルパゴスという名の寵臣が居た。彼は王子の身の回りの世話を常に傍に居て滞りなくこなす人物である。彼は主人から密命を受けると、如何なる命令であろうといつも表情を変えずに「御意」とだけ答えてその場を立ち去るのだった。無駄な言葉など無い方が良い。王子はその無駄のない所作に満足していた。 「行け」  低い声を必要以上に落として呟く。それに応えるかのようにハルパゴスは音もなく立ち上がり、歩き出した。王の孫娘マンダネの居る産室へと。 「陛下がマンダネ様のお子様を見たいと仰せになりましたので、お子様をお迎えに上がりました」  言葉ばかりは丁寧だが何やら威圧するような気配に、なりたての母は微かな不安を憶えた。しかし王命とあれば拒否も出来ぬ。 「いずれおじい様には妾がこの子を抱いてご挨拶に参ります。急がずとも」 「いえ、是非ともすぐにとの仰せでございますので」  押し問答しても仕方が無いのは判ってはいる。諦めて我が子を用意しておいた煌びやかな産着に包み、真っ赤に染まった小さな頬に触れた。 「クル。ひいおじい様に、お前の母マンダネが宜しく申していたとお伝えするのですよ」  生後数日の子供に言葉を理解することなど出来よう筈もないが。母になったばかりの、誇りに満ちた微笑を浮かべると、まだ少女と言った方が良さそうな娘は生まれたての我が子を送り出した。  ハルパゴスは、産室から見えない処まで来ると、腕に抱えた赤子を落とさぬように気遣いながら一目散に走り出した。向かった先は自宅である。メディア王家の血を享けたこの赤子の存在を、彼は一刻も早くこの世から消し去らねばならなかった。王子アステュアゲスの命令に背くことは許されぬ。しかし、王子はもうそれなりの年齢であるのに未だ世継ぎとなる男の子が居ない。もし仮に王の孫娘マンダネに王位がうつることがあるとすれば、女王は己が腹を痛めて産んだ子を殺した男を、そのままにしておくだろうか? 自分の手を汚したくはない。そう思う彼の脳裏に閃いたのは、王子の家来であるまだ若い牛飼であった。名をミトラダテスという。 五  その女は、スパコと呼ばれていたという。ヘラス(ギリシア)に伝わっている名前は「キュノ」である。何れも「犬」という程度の意味であるが、英雄譚の類型に良くある野生の獣に育てられたという伝承がそういう名前を導き出したのかも知れぬ。ヘラスでは女性の名前としてこの「キュノ」は良く使われていたようであるが、メディアで「スパコ」が実際に使われていたか否かは明確ではない。アジアでも人ならぬものに魅入られぬよう、夭折せぬようにと下らぬものの名をつけることがあるが、これもまたそういうものか。あるいは、奴隷階級の出身はそれが普通だったのかも知れぬ。  女は元同僚だった男と所帯を持って、数年が経過していた。美貌でも豊満でもないが、ふっくらとした温かさを持つ女で、夫はやわらかい微笑みに安らぎを見出していた。その妻が結婚数年目にしてようやく子を身籠り臨月を迎え、二人は貧しいながらにも幸福に包まれた日々を送っていた。もうそろそろ生まれるだろう、という頃。夫はアステュゲアスの寵臣ハルパゴスに呼び出され、妻は心細く留守居をつとめることになった。  ハルパゴスのもとから夫が帰宅した時、妻は自力で出産を終えたところであった。髪は乱れ放題で疲れ果て、涙のあとが頬を彩っている。そして、どこか呆然とした顔をしていた。 「あたしの、子…」  夫が入ってきたのにも気付かぬようである。生まれたての赤子を抱いたまま、身動きもしない。赤子は物音一つ立てず静かであった。 「スパコ?」  メデューサのような顔がこちらを振り向き。夫はごくり。と生唾を飲み込んだ。 「あたしの子!」  妻は夫の腕にあった包みを奪い取ると、号泣しはじめた。妻の腕にあった赤子がその膝にぽとり。と落ちる。その様を見て、夫は改めて息を飲んだ。臍の緒がついたままの赤子は息をしていなかった。……彼らの赤子は、死産だったのである。 「スパコ、その子はわしらの子じゃない。アンシャンのカンブージャ様とマンダネ様のお子様なんだ」  夫は必死に妻に語りかけたが、もはや妻は彼を見ては居なかった。取り上げようとすれば抵抗し、悪鬼のような形相で彼を睨みつける。彼に残された方法は、一つしかなかった。  妻が赤子の襁褓を取り替えた隙に、預かった赤子の衣類を手早く剥ぎ取ると、死んだ赤子にそれを着せて、彼はさも大事そうに抱えて山へと向かった。ハルパゴスの見張りが恐らく彼についている筈である。見られるのは構わない。しかし、今この赤子が死んでいることを悟られてはならぬのだ。山の奥深くに数日置き去りにして、さも衰弱死したように見せかけた上で渡さねばならぬ。妻のためにも、生きているあの小さな王子の為にも、それを彼は一人で成し遂げねばならなかった。 「わしの子、すまんな。勘弁しておくれ」  そう言って死んだ我が子を山の奥深くへ置き去りにした。  二日経って彼が同じ場所へやってきた時、赤子は彼が置いた時のままであった。見張りは彼が置き去りにしたことで、近寄って見ることはしなかったようである。泣声がなかったことを怪しまれなかったか、不安ではあったが。ほっと吐息を漏らした彼は、赤子の死体を持ってハルパゴスの屋敷へと向かった。赤子の死体を見せると、彼は満足気に「良くやった」と労いの言葉をかけた。そのまま王子アステュアゲスのもとへ赤子の遺体を抱えて報告に赴いたようである。彼はばれなかったらしいことに安堵しつつ、帰路を急いだ。こうしてメディア王の血を引く赤子は、彼……牛飼ミトラダテスの子として育てられることになったのである。妻は我が子だと信じ切ってありったけの愛情を子供に注ぎ、夫もまた心を病んだ妻に寄り添うように、その子を愛しんで育てた。本来赤子が居るべき家とは比較にならぬほどに貧しい生活ではあったが、裕福ではないにしても温かい家庭で育てられ、すくすくと成長して行った。そして数年の月日が夢のように過ぎ去って行ったのである。  牛飼ミトラダテスが生計を営む牧場に程近い野山で、メディア人の少年達数人が遊んでいた。年の頃は上が十三歳くらい、下は八歳くらいと言ったところだろうか。かけっこに厭きた一人の少年が「王様ごっこをしよう!」と言い出した時、運命の歯車はまさに回り始めたのである。少年達は話し合い、その結果十歳ばかりの一人の少年が王様に選ばれて遊戯は始まった。彼は年齢にしては些か小柄ではあったが、俊敏で賢く、近所の子供から頼りにされる「餓鬼大将」的な存在だった。彼はそれぞれの子供に役目を割り当て、それを統括する「王様」になった。  「王様」の少年は管理者として優秀だったようである。一人は建築家として宮殿を建設する。もう一人は家臣として政治に関与し、次の一人は王の護衛。それから監視役。そう言って各自役目を分担していくと、「王様」はそれを監督し、それに応じて褒美代わりの菓子を与えることにした。粗末な菓子ではあったが、少年の母が彼のために作った、言わば宝物のような菓子であった。無論量は潤沢にある訳ではない。それを分け合って食べるのだから一人分はごくごく少ない量となる。しかし彼は完全に平等になるよう、丁寧に別けておいた。  そこへ「監視役」の少年が現れた。「建築家」役の少年が働かないという。「家臣」と相談して、働くように「建築家」に命令したが、「建築家」は昼寝をしていた。 「これはどうするべきだろう?」  「王様」は少し考えたが、従う筈の王の命令を無視するのは明らかなルール違反である。「建築家」を他の子供達全員で捕らえ、藁を束ねたもので叩く罰を与えることにした。「建築家」はその中で一番大柄な子供だったけれども、流石に何人も相手に出来る程彼我の体力に差がある訳ではない。たちまちのうちに彼は罰を与えられた。そして役目を十分にこなさなかったという理由で「建築家」に「褒美」の菓子は与えられなかった。  藁束は痛いものではなかったけれども、多少裕福で力を持つ家の息子であった「建築家」は、帰宅すると自分のことは棚に持ち上げて「王様」の横暴さと自分が受けた制裁について母に身振り手振りを交えて話した。勿論内容は「建築家」の脚色により、殆どが改竄されている。彼を目の中に入れても痛くない母は早速夫のもとに赴いて、愛息が一方的かつ理不尽な暴行を被ったことを報告した。  子供の喧嘩に親が出るパターンは、古今東西同じようなものであるらしい。「王様」の少年にとって不幸だったことは、「建築家」の父親がメディア王子アステュアゲスの幼馴染だったことだろう。父親はアステュアゲスに、自分の息子が牛飼如きの子供によって恥辱を加えられたと訴え出た。子供の喧嘩と思っていたアステュアゲスがその「王様」を引見してみる気になったのは、「建築家」の言動に整合性がなかった為である。その話を聞けば聞く程に「王様」なる子供はしっかりしているようである。そう判断した王子は「王様」を召しだすよう命じた。 六  黄土色の壁は少年を威圧するように聳えている。父親に連れられて初めて来たこの王宮は、同心円状をしていた。 「お父さん、山みたいだね」  そう言う少年にややぎこちない微笑みを向けた父の脳裏には、これから少年が会うであろう貴人の顔が浮かんでいた。しかしこの子は何も悪くないのだ。そう自分に言い聞かせて彼は王宮の門をくぐった。  初めて見る王宮の中を、キョロキョロ見回すのは田舎者と言っているようなものだ。という父親の戒めに、彼は好奇心を極力抑えて静かに歩いた。自分自身の正当性については自信があったけれども、お父さんまで呼びだされるなんて。と彼は腑に落ちぬものを憶えていたが、そのお陰で滅多に来れない王宮の中を見れるのである。王子様に会えれば彼の正しさはすぐ判って貰える筈だ。ひとまずは王宮を楽しく見物しよう。と彼は父親に見咎められぬよう、眼球だけを忙しなく動かしていた。  謁見の間と呼ばれるその部屋で、暫く待つように。と王子の侍従が父親に告げると、父は少年を庇うように片膝をついた。父の真似をして少年もまた、同じ体勢を取る。程なくして、先触れに導かれた王子アステュアゲスが現れた。 「此度は召し出してすまなかった。恐らくはあやつの息子の言いがかりだろうがな。一応、話を聞かせよ」  ゆったりと鷹揚に構えた王子の物言いに、父親は恐縮しつつ、口を開いた。 「倅の話によりますと、『王様ごっこ』という遊びをしていたところ、かの少年が決められた仕事を放って昼寝をしていたので、全員で罰を与えたということでございます。確かに一対多数では抵抗出来ませぬでしょうが。捕えることは全員で行いましたが罰の方は処罰役人の子供にこれが命じて藁の束で二十回程打たせたということです。仕事をこなしたら褒美として与える筈だった菓子を与えなかったということであちらのお子様は怒っておいでかも知れませぬが。愚妻がこれのために作った菓子であれば、倅もさぼっていた者にそれを与える気になれなかったものと存じます」  王子は少年に視線で促した。一瞬父親の方を見、躊躇いながらも口を開く。 「お父さん、いえ父の言う通りです。僕を王様に選んだのは皆です。話し合いをして、決めました。僕の命令には必ず従うと決めたのに、彼だけがそれを守らなかったのです。監視役の報告で僕はそれを確認し、相談して処分を決めました。『ちゃんと仕事をしたらお菓子をあげる』という約束でした。僕は何か間違っているでしょうか。もし、そうなら王子様。僕が何を間違っているのかを教えて下さい」  十歳の子供とも思えぬ理路整然とした説明に、ふと疑念が萌した。  この子供、誰かに似ている。体は小柄な方かも知れぬ。しかし何と言おうか。そう、気概が。 「今時の市井の子供は皆こういうものなのか? 一国の後継者たる者を前にして少しも萎縮せぬとは。心強いやら、詰まらぬやら」  笑いを含んだ王子の呟きに、父親は恐縮して身の置き処に困っていた。少年はといえば対照的につぶらな瞳をまっすぐに王子に向けて、後ろ暗いものは何もないのだ。と言わんばかりに胸を張っていた。その瞳の色が、ふと王子の記憶の中で揺らめいた何かと同じ色をしていた。 「そういえば。久しくお前の妻にも会わぬが、この子はどちらかというと母親似かな?」  その言葉にびくっと身を震わせた父親を、王子アステュアゲスは試すような目で見つめている。俯いた父親の膝が微かに震えているのに少年は気づいた。 「は。どちらかというと」 「あまり両親のどちらにも似ておらぬように見えるな」 「い、いえ。我らよりもこの子は祖父母に似ているようでございまして」 「ほう」  探るような目つきに、父親は脂汗を流している。 「息子は好奇心旺盛なようだ。折角王宮に来たのだ。見物させてやろう」  その言葉に、少年は目を輝かせた。王子の侍従が少年を奥へと誘う。 「今宵は久しぶりゆえ、お前はここに残れ」  射るような光を秘めた王子の視線に、牛飼ミトラダテスは血も凍る思いがした。 「あの子供は一体どこで手に入れた?」  直接的な物言いは、それを確信していたからであろう。王子の記憶と符合する年齢、顔つき。そしてその態度は牛飼の子供には些か立派すぎた。 「あの子は我らが子でございます。産んだ母も一緒に…」  牛飼の抗弁は途中で遮られていた。近くに侍っていた護衛兵が彼を槍で束縛する。 「痛い目を見たいか?」  肉食獣のような微笑みが、ミトラダテスを見つめていた。その恐怖に怯え、程なく彼は屈した。真実が十年ぶりに明るみに出されたのである。  夕刻。王子アステュアゲスの急な呼び出しに、ハルパゴスは王宮への道を歩いていた。いつものように、無駄なく。ふと、左の頭部に痛みを憶えて顔を顰める。何やら悪いことが起こりそうな予感がするのだが。そう思いつつも、王子の命令をないがしろにしてはこの国で生きてはいけぬ。彼は痛みを堪えて王子の居室に向かった。 「御前に伺候致しました」  言葉少なにそう告げると、王子の視線に出会った。いつもながら王子の表情は読めぬ。それは王者としての器を現すものなのか、それとも…と思いかけて、ハルパゴスは思考を止めた。考えても詮ないことである。と思ったからである。 「ハルパゴス、のう。いつだったかお前に処分を任せたあの赤子、一体どのように始末をしたのかもう一度聴かせてくれぬか」  その王子の後ろから、牛飼ミトラダテスが後ろ手に縛られて連れて来られるのが見えた。嘘は言えぬ。言い逃れもならぬ。彼は腹を括った。  ハルパゴスの話を聞き終えると、王子はやわらかい微笑みを浮かべた。 「あの子に与えた仕打ちについてはかねてより悩んでおった。娘には恨まれるし、心安らかでは居られぬ日々だったが。幸いにしてめでたい結末を迎えられたようである。あの子は親元に戻すつもりゆえ、お前の子……確か十三ばかりであったな。その子を伺候させよ。それからあの子の命を救って下さった神へもお祭をせねばなるまいな。それに相応しい晩餐を用意しよう。二人揃って来るが良い」  ハルパゴスは、思ってもみなかった光栄に心踊らんばかりであった。やはりあのお子……クル様を救って正解だったのだ。と彼は確信していた。しかし、それは彼にとっての真の災難の幕開けだったのである。 七  僧侶(マゴス)を前にして、王子アステュアゲスは憂鬱そうな顔をしていた。頭にあったのは、娘マンダネが産んだ息子……王子にとっては孫にあたる少年のことである。 「王様ごっこという遊びでお孫様が王様に選ばれたということは、既に夢は成就したと考えられます」  そう王子に進言したのは、マンダネを産んだ王子妃の心中を慮ってのことか。同時に王子の顔色を伺うことも忘れていないあたり、中々の世渡り上手であるのかも知れぬ。美貌と才知を鼻にかけている奴だ。と王子は心の中で吐き捨てつつも、見つかってしまった孫の処遇に頭を悩ませている。偶然見つかった孫を今更害したとすれば、それを知った娘が黙っている筈がなかった。どうせなら見つからぬ方が良かった。市井に埋もれて幸福に暮しているのなら、わざわざ追い立てる必要もなかったのに。見つかったことを我が身の不幸と諦めさせ、因果を含めて殺すか。或いは…。しかし、王位を孫に与える訳には行かぬ。メディア王家の血は引いてはいても、父親はアンシャン如きの王でしかないのだ。過分な望みを抱かぬよう、言い聞かせねばなるまい。 「王様ごっこなる遊び如きの為に夢などとは。大袈裟なことだが」  まだ完全に納得しきっていない王子は僧侶に対して抗弁を試みる。 「されど。今お孫様を害されては、マンダネ様もお妃様も黙っておられますまい」  思っていたことをずばり。と言い当てられて、珍しく王子は言葉に詰まった。 「それに。お孫様の父親であるカンブージャ様とて、穏やかな方とは伺いまするが。怨みを抱かずに居るのは難しいかと」  それは駄目押しだった。王子は重く湿った吐息を一つついて、孫を迎え入れる手配を命じた。  数日の後。王子アステュアゲスの晩餐に招かれた客の中に、一組の親子がいた。寵臣ハルパゴスとその息子である。初めて見る煌びやかな王宮に、瞳を輝かせている少年に向かって、父親は一つひとつを丁寧に解説してやっていた。何れ、この子もこの王宮に詰めるようになるのだ。その時に役立つであろう知識を、今から与えておくのは悪くはない。そう思ってのことではあったが、ふと左側頭部に頭痛を憶えて顔を顰めた。 「父上。また頭痛が? 最近多いようですが大丈夫ですか?」  十三になったばかりの息子の、賢しげだが父親に対する思いやりの感じられる物言いに、ハルパゴスは顔を綻ばせた。 「年齢のせいだろう。お前から労りを受けるようになってはな。私も年老いた訳だ。いろんなところにガタがきておる」  些か諧謔を含んだ父親の言葉に、少年は笑った。その笑顔が霞んだような気がしたのは錯覚だったのか。目を瞬かせて見直す。眼球もまた老いたのかも知れぬ。とハルパゴスは息子を促して歩き始めた。 「御子息はこちらに、との殿下のお言葉でございます」  召使の者はハルパゴスの知らぬ男であった。どこか陰鬱な気の漂うその顔を眺め、息子を渡すことを暫時躊躇ったが、父がその言葉に答える前に息子はさっと身を翻していた。 「父上、行って参ります」  心の弾みをそのまま表現したような息子の声に、父は笑顔を返した。それが永遠の別れとも知らず。  着席するとすぐに酒が配られた。戻らぬ息子はもしかしたら王子アステュアゲスの配慮で、お孫様クル様に同席させて頂いているのかも知れぬ。そう思ったハルパゴスを誰も笑うことは出来ないだろう。その時、先程と同じ頭痛に加えて酷い胸騒ぎを憶えた。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。脂汗までもが滲んで来て、彼は自らの体をやっとの思いで支えていた。何か、良くないことが起こりそうな。そういう予感である。しかし、何をどうすべきかまでは判らぬ。中途半端な勘の良さが却ってハルパゴスの苛立ちを募らせているようだった。  王子が現れ晩餐が始まった。次々に並べられていく食事は、当然ながら贅を凝らした作りになっていて、手間隙をかけたことが一目瞭然であった。添えられた野菜の彩りの鮮やかさは、目に焼きついてくるよう。肉の香ばしさは辺り一面に漂って、いやが上にも食欲をそそる。果物は瑞々しく果汁の滴るよう。配られた酒は王子秘蔵の名酒。そして食事を運ぶのは、国でも指折りの美女ばかりであった。ハルパゴスは先程の頭痛の重さもどこへやら、夢見心地である。そして出された肉に口をつけた瞬間、何かがおかしいと気付いた。獣肉特有の臭みが一切なかったのである。柔らかな肉は丁寧に味付けされ、調理されているようだが、それだけでこれほど臭みが消えるものだろうか? 不審を憶えて手を止めると、王子がさりげなく視線を当てているのに気付いた。 「どうした、ハルパゴス。口に合わぬか?」  ゆったりとした王者の微笑み。今夜はそれにまるで毒蛾の鱗粉が振りかけられているようである。ぞわっとした寒気がハルパゴスを捉えた。 「い、いえ。結構なお味でございます。わたくしめ、このようなご馳走には滅多にお目にかかれませぬゆえ、気後れしてしまいまして。申し訳ございませぬ」  呂律の回りきらぬ舌でそれだけ言うと、料理を口に運んだ。王子が冷たい笑いを浮かべているのを見て、ハルパゴスは疑念を抱いたが、王子は満足気に肯く。 「そうであろう。お前の為にわざわざ用意した特別の食材ゆえ」  その右手が軽く振られると、侍従が大きな籠を持って現れた。 「とくと見るが良い」  掛けられた布をそっと持ち上げて、ハルパゴスは中を見た。流石に表情には出ぬものの、青ざめた寵臣の顔を見て王子は唇を歪めた。 「美味かったか?」 「はい」  布を元に戻して王子を見つめる目からは、感情が伺えない。 「こちらを、自宅に持ち帰っても宜しゅうございますか?」  王子は「ふむ」と軽く応えた。ハルパゴスは、表情を見られぬよう、深く主に向かって頭を垂れた。籠の中身、それはハルパゴスが先刻別れたばかりの愛息の頭部と四肢だったのである。血のこびりついた額は既に冷たく、先程まで星の輝きを宿していた目は見開かれて、もはや虚ろな光を映すばかりであった。王子アステュアゲスは、主人の命令をその意図通りに正確に遂行しなかった彼ハルパゴスを、許してはいなかったのである。彼は息子の亡骸の欠片を自宅に持ち帰り、泣き崩れる妻と二人で、愛息を地中深く鄭重に葬った。  心の奥深く、王子アステュアゲスへの復讐を誓って。  君主である者が臣下の子をその父親に食らわせるという話は、古代中国の殷周革命を描いた奇書「封神演義」に登場する。史実に攻撃を受けて篭城した城市で民衆が飢え、死んだ子を取り替えて食すというエピソードがある。何れにしても陰惨を極めた話と言えるだろう。人肉を禁忌としつつも、食わねば生き長らえることが出来ぬという状況は、飢餓に限ったことではない。しかし一時的にでもそれを受け入れた側は、自分を追いやったものを憎むことでしか生きられぬかも知れぬ。それが戦乱であれ、君主であれ。 八  王子アステュアゲスの孫クルは、アンシャンの親元に帰されることになった。王子が付けた護衛兼世話役によって自分の出生の秘密を聞かされたクルは、自分が牛飼ミトラダテスの血の繋がった実子でないことに驚愕したものの、時折養父が示す微かな哀しみの表情の理由が、何であるかに気づいて涙を零した。今まで育ててくれたお礼を養父母に言いたい…と願うまだ幼い少年に、世話役は首を静かに横に振った。それは牛飼ミトラダテスの妻スパコが、少年を自らの子と信じきっていたからであった。クルは出発を少しだけ遅らせてくれるよう願い出て、それまで真実父であると信じていた牛飼ミトラダテスの住居に向かい、静かに頭を垂れて深く祈った。少年を育ててくれた養父母が幸福に暮らしていけるように。いつまでも元気で居てくれるように。と。  祈り終えたクルは、頬を伝う涙を拭いて立ち上がり、怖れる気配もなく初めての馬に乗った。彼にその生命を与えた、実の両親の元へと帰るために。  故国アンシャンへ辿り着くと、国中がひっくり返るような騒ぎであった。死んでいたものと諦めていた世継が思いがけず生還したのである。それも十年ぶりに。クル少年の両親、メディア王子の娘マンダネとアンシャン王カンブージャが喜んだことは言うまでもない。少年は生母が求めるままに養父母や今までの生活ぶり、王様ごっこの遊びのことなどを物怖じすることもなくはきはきと話した。時折涙ぐむのは是非も無い。母マンダネもまた涙を浮かべ「良く生きていてくれました」と大きくなった我が子を抱きしめた。父カンブージャは流石にその瞳を濡らすことは無かったけれども、妻子を包み込むような温かい眼差しを注いでいる。両親の面差しは、明らかに少年に似ていた。養父母は「似ていない」とクルが外で言われる度に「お前は祖父母に似ているのだ」と言っていたが、それが嘘だったということを改めて少年は思い知った。しかしその愛情そのものに一点の嘘も偽りもなかったことをも気付いていた。クルはそれに深い感謝を捧げるとともに、実母の腕の中でそっと養父母に別れを告げた。揺籃のときは、今まさに終わりを迎えたのである。  少年が帰郷して二年程経ったある日、エクバタナのメディア王宮から遣いがきた。それは王子の娘マンダネとその長男クルを招待するというものであった。ようやくアンシャンの少年らしくなってきたクルであるが、将来王となる身であればいろんな世界を学ぶ必要がある。母親が一緒であるなら、今更危害を加えられる可能性は低いだろう。そう判断した父王カンブージャは、クル自身に問うた。メディアへ行くことを望むか、否かと。少年らしいくりくりとした目をいっぱいに見ひらいて、息子は一瞬言葉を失ったようである。流石に殺されかけた土地では怖いだろうか。そう懸念しかけた父に、少年は輝くような笑顔を見せた。 「父上、行かせて下さい」  クルが今学びたがっているのは、馬術であった。メディアでは騎馬術が盛んである。野山を駆け回っていたクルは徒競走には強かったし、身体は小柄ながら強健だったので、弓術や槍術は帰国後懸命に練習を重ねたお陰で、同世代の友人たちの中でも特に良く遣えるようになっていた。アンシャンは山がちで馬を養うことが難しい。故郷へ帰る旅で乗せて貰った馬に、少年はずっと憧れの念を抱いていたのだった。カンブージャはその様子を見、微笑んだ。しかし。祖父が少年を害する可能性が皆無という訳ではない。呼び寄せたことにせよ、あわよくば少年の命を奪おうとする意図が隠されていないとは限らぬ。カンブージャはしかし、息子に対しては「お祖父様にお行儀良くお仕えしなさい」と言ったのみであった。少年の強運を信じていたのかも知れない。  それから数日後、クルは母マンダネとアンシャンを後にした。  二年ぶりに会った祖父は、変わらなかった。同じように目の縁に化粧を施し、鬘を着用していた。赤紫色の肌着の上には長い衣服を重ね、胸元には美々しい首飾りがきらめく。勿論両腕には意匠を凝らした腕輪がはめられていた。少年は臣下としての分を守るべきか、それとも孫としての愛情を示してみるべきか少し考えた。そんな息子を横目に見て、両者の母であり娘であるマンダネはひっそりと笑った。 「クル、お父様とお祖父様とどちらがご立派に見えて?」  母の、悪戯好きな瞳に彼の反応を楽しむような色が見えて、少年は微笑んだ。 「お父様はアンシャンの人の中ではもっとも立派な方です。お祖父様は路上と王宮で会いましたメディアの人の中ではもっとも立派でいらっしゃいます」 「まあ、この子ったら」  母子の言葉を聞いていた祖父が口元を綻ばせる。歓心を買おうとしてマンダネが言わせたものかも知れぬが、その言葉は耳に快く、適度に酔わせる美酒のような旨味があった。 「お祖父様。アンシャンでは親しい人に接吻をする習慣があるのですが、僕がお祖父様に接吻するのは不敬でしょうか」  メディア王宮との違いについて、母から聞かされていた少年は習慣の違いが時として相手にとって非礼となりうることを知っていたようである。 「構わぬが、どこにするのだ?」 「身分が同じ場合には唇に致しますが…、どちらかが低い場合には、低い方が高い方の頬に致します」  はにかむような少年の、おずおずとした挨拶の接吻が祖父の頬に与えられると、王子アステュアゲスは孫に身の回りの品々を与えた。華やかな衣装に、腕輪や首飾りなどである。その中で、何よりクル少年を喜ばせたのは、金の鋲を打った馬勒を置いた馬である。その喜びように、かつて自身が父から馬を貰ったことを思い出していた祖父は、あの夢のことなどすっかり忘れ去ったかのように素直で明るい孫を気に入ったようであった。そして、少年がメディアを愛して故郷アンシャンへの気持ちを少しでも薄めるようにと、祖父は豪勢な食卓を用意した。食べきれぬ量の食事が並ぶのを見て、少年は祖父に願い出た。 「お祖父様、素晴らしいご馳走ですね。全て僕の好きにして宜しいですか?」 「無論だ。その為に用意させたのだからな」  鷹揚な微笑みを見せ心持ち胸を反っていた祖父は、次の瞬間孫の行動に目を丸くした。少年は、祖父の召使たちにそのご馳走を手ずから与えはじめたのである。ある者には「お前は僕に、熱心に乗馬を教えてくれたから、これを」、またある者には「投槍をくれたね。ありがとう」。次には「僕の母上を大切にしてくれたから」と続き、「お祖父様に良くお仕えしてくれてありがとう」…そういった具合に一人ひとりに丁寧に言葉を添えて褒美を与え、忽ちのうちに食卓は少しのパンと少しの飲物を残して空っぽになった。勿論のことだが、それらのご馳走は召使たちが普段いつも目にしてはいても口にすることは出来ぬものである。しかしその少年の気前の良い行動が、料理の価値を知らぬ無知によるものでなく、知性と思いやりの上にあるものであることに彼等は気付いていた。これがアンシャン王カンブージャのご世継。アンシャンでは質実剛健で質素を好むというが、これほどとは。と召使達は目を見合わせて感歎した。しかし折角孫のためにと張り切って食卓を用意させた祖父は、驚き呆れてその様子を見つめている。母マンダネは少年の、アンシャン人らしい言動にひとり微笑んだ。その様は父であるカンブージャに良く似ている。親子として再会して、僅かに二年。見る見るうちに、アンシャンの少年の中でも特に傑出した様子を見せている息子は、紛れもなくカンブージャの子であった。その思いやりも、微笑みも。誠実さも。そして、それらがこの世界にもたらすであろうものも、マンダネには見えた。いつか彼女の父アステュアゲスの狭量さ身勝手さと激突し、敗れた側は滅び去っていくだろうことも。そう、遠くはない未来に。  暫くして。アンシャン王妃マンダネは帰国の途についた。利発で明るい孫を溺愛する祖父は、手を変え品を変えしてクルをメディアに残していくよう娘を口説いた。弱った母マンダネが王子クルにその去就を尋ねると、少年はメディアに残りたいという。クルの目的は、やはり馬術であった。いずれアンシャンに騎馬隊を作ることを目論んでいたのである。十二歳という年齢にそぐわぬ先見の明か、単に子供の好奇心が馬へ向いたものかは不明だが、或いは次世代を見据えたアンシャン王カンブージャの差し金であった可能性があったかも知れぬ。いずれにせよ、少年は馬術を憶えた。それはクルの未来図を大きく広げることになるのである。 九  クルが祖父であるメディア王子アステュアゲスの招きを受けたのは十二歳の時である。馬術を学びたいと願った彼は、帰国する母と別れてメディアに残ることになった。自分が優れている武術ではあえて競わず、苦手なものについて努力を重ねていく姿は、メディア人の間でも好感を持って迎えられた。彼の朗らかな性格もまた、その助けをしていたことだろう。親しい友人も出来、馬術にも長じたところで、アンシャン王族通例の義務を果たす為帰国するようにと父王カンブージャからの遣いがクルを迎えにきた。そのときメディアと隣国リュディアとの間にちょっとしたトラブルが起っており、クルは当初出陣する祖父と同行し初陣を飾る予定であった。一転して帰国せねばならなくなったことに少年は哀しみを憶えたが、彼はメディア王家の血を引いてはいても、アンシャンの王子である。王族としての義務は果たさねばならぬ。後ろ髪をひかれる思いでクルは帰国の途についた。十五歳になっていた。  戦場で相見えたリュディアとメディアが開戦の危機を迎えたそのとき、ミレトスのタレスが預言していた日蝕が両軍の進撃を阻み、衝突は避けられた。この時代、まだ天文学は確立されておらず、日蝕や月蝕は怪異であった。異変を怖れた両軍は兵を退くことに同意したのである。一触即発の危機は何とか回避されたが、和解の為の手段はいつの時代も大きな違いはない。政略結婚であった。王子アステュアゲスにリュディアから妃を迎えることになったのである。花嫁となるリュディア王女アリュエリスは、花婿アステュアゲスの娘アミュティスやマンダネより年下であった。彼女はリュディア王アリュアッテスの娘であり、世子(世継)クロイソスの姉妹にあたる。彼女の結婚生活が幸福なものであったか否かは知りようがないが、一つだけ言えることがある。それは、クロイソスにアンシャン(ペルシア)へ目を向けさせたのは、紛れもなく彼女の婚姻であるということである。もし、この政略結婚がなかったなら、クロイソスがアンシャンに目を向けるのは、もう少し後になったかも知れぬ。ただしクロイソスは新興の勢力について、目測を誤っていたようであった。  アステュアゲスの娘で先に出たアミュティスも同盟の為の政略結婚をしているが、リュディアとメディアの調停役を演じたのはそのアミュティスの夫であるカルデア(新バビロニア)王ネブカドネザル二世であった。調停の翌年である紀元前五八四年、アステュアゲスの父王キュアクサレスは没し王子であった彼が王位についた。余談だが、クルは後年複数の妃を娶ったとされている。その婚姻それぞれの詳細な年代は不明だが、うち一人はクルの母マンダネの姉妹である女性であったという。彼の妃として記録に残っている、恐らく唯一の名前はカッサンダネである。これでもしアステュアゲス王とアリュエリス王女との間の娘がカッサンダネであれば、この上なくドラマティックな展開と言えるだろうが。残念ながらカッサンダネはアケメネス家の出身であるパルナスペスの娘であることが判明している。だが、クルの妻の一人がリュディア王女の娘であったなら。クルはそれを理由としてリュディア王家の王位継承権を求め得る可能性があったことになる。  アンシャンへ帰ったクルは、メディア風に贅沢を憶え豊かな生活に染まっているのではという周囲の危惧を見事にはねかえした。「邯鄲の歩」という諺があるが、クルは元の歩みも忘れてはいなかったようである。彼は後年理想的な君主として名を残すことになるが、多くの文化を学んだが故にそれぞれの文化を尊重することをも学べたのかも知れぬ。非征服民に対して寛大で、概ねはその旧態のままとした。これはその後の帝国運営の基礎となっているが、文化や宗教、習慣などを強要する場合、強要された側は激しい抵抗を行うことが火を見るより明らかであるし、強要する側にも多大なエネルギーが必須となる。それだけのエネルギーを維持することは難しいだろう。彼はエネルギーの効率的な使い方というものを良く理解していたのかも知れぬ。  クルはアンシャンでは槍術と弓術の名手であった。アンシャンを離れていた数年の間も勿論稽古は欠かさず続けていたが、現在はそれに騎馬の技術も加わっている。彼はあっというまに郷里の同世代の少年達の羨望の的になっていた。物惜しみをせず、明るく冗談好きな性格もまた、彼らの心を捉えたようである。  まっすぐに聡明に育った少年の姿に父王カンブージャは喜びの念を憶える一方で、微かな危惧をも抱いた。一個の人間としては聡明で明るく、素直で闊達が望ましい。しかし王というものはそれだけではいかぬ。王とは民を守り国を富まさねばならぬ存在の名前である。一夜、父王は息子を呼び細々とした注意を与えた。 「神々への祈願を怠らず、与えられる予兆を見逃したり見誤ることのないよう、またその扱いに困ることのないようにせねばならぬ」  それから、神の恩寵を受けるために必要な努力を怠ってはならぬと付け加えた。弓を引いたこともない者が弓の名人に勝てることはありえない。「天は自ら助くる者を助く」という。努力せぬ者にその恩寵を与えることはないのだ。父はまた、他の様々なことについても一つひとつに丁寧な注意を与えた。それは、軍隊を指揮する上で必要であり、また国を経営する者として必要なことであった。部下を強制させずに喜んで服従させ、かつ不満を抱かせぬように配慮すること。味方に対しては徹底的に誠実で公正な人であり、法を守る人であること。敵に対しては常に優位にたち、彼等に災厄をもたらすように悪事を学ぶこと。時としてそれが効力を発揮するなら嘘や方便をも厭わぬこと。友人達にするべきことと、敵対者にするべきことを弁えるように。と。王として必要な公正さを既にクルは十分に学んでいた。これから少年に必要なものは、敵としての不誠実さといえた。 「素直なことは悪いことではない。ただ、一国の主としてそれが裏目に出る場合、民に犠牲を強いることになりかねぬ。民あっての国。そして民あっての王だ。地位には責任が伴う。我らはそれを忘れてはならぬのだ」 「今まで教えて下さった事と逆のことを学べとおっしゃるのですね?」 「そうだ。一人のアンシャンの男として生きるだけなら、今まで教えたことを反芻して、それを踏み外さぬよう生きれば良い。しかし王というものはそうはいかぬ」  諭すような父の口調は、いつもの優しさや穏やかさよりも厳しさが見え隠れしていた。 「我らが狩猟を行うのは、戦いを学ぶ為だ。お前は獣の動きを見張り、その行動や性質を調べて味方を要所に配置するな? 罠を張った場所へ獲物を追いませて、狩る。勿論追い込む味方の存在と数、それぞれの速度についても、予め獣の性質を知悉しておらねば、上手く指揮することは出来ぬ。それは全て戦う為の技術だ」  そう言い切る父の顔に、少年は「王」を見ていた。それは、クルが手本とし、規範とする存在だった。  そして、人々を従わせるためにクルが学ぶべきことについて、カンブージャは噛んで含めるように言い聞かせた。聡明だと思い込ませることは、いずれ化けの皮を剥がされる危険を孕む。真に聡明な人になれ。と父は息子に語りかけた。  空は深い夜に包まれている。満天の星が一組の父子を静かに見下ろしていた。 十  クルは二十歳になろうとしていた。十歳の時には寧ろ小柄であった彼だが、がっしりと逞しく伸びやかに成長している。すっきりとした双眸は明るく、地位身分や経済力などで人を見下すことがない、思いやりのある青年になっていた。  メディアの牛飼の家、アンシャン王宮、メディア王宮、そして再びアンシャン王宮と。環境は違ってもそれぞれに深く温かい愛情に包まれて育った彼の傍には、常に人が絶えない。そんなある日、猟師が訪れた。「獲物をクル様に直接献上したい」との申し出に、客人を好む若い王子はそれを快く許可したが、それは狩猟好きな青年の心を計算しつくした上での行動であったかも知れぬ。差し出された兎を楽しげに受取った青年の耳に、その言葉はまるで呪文のように注ぎ込まれた。 「お一人の時に兎の腹を割いてご覧下さいませ」  不審を憶えつつもクルは、猟師の言葉通り居室で兎の腹を割いた。そこには羊皮に包まれたパピルスが入っていた。それは、かつてアステュアゲスによって愛息を殺され食べさせられた寵臣ハルパゴスからの密書だったのである。王子の頃より祖父アステュアゲスには粗暴な振る舞いがあったが、王位に就いて以来それが多くなったと批難する内容が認められていた。アステュアゲスはクルの祖父にあたる。そして馬術を教えてくれた恩人でもある。気に入ったものをえこ贔屓する癖は確かにあったが、クル自身はそれをされるばかりであったから、ハルパゴスの密書の内容は彼にとって判り難いものではあった。将来アンシャン王となるであろうクルと誼を結びたいというハルパゴスの求めを、青年は寧ろ冷ややかな気持ちで見つめた。長年仕えてきた王アステュアゲスに反旗を翻したいというハルパゴスを彼は信じるべきか否か? 父王カンブージャがメディアの軛を逃れたいと密かに願っていることを知ってはいる。しかし性急にことを運んではならぬし、もし見誤れば王の血縁と言えども彼は逆賊の名を蒙り悪くすれば極刑、良くても罪人として幽閉され余生を生きることになりかねぬ。まして。祖父アステュアゲスが赤子であったクルをかつて夢占の為に殺そうとしたことに思いを致せば、いくら可愛がった孫であるといえどもクルの命の保障はないとみるべきだろう。クルの独断で行ったと主張したとしても、血の繋がった他の家族……アンシャン王家にも累が及ぶのである。そして一方、害意を持つ者がこの密書を上手く活用すれば、ハルパゴスとクルとを同時に抹殺することが叶う。密書は陰謀の重大な証拠となりうるし、アステュアゲス王或いはその側近や近親が王孫に揺さぶりを掛けている可能性も捨てきれぬ。慎重に判断せねばなるまい。彼は密書を誰にも見つからぬ場所へと隠した。運命の歯車は、今再びクルを中心にまわりはじめようとしていた。  盛名を誇ったアジアの雄アッシリアが歴史の中に消え去り、メディアの栄華が光を失おうとしている時、青年は鮮やかに歴史の表舞台に登場した。伝説の存在ではなく、命ある人として。彼の名はクル。ヘラスの言葉(ギリシア語)でキュロスと呼ばれる彼は、アンシャン王カンブージャ(カンビュセス)の長子としてこの世に生を享けた。その母はメディア王女マンダネであり、血統からいえば母系の方がより名のある家系と言える。彼及びその祖父の生年に関していえば、多少疑問の余地があり、寧ろ王アステュアゲスを母の兄と見た方が年代的に納得行く場合もあるのだが。歴史資料を紐解いていくと、伝わるその全てはアステュアゲス王をクルの祖父としている。資料によって多少の違いはあるが、紀元前六〇〇年頃にクルは誕生し同五二九年に没したとされている。在世期間は単純計算で七十一年。戦死したとされるクルが七十の齢を越えて軍を指揮していたかどうか、謎は残るのだがそこまでは良いとしても。メディア王アステュアゲスについて多少問題が残る。彼の生没年は不明であるが、紀元前五五〇年迄は在位していたとされている。生涯に複数の妃と数人の娘を持ったようであるが、クルを産むべきマンダネ及びカルデア(新バビロニア)王嗣子(後のネブカドネザル二世)に嫁いだアミュティスのことを考慮に加えると、遅くとも紀元前六三五年頃迄にはアステュアゲスは誕生していなければならぬ。すると、紀元前五五〇年頃には九十に迫る高齢であった計算になる。当時の様々な状況を慮ってみるに、些か長寿過ぎるのではないかと思われるのだが。穿った考えと言われても仕方ないかも知れぬ。蛇足ついでに、クルの遠い子孫にあたる、小キュロスとして知られる王子キュロスはアルタクセルクセス二世の弟であるが、そのキュロス王子の部下クセノフォンが残した数多くの文献の一つに「キュロスの教育」という本がある。これは大キュロス或いはキュロス大王として知られるクルのことを書いた小説であるが、アステュアゲス王の死後にその息子キュアクサレスが王位に就いたことになっており、またクルの妻はそのキュアクサレスの娘(その場合、クルの従妹に当ることになる)であることになっている。年齢及びその他様々な状況を加味して検討すれば、納得したくなる文献資料であるが。恐らくはクルを理想化して描かれた、クセノフォンの創作であろう。  クルが少年の頃に培った馬術の技術を生かし、かねてからの念願であったアンシャン騎馬隊を結成したのはここ数年のことである。山がちな地形で馬を飼うのは困難があったが、彼は試行錯誤を繰り返してそれを現実のものとした。この時代、機動性は敵の包囲殲滅戦を目指した場合必要不可欠なものであったし、メディアやリュディアでは騎馬隊が活躍していた。彼にとっての仮想敵国がどこであったのかは謎であるが、その中に祖父が治めたメディアがなかったとは言い切れぬだろう。いずれにせよ、少年とその父が選んだ道は、いつか少年の祖父と対決せねばならぬ道であった。そしてその時は目前に迫っていたのである。それは、平坦という言葉からは程遠い、長く険しい道であった。 十一  クルの父であるアンシャン王カンブージャは穏やかな人柄を買われて王女マンダネの婿となった。人品卑しからぬ、かつ身分の高からぬ者をとアステュアゲスが熟考して選んだだけあって、思慮の深い人物であった。そのカンブージャがここのところ、少し沈んでいるようである。妻のマンダネもそれに気づいたようだが、自分では動かずクルに酒を持たせて父の機嫌を伺うようにと告げた。 「男同士の話をしてみたいとでも言ってご覧なさい」  そういって片目を閉じてみせた母は、どこか悪戯好きな少女のようであった。若くして彼を産んだマンダネだが、その子がこれ程にも成長しているというのに、今も瑞々しく若々しい。その母に見送られて、青年は父の元へと向かった。 「父上。ご一緒しても宜しいですか?」  爽やかで張りがあるのに、涼しさよりも温かさを感じさせる声に、カンブージャは振り向いた。そこには成長した頼もしい長男クルがいる。手にした酒は妃のマンダネが持たせたのだろう。と彼には見当がついた。知らぬ間に妻子に心配を掛けていたらしいことに気づき彼は自嘲したが、同時に連れ添った妻の配慮にも感謝する気持ちを忘れては居ない。妻であるマンダネは自分の妃であると同時にメディア王アステュアゲスの血をひく娘でもある。その彼女には言えぬ話もあるのだ。それを妻は暗黙のうちに了解していたものと見える。 「すまんな」  父はそれだけ言うと首を傾げるように微笑んで杯を受取った。クルはもう一つの杯を手に、父の隣に腰をかけた。夜の闇は深くあたりを包んでいる。草の上を渡る風は涼やかで、少し湿り気を帯びていた。  余計な言葉を発して沈黙を破ることは、クルには憚られた。父は恐らく母の配慮で自分が来たことを察している筈である。母は父からその理由を聞き出すことを目的にしている訳ではないだろう。ならば、少し傍に居て一緒に酒を酌み交わすだけでも良いのかも知れぬ。そう思いかけていたクルであったが。 「マンダネか」  思いがけぬ直球に青年は戸惑った。顔にかかる髪を掻き揚げる振りをして表情を隠そうとするが、上手くいったかどうか。 「図星か」  からからと笑う父を息子は久しぶりに見た気がした。 「父上には全てお見通しですね」  クルの戸惑いをからかうかのような父の笑顔が青年には眩しく見えた。 「良い夜だ」  杯をあおった父の横顔は、少しやつれ疲れているように見えた。 「久しく王宮から良い風評を聞かぬ」  父は訥々と話し始めた。クルには祖父、カンブージャには義父に当るメディア王アステュアゲスのことである。以前から気に入らぬことがあると粗暴な行いをする性癖があったが、それでも王子という身分のせいか、それなりに抑えられていたようである。箍が外れたのはアステュアゲスの父たるキュアクサレス王が没し王位に就いた頃からである。あるいは、元々そういった性向があったのかも知れぬ。このまま粗暴な行いが止まぬままなら、やがてメディアは瓦解する恐れがあろう。忠誠を尽くすべき譜代ではないアンシャン王家はそれはそれで構わぬが。と父はそこで言葉を切った。  母のことか。とクルには合点が行った。父王の話はその娘である母の耳にももたらされているに違いない。しかしそれを諌めるには、王女マンダネの位置は最早あまりにも遠すぎた。 「せめて…」  呟くような声を、夜風が吹き消す。 「父上…」  その声が、何か言いたげなものを秘めていることに気付いて、カンブージャは視線を息子に当てた。 「どうかしたか?」  言い淀み。しかしやはりこれは父に相談すべきだろうと青年は勇気を振り起こした。 「ハルパゴスという、王の寵臣を憶えておいでですか?」  クルの言葉に、カンブージャが片方の眉を微かに持ち上げる。その名に憶えがあったからに他ならない。確か、そう…。 「お前を殺すよう命令されて、牛飼のミトラダテスに委ねた男だ」  口中に苦いものが混じったとでもいわんばかりの、吐き捨てるような言葉にクルは次の語を続けるべきか否か戸惑っていた。アステュアゲスの機嫌を損ねず、その娘マンダネの不興をも買わぬよう。そして自らの手を汚さぬようにと上手く立ち回ろうとした男をクルの父は快く思っていなかったようである。 「その男が、どうかしたか?」  伺うような目つきは、刃物に似た鋭い輝きを失っては居ない。 「こんなものを私に送ってきたのです」  全てを投げ渡すかのように、クルは父にそれを委ねた。黙って持っていることは、父に対する背任となりかねぬ。一刻も早く渡すべきであったろうが、それを渡すことによって父をそして母を否応無く巻き込んでしまうことを、青年は何よりも恐れていた。カンブージャは密書に目を落とした。暫時そのままに見詰めていたが、やがて息子の重荷を分け合うように手を差し出して受取った。  密書には、アステュアゲスへの報復と謀叛を勧める内容が記されていた。今クルがこの世にあるのは、神のクルに対する絶大な加護と、王子アステュアゲス(当時)の命令に「正確に」従わなかった自身の功績が大きな影響を及ぼしていることを書き認め、ハルパゴス自身が被った悪夢のような出来事についても詳細に語っている。それを踏まえて、メディアの重臣に働きかけをしていること、クルがやって行きさえすれば寝返りの用意がいつでも出来ていることを暗示する内容になっていた。 「お前は読んだのか?」  父はどこまでも穏やかであった。 「はい」  静かに肯いたクルの声もまた、冷静であった。 「どう思う?」  既に答えを知っているような瞳がクルを捉えた。父上にはまだまだ敵わぬ。と青年は思う。ハルパゴスが祖父アステュアゲスの命令に「正確に」従わず、クルが生き長らえることが出来たのは事実ではある。だが、彼はそれを正しく意図していた訳ではない。それはあくまでも結果であり、牛飼ミトラダテスがその命令を忠実に実行していたなら、クルは既にこの世の人ではなかった筈である。青年は父に自分の考えを伝えた。  成長した息子の見識を、父は微かに笑うことによって評価したようである。 「私も同じ考えだ」  アンシャン王の心は、この時既に決まっていたのである。微笑みながら父は息子に語りかけた。これからのアンシャンの行く末について。  ハルパゴスは定期的に連絡を寄越した。王に懐疑を抱かせることを怖れてか、頻度は然程多くはない。しかし確実にある連絡は、ハルパゴスの妄執とも呼ぶべきものを思わせた。その使いは毎回異なる。訴訟を持ち込む民であったり、クルの幼馴染みであるメディア貴族の青年であったり。それらの人々は、恐らく遣いとして「使われた」ことに気付いてはいないだろう。姿を変えてクルの前に現れる「遣い」がもたらすそれは、少しずつメディア内部特に軍部や王宮の情報を漏らしていた。一つひとつの情報はさしたるものではない。だがそれが集合して一つずつ嵌め込まれていく時、ジグソー・パズルのように一つの大きな絵を描きだすのである。それはハルパゴスが描きだすメディア滅亡の絵画であった。獲物を追いつめる猟犬よりも狡猾に、彼は猟師たるべきクルに獲物…メディアを差し出して見せたのである。それは、かつてアステュアゲスの寵臣であったハルパゴスの、生涯をかけた復讐劇最初の一幕であった。 十二  引き絞った弓は限界まで力を矯めてから放たれる。右腕と左腕のバランスが釣り合い呼吸が調和した瞬間を見極められるようになるのが、弓の巧者になる第一歩と言えるだろう。  メディアという国は既に爛熟の時を迎えていた。熟柿が落ちるのを見守っている人間が、アンシャンに二人、メディアに一人居た。全軍を集結させたとしても、まだメディアの軍事力には敵わぬ。人を育て、力を蓄え、技術を磨いて。矢を放つ時をじっくりと見定める必要があった。急いては事を仕損じる。やがて失速する時を狙い、一撃で仕留めるのだ。そう言い聞かせる父王カンブージャは、恐らくクルの知らぬところで数々の辛酸を舐めたのだろう。それが息子には良く判った。国力というものをはかる時、それは国民の数だけカウントしたとしても意味がない。兵士として使える人間は、単純に計算しても総人口の半分に満たぬ。男女の比率だけでなく、幼老の者までもを従軍させることを最初から考えていては、戦いに敗北する可能性を高めるだけだ。  どれだけの期間軍事に集中しても生活を破綻させずにいられるか。ベースとなる首都の守りを固める兵士も無論必要である。メディア王宮を占領して首都を奪われたとなっては目もあてられぬ。軍隊の人数だけでなく質をも向上させねばならぬ。個人技がどれだけ光ろうと、それだけでは話にならぬのだ。戦争とは、大量の物資や人員を消耗するものである。決闘ならば個人の武勇が重要だろうが、人海戦術ともいうべき戦争では、それは局所的勝利にしか繋がらない。全体を見渡す眼力と全軍を破綻させることなく経営する能力がなければ、戦いは負けである。だが、戦いに勝ち得て、何を手に入れることが出来るかという問いを傾けられたなら。それを手にする前に目の前に累々と横たわることになる屍を見ることを忘れてはならぬ。それが味方のものか、敵方のものかは勝ち負けに関わってくるだろう。しかし。失われた命は戻ることはない。大国が小国を侵略することは、悪であり、小国が大国を攻めることは義である。という。しかし、小国が大国に勝利して、かつそれを侵略するのであれば、それは義と呼べるものだろうか?  クルが騎馬隊の組織を開始して、十数年の歳月が流れた。この年、リュディアではクロイソスが王位についた。クルの祖父アステュアゲス王の年若い妃アリュエリスの兄弟にあたる。彼は世界で初めて貨幣鋳造を行った人物でもある。同じ年、ラケダイモン(スパルタ)ではレオニダスの父アナクサンドリダス二世がアギス家当主となり王位を継いだ。歴史の表舞台では役者の交替が行われていたのである。リュディアとメディアの王家の婚姻による講和から十五年が経過していた。  かつて目元涼しい青年だったクルも壮年を迎えて、気力知力体力ともに充実した日々を送っている。懸案だった騎馬隊も、まだ不足ながら少しずつ規模を拡大していた。 「殿下」  勇猛さよりも穏やかさを感じさせる声がクルを呼んだ。王佐であり、クルの親しい友である。クルの父王カンブージャからの遣いであった。  カンブージャは王宮の中庭にいた。白いものが多くなり、肌には皺が増えている。六十半ばになろうとしているが、怜悧さを失わぬ眼光は鋭さよりもやわらかさが優っていた。結局マンダネ以外の妻を娶ることがなかった父だが、クルには複数の妃を持たせた。これからのことを考えての布石であろう。カンブージャがクル以外に子を持っていたか否か、記録には残ってはいない。マンダネという王女を妻として得た以上、主家であるメディア王アステュアゲスへの配慮もあったろうし、長男クルを殺害されかけたという事実を考えれば、それ以上子を持ったとしてもメディア王につけ狙われた恐れがある。恐らくは、それを懸念して子を作らず妻を求めなかったのではないだろうか。クルは父に深い尊敬を込めた眼差しを向けた。 「父上」  凛々しい佇まいに目を細めて頼もしそうに長男を眺めた父王は、ゆったりと微笑んだ。 「これからのことはそなたに任せる」  穏やかな微笑みのまま、カンブージャはクルを驚愕させる爆弾を放った。マンダネと二人、隠居してゆっくりとした日々を楽しもうと思う。そう告げた父は、既に確乎たる意志を固めているようであった。クルは抗ったけれども、結局は父王の意志に従わざるを得なかった。リュディアを震撼させる預言の成就は、もうすぐそこまで近づいていた。 十三  糸口を作ったのは、ハルパゴスであった。彼はアステュアゲス王の側近の一人に囁かせたのである。アンシャンのクルはメディアに叛旗を翻そうとしており、軍を拡充している。と。寝耳に水のアステュアゲスだったが、久しく会っておらぬ孫よりも、阿諛追従を並べて王の歓心を買う側近の言葉を重く見たようである。孫クルに久しぶりにアンシャンから出て来るようにという命令は、些かならず強硬であった。アンシャンは名義上、依然としてカンブージャが王である。だがクルがアンシャンを離れることは事実上不可能であった。しかし今メディアに不信感をもたれては元も子もない。それはクルにとっては苦渋の選択であった。  メディア王のもとにもたらされたクルの返事は王を完全に満足させるものではなかった。それには、クルの父であるカンブージャが重い病の床についており、アンシャンを離れられない旨が記されていた。カンブージャはアステュアゲス王にとっては娘婿である。見舞いの品を添えて遣いを発たせた。それは、かつてクルと共に学んだ少年の一人であった。やがてアンシャンから戻った遣いの報告を聞いて、アステュアゲスは眉を顰めた。それは、アンシャンを軽蔑するようなものであったからではなく、杜撰であったからでもなく、ただアンシャンを褒めちぎるものであったからである。報告の内容は、整備された街並みと規律ある軍隊、そして質素ながらもメディア王の正使をもてなそうとする心配りを思わせた。殆ど本能的なものと言って良いだろうが、アステュアゲスの脳裏に危険を知らせる鐘が鳴り響いた。遠い日に見た夢が思い起こされる。悪しき芽は摘み取っておいた方が良いだろう。しかし攻撃を仕掛ける口実が、ない。表面上、孫クルやその父である王カンブージャが礼を失した行動をした訳ではない。だが、早めに先制攻撃を仕掛けてアンシャンを潰して置く必要がありそうだ。とアステュアゲスは判断した。老齢にはなっていても、まだ頭は十分に働いていたようである。そして王は「口実」になりうることを探すよう、側近達に命令を下した。その人々の中にあのハルパゴスがいた。表情は変えぬまま、心の中でほくそえんでいた。  クルの元へハルパゴスからまた密書が届いた。アステュアゲスがクルの行動に疑問を持ち、先制攻撃のチャンスを狙っているという内容のものである。何故急にアステュアゲス王がアンシャンの動向に疑問を持ったのかについての理由は書かれていない。クルは首を捻りつつ、王佐である友人にそれを投げた。 「どう思う? アラスパス」  眉を顰めてパピルスを読み、クルの顔を見上げてゆっくりと口を開く。 「仕掛けたかと」 「そうか」  その声は意外な程に冷静であった。予想していたのかも知れぬ。 「恐らくはハルパゴスの自作自演。余程殿下をアステュアゲス王と対峙させたいものと」 「……私が預言をもって生まれたからだろう」  クルの眼差しは遠くを見ていた。幼い頃命を狙われた過去があったことは、十歳を過ぎてから知った。命を狙われたその理由を知ったのは、メディアから再度の帰国を果たした十五の時である。クルは驚愕した。たかが夢如きで人ひとりそれも自らの血を引く子を殺すのかと。牛飼ミトラダテスのもとで過ごした十年は夢のように遠い。王様ごっこの遊びがもとでアステュアゲスに見出されることがなかったなら、今もクルはあの野山を駆け回っていたかも知れぬ。しかし彼の運命はそれを許さなかった。アンシャンへ戻る事を許されたのは、類稀なる幸運と言えるだろう。まかりまちがえば命を失う羽目になっていた筈である。アステュアゲス王の酷薄さを思えば、寧ろそちらの可能性の方が高かった。谷の上に張られた綱の上を命綱なしに渡るような危うさであったが、しかしクルは生きのびた。それは天命を負っていたからではないか? 彼は次第にそう思うようになっていた。 「私はメディアの軛から逃れる」  その眼差しが追う夢は、アラスパスには遠いものであるように思えた。ごくり。と唾を飲みこむ。 「しかし、まだ」  軍の拡充はまだ終ってはおらぬ。今のままではアンシャンはメディアに無残に追い散らされるだけだろう。アラスパスは冷静に分析していた。 「ハルパゴスの望みは息子の復讐だ。ならば、諍いを起こすことが目的ではない。祖父が私に敗れ、メディアがアンシャンに敗れることが目的なのだ。一敗地に塗れた祖父を嘲笑うことが目的であるなら、それ相応の努力をするはず。現に定期的に送ってくる密書はメディア軍部の弱点を少しずつ挙げつらっている」  声を失ったアラスパスに、クルは不敵に微笑む。 「ならば、存分に利用してやろう。彼の復讐心を」  そこに在るのは、まぎれもなくアンシャンの王であった。王佐は跪いて深く頭を垂れた。  ハルパゴスは遠くを見つめていた。目の前の墓を見ながら、心はそこにはない。妻は心労がもとで先立った。ハルパゴスとて、復讐という目標を持たなかったなら、最早この世に存在を留めて居なかったかも知れぬ。血に汚れたあの虚ろな眼差しを、苦悶の果てに死んだやつれた顔を、思い出さぬ日はなかった。ハルパゴスの子はアンシャン王子クルより三つ年長であった。もし存命であれば、壮年を迎えていた筈である。その一粒種の息子の成長を、あの日まで共に見守っていた妻も今は遥か遠い。ハルパゴスはあの夜誓ったのだった。彼の大切なものを奪った者への復讐を。 「待っていろ。もうすぐだ」  何かに憑かれたような眼差しは、白く濁って澱んでいたが、それでも強く鋭い光を秘めていた。子孫という未来のない人生を、彼は復讐という目的を持つことによって、全うしようとしていたのである。閉ざされた闇の中を、明かりもないままに走り抜けるような人生をハルパゴスは選択した。それが彼に何をもたらすことになるのか、それは彼にとってどうでも良いことであったのである。その時は、もうすぐそこまで来ていた。  アンシャンでは軍備の増強が急ピッチで進められていた。アステュアゲス王が疑念を抱いた以上、一刻の猶予もならぬ。クルはそれを極秘に行うことを厳命した。仕掛けるのであれば、襲撃を予想されてからでは遅い。待ち構えられていてはいくら軍備を整えていても、彼我の軍事力に差があったとしても、守る側の方が有利であろう。速やかな進軍と電撃のような攻撃が必要であった。それに、いくらハルパゴスが熱心に活動したとしても、メディア全軍があっさりと寝返りを打つことを最初から計算に入れていては、愚か者の謗りを免れまい。ハルパゴスが敵対していると計算してなお勝てるように軍を整えねばならぬ。クルを誘い出してアンシャン全軍を殲滅することを目的としていないとは言い切れないのである。ハルパゴスがいかに息子の復讐を心に誓っていたとしても、それだけでハルパゴスを全面的に信じるのは、危険過ぎる。斥候を放ってその様子を確認する限り、その復讐心には疑いの余地はないとしても、ハルパゴス自身が騙されて操られているという可能性が皆無な訳ではないのだ。  クルは目を閉ざした。彼に与えられるべき未来を見つめるために。  メディアから正式な遣いが来たのは、それからすぐのことであった。クルは軍備の増強を悟られぬよう配慮して使者を迎え入れた。父王カンブージャへの見舞いの品には、妃でありクルの母であるマンダネへの贈り物も添えられている。前回の使者はクルの少年時代の友人であったのでやりやすい部分もあったが、今回はそうはいかなかった。かの「建築家」の父親であったからである。「王様ごっこ」のわだかまりが完全に解けたとは言い得ぬままにアンシャンへ帰国したクルに、「建築家」の父は冷やかであった。粗探しをしようとする者は猜疑心の強い目をしている。そのような目を向けられて晴れやかな顔をしていることが出来るものは多くはない。しかしクルは爽やかに久闊を叙すとその手を取って愛息「建築家」の様子を訊ねた。その穏やかで明るい微笑みには、ハルパゴスの復讐心を利用すると言い切った不敵さは微塵も感じられぬ。ただ懐かしく過去を思い、愛息のお陰で実の両親に会うことが出来たと感謝の意を述べるばかりである。言葉巧みに愛息と自身を褒めちぎられ、財宝と馳走の山を見せつけられては、猜疑心溢れる老獪な使者も態度を改めざるを得ない。ぎすぎすした空気を円やかなものに変えて行く手腕は、クルの本領発揮といえた。戻っていく使者ににこやかにクルは告げた。 「お祖父様が望むより早く、私は御許に参じましょう。そう王にお伝え下さい」  その意味を完全に理解し得たのは、隣に控えるアラスパスだけであった。  クルの返事を聞いて、アステュアゲス王は眉根を寄せた。王は孫の返答の真の意味を即座に理解したのである。彼は杖を支えに立ち上がった。 「よくもおめおめと戻れたものだ」  齢を重ねて声は既に嗄れている。「建築家」の父は何が王の不興を買ったのか理解出来ず、おろおろと見上げるばかりである。蛇のような目でそちらをねめつけられ、まるで金縛りにでもあったかのように身を強張らせた。舌打ちして捨て去るように視線を外し、王は口を開く。 「マゴスをひっとらえよ! クルを解き放てと言ったあの者を串刺しの刑に処すのだ!」  怒りを滾らせた瞳は燃えあがらんばかりの焔と狂気じみた光とを宿している。高齢のアステュアゲスがその声を張り上げることはかなりの努力を必要としたが、王は力の限りに叫んだ。 「メディア全軍に告ぐ。直ちに武装しアンシャンを攻撃せよ!」  祖父と孫と。運命の決戦の火蓋は、今まさに切って落とされたのである。 十四  メディア全軍が出撃の用意を整えている間に、アンシャン軍は既にかなりの距離を進んでいた。クルが祖父である王アステュアゲスに伝えさせた、その言葉の通りに。間に合わせの隊ではないことは、一目で知れた。磨きあげられた武具、整った隊列。衣類は簡素ながら清潔で、秩序のある隊であることが一目で知れる。しかし。とクルは思う。このうちの何人が永遠に家族の元へ戻れなくなるだろうか、と。犠牲は最小限が望ましい。しかし皆無ではありえまい。叶うのであればこのような戦いなど、ない方が良いのだろう。しかしアンシャンを抑えつけてきたメディアのやり方−−クルの祖父アステュアゲス王はそれが当然であると思っているに違いない−−というものを考えると、その軛から逃れたいと切実に願ってきた父カンブージャやアンシャンの民に思いを致さぬ訳にはいかぬ。租税は軽くはないが、メディアが要求する程度の搾取には耐え得るだろう。だが租税の重さよりも人としての存在の重さを、一つの民族として一つの民族の下にされることを、クルの父カンブージャは良しとすることは出来なかった。それを民に認めさせることは出来ても、己自身に認めさせることが出来なかった。クルはそれをいつも間近に見ていた。父がメディア王女との間に生まれた自分に未来と希望を託す姿を。 「お前には辛い選択を強いることになるが」  そう遠慮がちに告げる父は、親としての期待が過剰になっていることを自覚しているようだった。メディアとアンシャンとの間に生まれたお前だからこそ理解出来ることがあるだろう。その微笑みは、クルのがっしりした背の後ろに、まだ見ぬ未来の夢を描いていた。  メディアが軍備を整えている間に、「迎え」が来る前に。クルは辿り着いていた。祖父が待ち受けるメディアに。目端の効く者はアンシャン軍が見える前に脱出を試みている。 「逃げる者を追う必要はない。たとえ外部に救援を願ったところで、援けは来ない」  確信に満ちたクルの言葉を疑う者はない。 「殿下」  隣に控える王佐アラスパスが控えめに声を掛けた。頭を廻らし視線で先を促す。口ごもりながら言葉を続ける。 「御前に伺候したいと願い出た者が」  クルの目がきらり。と光った。  跪いたのは、まだ若い青年であった。年齢は三十になるかならずか。目を伏せて静かに佇む姿からは、裏切り者にありがちな暗さはない。 「お前の望みは?」  一瞥も与えず口調も変えずクルは訊ねた。その声に閉ざされていた瞳が開いた。 「メディアの滅亡を」  訝しげなクルに青年は語った。私もアンシャン同様、虐げられた民でございます。と。メディア転覆の機会をずっと待っていたという。 「その為に預言のお子、貴方様をお待ちしておりました。メディアを倒せるのは貴方以外にはおりませぬ」  熱っぽく語る青年を醒めた目で見遣ってクルは踵を返した。肩ごしに投げつけられた台詞は、お世辞にも心が篭もったものとは言えぬ。 「死力を尽せ。さすればお前の宿願叶う時もあろう」  去り行くクルに追い縋る青年の声は、悲愴でさえあった。 「お待ちを、クル様。私はメディア軍の弱点をつかんでおりまする」  一瞬立ち止まったものの、クルは振り向くことはなかった。 「メディアの弱点など私はとうに知っておる。お前如きに聞くまでもない」  情報が欲しくない訳ではない。いや寧ろ咽喉から手が出る程に欲しい。しかし手土産持参で投降する下衆をここでこれを許容することは、裏切りを奨励することになる。今はまだアンシャンに裏切る者は居ない。だが状況が変化したとき。一度裏切りを受け容れた事実があれば、それは全軍に望ましいこととして受けとられかねぬ。軍の規律を考えれば、この青年を容れる訳にはいかぬ。  アラスパスが青年の方をちらり。と見遣った。肩が落胆の大きさを示している。クルに受け容れられなくてはアンシャンに入れる筈もなく、脱出した今となってはメディアに戻れる筈もない。そうなると、次の行動は一つである。青年は懐に隠し持っていた剣を鞘から抜いてクルの背後から斬りつけようとした。  かん。  鋭く金属を叩く音が響いた。青年から目を離さずにいた王佐アラスパスがその剣を弾いていた。 「痛っ!」  衝撃でその剣は宙を舞い、少し離れたクルの足元へと落ちた。 「二枚舌を使い分けようとする者を信用する程私はお人好しにはなれぬ」  図星をつかれて口ごもり。力なく項垂れた青年の首筋に、冷ややかな言葉が滝のように落ちる。それは霧氷のように幻想的でいながら、鉄剣の鋭さを持っていた。 「人を謀ろうとする者は殊更に人をまっすぐ見つめるものだ。人を謀るつもりであるなら、自分ごと謀るつもりで話せ」  隣に控えたアラスパスに視線を与える。王佐が肯くのににやり。と微笑みを与えて、衣を翻す。来客は一人ではなかった。  二人目の来客は、ハルパゴスではなかった。線の細い体をたっぷりとしたメディア風の華麗な衣に包み、片膝をついている。 「ハルパゴス殿は見事アンシャン迎撃の軍の指揮官として任命されました。メディア軍が大打撃を受ける瞬間を見計らってこちらに寝返ります」  低めだがどこか細さのある声は、細い体格と相俟ってまるで女性のもののようだった。しかし女性にありがちな、なよなよとした湿り気とは一線を画している。寧ろ、男にはない針金の鋭さがその体には培われているようだ。クルはそう判断した。 「判った」  踵を返そうとしたクルの耳に、追いすがるような声が届いた。 「もう一つ。昨夜のことでございますが。かつて、貴方を庇って釈放を説得したマゴス(僧侶)は、王アステュアゲスにより串刺しの刑を蒙りました」  付け加えて、再び顔を伏せる。細い肩が小刻みに震えているのが見えた。 「そなた。あのマゴスの娘か」  マンダネを産んだアステュアゲス王の妃の一人…クルの祖母の寵愛を受けたマゴスが、妃の寵愛を損ねぬ為の行動であった。とクルはそう聞き及んでいる。しかし、アステュアゲス王の最終判断に大きな力を与えたことは事実であろう。娘は小さく肯いた。 「我らは、明日メディア軍と交戦する。そなたは己が手で敵を討ちたいと願うか?」  けしかけるでもなく、つきはなすでもなく、その言葉は娘の上に降って来た。迷いも躊躇いもない、凛とした眼差しがクルを捉えた。娘は徐に口を開いた。  メディア軍は戦場に展開していた。アンシャン軍は既にその前に布置を終えている。今回は騎馬隊を後ろに退かせ、クルは視線を遠くメディア王宮へと投げた。先頭は比較的まとまった隊形をとった歩兵である。各自長槍を一つ短槍を一つと、盾に剣を持ち、簡単な甲冑を身につけている。対するメディアは機動性に優れた騎馬隊が先頭であった。 「殿下」 「焦る必要はない」  戦闘開始の合図が辺りに鳴り響いた。逸る兵士が全力で疾走を開始している。意味のない雄叫びが響いて、メディア騎馬隊もまた、前進を始めた。指揮官の数人はアンシャンの歩兵隊を嘲笑うように、殊更に疾走を開始した。  進軍のスピードに、ばらつきがあった。アンシャン軍はほぼ一列で多少の波はあるにせよ、ある程度の範囲に収まっている。しかし逸るメディア軍には突出した箇所が幾つか認められた。それを危険だと見た者はいたが、戦闘が開始された今となってはどうする術もない。指揮官にそれが伝わっていれば退却命令が出される可能性もあるだろうが、その兆しは全くなかった。 「アラスパス!」  鋭くクルが王佐の名を呼んだ。アラスパスがさっと右手に掲げた旗を力強く振り始めた。  ずざざざざ。地を引きずるような音が響く。 「うおおっ?!」 「なんだ、何が起こったんだ?」  メディア軍先頭集団の一部はそのままアンシャン軍へと雪崩れ込んだ。そして突出しすぎていた一部の騎馬隊は、突如として地面から飛び上がった縄によって馬の脚を絡めとられ、その場に落ちた。後ろから続いていた部隊は突如として視界が開けたことを訝ったが、その理由を僚友の凄まじい悲鳴によって理解した。落馬したあと、乗馬の蹄によって腹を蹴られ、内臓を傷つけられたものもいる。抜き身のままの剣や短長の槍…味方の持っていた武器によって重傷を負った者もいる。敵のそれでなく己の血に塗れた精兵の姿は、凄惨を極めていた。顔や足などを潰された体もあった。その顔つきは断末魔の凄まじさを改めて思わせた。  戦闘開始とともに、メディア軍後方からも鬨の声が上がった。メディア軍中枢は後ろからの声に戸惑いを見せたが、それがアンシャン騎馬隊の襲撃だと気づくまでに然程の時間を必要とはしなかった。 「クルめ…」  苦々しげに吐き捨てたのは「建築家」だった。クルにまるめこまれて帰国した父は、アステュアゲス王の不興を買って耳と鼻とを削ぎ落とされた。まるで化け物のような姿にされた父は息子に、クルに対する報復を命じたのである。しかしこうもあっさりクルに裏をかかれるとは思ってもみなかった。戻れば王が彼を父と同様厳罰に処すだろう。彼は一瞬で行動を決めた。直ちに軍を離脱したのである。混乱の最中でそれを見咎めた者は居なかった。いや殆どが投降し、また逃走を図っていた。同じ穴の狢は、メディア全軍にいたのだった。  まず輜重隊を押さえよというクルからの命令を、騎馬隊指揮官は忠実に実行した。食糧や武器を抑えられては抵抗もままならぬ。こうして戦闘開始からいくらも経たぬうちに、メディア全軍はクルの掌握するところとなった。半数以上の者がメディア軍総指揮官ハルパゴスに従ってアンシャンに寝返り、残りのうち大多数の者は戦意を失って投降し、また一部の者は戦線を離脱した。多少の抵抗はあったものの、戦いが決着を見るまでに、一日は掛からなかった。  静まり返ったメディア王宮は、もぬけの殻と言って良かった。力を失った王が玉座にもたれかかっている。ハルパゴスはちらり。と王を見遣った。ざまあみろ。と言ってやるつもりだった。だが、今はどこか虚しい。宿願は叶った筈だった。しかしこの胸の空虚さを埋める術を、彼はどこにも見出すことは出来なかった。 「ざまぁねえな、アステュアゲスよ」  どこか荒んだ声を漸く搾りだす。焦点を失っていた目が目標物を見付けたようにハルパゴスを見据えた。意外な程の冷静さに、思わずハルパゴスは唾を飲みこむ。 「愛育した孫によってその座から追い落とされ、国王から奴隷の身分になり下がった気分はどうだ?」 「お前はあれ(クル)のしたことを自分の手柄だと思うのか?」  一瞬言葉に詰まりかけ、しかし思い直した。 「そうともよ。お前の孫に叛旗を翻すよう促す手紙を書いた。そしてお前に不満を持つメディア貴族を説いて背くよう働きかけた。当然このハルパゴスの手柄よ」  倣岸不遜を装いふてぶてしく言ってみる。 「お前は愚か者だ」  項垂れたままの王が呟いた。もしそれが真実自らの手でもたらされたものであるなら、自分が王になれたろうに。あの料理のことを根にもってメディアの同胞をアンシャンの奴隷にしたのか。と。その言葉を聞いたハルパゴスは笑い飛ばした。 「このハルパゴスがそれを行えば、それは単なる簒奪に過ぎぬ。預言という運命を背負った子、そしてお前の孫だからこそ。大義名分が成り立つ。そしてお前も他人ではなく、孫にしてやられた哀れな道化に成り下がるというわけだ」  我が子の復讐を終えたハルパゴスは哄笑した。その脳裏に、最早永遠に奴隷にも主人にもなり得ぬ少年の、在りし日の輝くような笑顔が浮かぶ。その後ろには今は亡き妻の慈しむような微笑みが見える。哄笑は次第に鳴咽に変わっていった。長い夜の終わりであった。  かつて王だった男は、その姿を呆然と見つめていた。  クルは、祖父に勝利した。いくつかの文献に、その後のアステュアゲス王の処遇について書かれている。いくつかは処刑したとし、またいくつかには死ぬまでその面倒を見たとある。クルの母でありアステュアゲスの娘であったマンダネがその時存命であったかどうか不明だが、もしマンダネが存命であったなら、その助命を願ったに違いない。  クルはメディアとアンシャンを統べる「王」となり、アンシャンはメディアの軛を逃れた。「アケメネス朝ペルシア帝国」はカンブージャの死とクルの登極を以って成立とされる。それはクルのメディア征服から二年ほど後の、紀元前五五〇年のことであった。 十五  リュディアに伝えられたデルフォイの預言の一つに、騾馬の王という言葉が登場するものがある。それは、今の王統の創始者であるギュゲスが、リュディア王としての地位をデルフォイに認められた時に得た神託であり、騾馬が王となればリュディアは滅ぶだろう。というものであった。騾馬とは牡驢馬と牝馬の間に生まれた雑種の生物であり、それが人間の国を支配する王となることはありえぬ。ならば、国がいついつまでも保たれるということであろう。とギュゲス王は解釈していた。それから数代後の王クロイソスは、嫡子アテュスを失って以来神託にのめりこむようになる。デルフォイに数多の財宝をつぎこみ、幾多の神託を得た。そのうちの一つに「クロイソスが河を渡れば、大帝国を滅ぼすであろう。ギリシアで最強の国を調べ同盟せよ」というものがあり、また別に「唖の子(アテュス以外にクロイソスにはもう一人、子がおり、その子が唖であったため、唖が治るにはどうしたらよいかという神託を求めたことがあった)の声を聴くことを欲すること勿れ」というものがあった。その真意をクロイソスが知るのは、もう間近に迫っていた。  ハリュス河を国境として取りきめたのは、それぞれ先代の王である。メディア王キュアクサレスとリュディア王アリュアッテスの間に結ばれたその取り決めは、紀元前五八五年に定められ、両国の王子王女の婚姻を条件としていた。それから早くも三十年という歳月が流れている。その間、両国は多少の腹の探り合い程度はあったが特にいざこざもなく、円満のうちに次世代へと王位は受け継がれていた。そのバランスに変化が生じたのは、メディアがアンシャンによって征服された紀元前五五二年のことである。それまで、アンシャンと直に国境を接していなかったリュディアは、忽ちに新興勢力の脅威に晒されることになったのである。しかしそのアンシャンの脅威或いは真価について、詳しく知るものはまだリュディアにはいなかった。そこにクロイソスの誤算があったと言える。聡明を誇るものは相手を過小評価する傾向がある。見えていたとしてもそれはフィルタが掛かったように、その者の目には映りこまない。しかし。滅びるまで目を醒ますことが出来ぬ者が、真に聡明であると言えるだろうか?  アンシャンとの決戦を前に、クロイソスは同盟諸国へ遣いを出していた。勝てる戦いならなおのこと慎重に、敵より多く兵を集めねばならぬ。世界で一番精確なデルフォイの神託は、リュディア王クロイソスとその国を祝福しているかに見えた。鍾愛深かった嫡子アテュスを失ったあと、クロイソスは継がせる者の居なくなった王国の版図を拡大することに意欲を燃やしていた。惜しみなく財宝を神殿に寄進し、神託を乞い。神の恩寵を希った。それだけのものを寄進しているのだ。神が恩寵を垂れ賜わぬ筈がない。リュディア王はそう確信していた。  その年、メディアから一人の男が亡命してきた。名を、アルテムバレスという。年の頃は五十に満たぬところであろうか。貴族的といえば聞こえは良いが、メディア王に近いという血統の良さを鼻にかけるところがあって、些か高慢な振舞いが目立った。頭の回転の速さは不明だが、その小さく小狡い目が、油断ならぬ人物であることを思わせた。そのアルテムバレスが日毎夜毎クロイソスに囁きかけている。アンシャンを攻め滅ぼせ、と。それは甘い蜜のような誘惑であった。かつて授かった神託もまた、その甘い誘惑の後押しをしている。時宜など待つまでもない。自分が攻めていけば敵は敗れるのだ。そう耳元で繰り返されているうちに、やがてクロイソスは、自分がいまや大帝国となったアンシャンを滅ぼす運命をもって生まれたのだと思うようになっていた。実際に、リュディアは近隣諸国随一の騎馬隊を持っており、その馬上から繰り出される長槍による攻撃には定評があった。勇猛果敢と武勇とは、リュディアの人々のためにある言葉であると思う者は少なくなかったから、クロイソスの考えに同調するものがいたとしてもおかしくはない。それが徐々に運命の歯車を狂わせていくことになると予想し得たものは、まだ多くはなかった。  リュディア王はカッパドキアに兵を進める準備を調えていた。唯々諾々と従う人の多い中、一人だけそれに異を唱えた人物がいる。サンダニスというリュディア人であった。その要旨は非常に的を射たものではあったが、クロイソスの慢心を説得するには至らず、かくしてリュディアにも風雲急を告げる事態が迫ってきていた。日夜アルテムバレスが耳元に囁き入れた言葉のせいもあるが。クロイソスが兵を進めようとしたもう一つの理由は、仇討ちであった。メディア王でありクルの祖父であったアステュアゲスは暴虐の王として知られていたが、その妻はクロイソスの姉妹であり、言わば二人の王は義兄弟にあたる。リュディア王はクルが自分の祖父を下しメディアを征服したことに憤りを感じていた。傍からいやクルからみれば寧ろそれは言いがかりに等しいが。それをクロイソス自身は義憤と考えていた。認識の食い違いは意見の食い違いに繋がる。かくして。かつてのメディアとリュディアのように、対峙し。しかしこの時は月蝕も日蝕も起こらなかったので、結果はかつてのメディアとリュディアのように講和締結では終わらなかった。  両軍が対峙したのは、プテリアというカッパドキアの一地区である。この地区では最も要害堅固な場所であり、リュディアはここに陣地を構えて地域住民の田畑を荒らしまわり占領奴隷化し。加えて近隣の町も全て占領して、人々をかき集め或いは強制して立ち退きを命じた。クルとてもさして変わるものではない。自らの軍隊をあつめ、通過する地域民を悉く引き連れていった。また、軍隊を動かす前にイオニア諸都市に使者を送り、リュディアからの離反を促した。大多数のイオニア人はそれに従うことを潔しとせず、両軍は対峙して陣地を構えることとなった。こうして、何の罪もない人々も、否応なくアンシャンとリュディアとの戦乱の禍に巻きこまれていったのである。それは紀元前五四六年のことであった。 十六  ハリュス河は、かつてメディアという国が存在していた時、リュディアとの国境であった。メディアが滅亡した今、それはアンシャンとの国境を意味しない。その河をクロイソスが渡ったのは、数日程前のことである。 「私は河を渡った。アンシャンは、神の御意によって滅ぶであろう」  預言者じみたその物言いを、咎め立てるものはおらぬ。絶対の自信に満ちた君主にたてつける者は、多くはない。そしてまた、その自信を覆す根拠を挙げることが出来る者は、更に。勇猛なリュディアの民人は、聡明を以って知られるクロイソス王に粛々と従うのみである。豊かな未来を夢見る目は、クロイソスの背に黄金で縁取られた夢を見ていた。  リュディアとアンシャンの戦いが繰り広げられた。その力と力は、恐らく互角であったといえよう。激しい戦闘は朝から続いている。凄惨な戦場に転がる戦死者は、最早少ないとは到底言えぬ。勝敗の行方は不明なままに、徒に死者と負傷者が量産されていく。力尽き倒れる兵士の弓は折れ槍は砕けて、血に塗れていない者を捜す方が難しい。それほどに血生臭い戦場であったといえた。それは全体の指揮を行う王とて例外とは言えぬ。先陣を切って立つことは暴勇を貴ぶ行為と言えるが、しかし絹の帳の中で多くの兵卒に守られている王を尊敬出来る兵士は、少ないだろう。そういう意味に於いていえば、どちらの王も勇気のある君主と言えた。日が落ちるまで戦いは勝敗を決することがかなわず、物別れに終わった。クロイソスは自軍の思わぬ苦戦を見て、一旦兵を退くことを全軍に命じた。既に秋も終わりかけている。戦いが長引かずとも、そろそろ冬に突入しそうである。自軍が兵を退けば、アンシャンもまた兵を退くに違いない。決戦は来年の春とリュディア王は見ていた。ならばこの新興勢力を封じる同盟を更に強固にし、その戦いに備えねばなるまい。クロイソスは急ぎサルディスに戻ると、同盟諸国に遣いを出した。  朱と紅を混ぜたような夕暮れの中で、クルは荷物を載せた輜重部隊の駱駝を見ていた。その色は、普段のやわらかな茶色ではない。橙色に近い明るい色は、夕陽の色に溶け込むような色だった。薄茶の沙漠の海の中で、駱駝は力のある色を唯一持っている生物であった。クルはふと遠くを見る眼で駱駝を見遣り、じっと考えこんだ。  クロイソスは、自信を持っていた自軍がクル率いるアンシャン軍より劣勢であったことに気付いていた。自軍を増強せねばならぬ。もう冬が迫っていることでもあるし、春になるのを待って集結するよう同盟諸国に使者を送ろうと算段していた。その同盟諸国には、エジプトやカルデア(新バビロニア)などの名が連なっている。更にラケダイモン(スパルタ)へも使者を送りだしたのは、かつて受けた預言が気に掛かっていたせいであろう。