第一章イオニアの華 四、スキュティア遠征 一  ダレイオスは遠征の準備に余念がない日々を送っていた。四方へ使節を送り、それぞれの国へ兵糧や軍隊、艦船の拠出を命じている。その様を横目に見ながら声を掛けてきた人物が居た。 「陛下」  人柄をしのばせるような控えめで良く響く低音である。パピルスの書類に目を落としていたペルシア王ダレイオスは、ふと顔をあげた。弟のアルタバノスである。壮年を迎えた弟は、文武両道を以って知られ、国の内外を問わずその見識からも一目を置かれる存在であった。 「どうした」  声音に優しい響きがあった。弟の表情が些か堅い。労るような響きをもった言葉であった。 「スキュティアを攻撃するのは大変な困難を伴うことと存じます」  緊張した面差しがダレイオスを見つめた。 「諌止に来たか」  少々うんざりしたような表情で、身を深く玉座に沈める。弟が遠征を止めに来たのは今回が初めてではない。遠方でもあり非常な困難を伴うこと、そしてそれが成功に終わったとしても結果得るであろう利益の少なさを説き続けてきた。濃い色をした目の奥に灯る真摯さは、疑いようもない。弟なりに兄を思いやっての行動なのだということは勿論ダレイオスにも理解できた。弟が諌止に来る度論争になり、一旦は弟が退くのだが。アルタバノスは根気良く何度も諌止にやってくるのだった。スキュティアが遥か遠い国であることは良く知っている。しかし彼の前の王カンビュセス二世もその前の王キュロス二世も、遠征を繰り返して現在の強大な帝国を築きあげたのだ。カンビュセス二世の子ならずして国を継いだ彼には、更なる遠征をして更に強大な帝国を築きあげることが半ば義務のようなものと思えた。今ここで引き返す訳にはいかないのである。 「困難は承知だ。しかし余はそれをなさねばならぬ。アルタバノスよ、もう何も言ってくれるな。これが国を継いだ余の責務だ」 「陛下…」  アルタバノスは掛けるべき言葉を失い、深く項垂れた。  ダレイオスがカンビュセス二世の後を継いで王になったのは、紀元前五二二年のことである。それから九年程の間、彼は王として国を治め、それなりの功績を残してきていた。カンビュセス二世没後の混乱期を何とか乗り越え、玉座を手に入れることが叶った時、彼は王として人々を納得させるだけの材料が要ることに気づいた。キュロス二世やカンビュセス二世がやったことは何か? そう考えたダレイオスには更なる遠征と更なる領土拡大が見えた。イオニア地方(現在の小アジア西岸)は僭主という手段を使って支配下に収めた。ダレイオスの目に映った次なる獲物はスキュティアであった。  目の前に平野が広がっていた。その手前には豊かな流れが見える。イストロス河(同・ドナウ河)である。正確にいうなら、平野というより湿地帯である。三角洲であり、大小様々の島がいくつもあるのだ。しっかりした島のように見えても、足を下ろしてみれば忽ちに沈んでしまうような、頼りない島もある。葦の群生地でもあるこの辺り一帯は、葦の根にちょっと土がついた程度の浮島も数多くあった。右手に広がるポントス・エウクセイノス(同・黒海)に注ぎこむイストロス河は、夏の日差しを水面に映して、きらきらと輝いてみえる。気温は比較的高いが、湿度は然程でもなく、爽やかである。何より、ペルシア本国よりも日差しが柔らかい。旅をするなら最高の季節であろう。それが、血生臭いものでなければ、尚更。  ダレイオスは振りかえって、来し方トラキアの方を見つめた。途中見かけた森では針葉樹と広葉樹があった。イストロス河を前にしたこちらでは、広葉樹の方が多いようである。何もかもがペルシアとは違うのだと改めて感慨を深くした。途中見付けた温泉に石柱を建てて自らの功績を称えてみても、大王そしてペルシアの父と呼ばれたキュロスには及ばぬ。もっと領土を広げ、数多くの民族を支配せねばならぬ。とダレイオスは思っていた。彼は、王位という名の馬に乗ったようなものであった。その馬は、凄まじい程の権力欲と支配欲の塊でもある。自ら欲して乗ったその馬は、奔馬。一度走り始めたら止まることを知らぬ、千里の馬。自ら望んで降りることが出来る人は、世に多くはない。  スキュタイ人がメディア地方に侵入したのは、ダレイオスの時代よりはるか以前のことである。今回それを口実にしたのは、単なるいいがかりに過ぎない。しかしそれはキュロス王もやっていたことである。ならば、それをやって何が悪いのだ。といわばダレイオスは開きなおっていた。ダレイオスが踏んだ全ての場所はペルシアになるのだ。そうやって皆支配下におさめてきた。アシアも、トラキアも。次はスキュティア。やがてはマケドニアもギリシアもこの手に。そうしてこそ、キュロス王を越えることが出来るだろう。眼前に立ちはだかる、巨大な壁のような存在キュロス。いつか必ず越えてやると決めた壁であった。  討伐軍の司令官がダレイオスに近づいてきた。 「この辺りの島は多くの兵士に渡らせては些か危険です。船橋を渡すことに致しましょう」  落ち着いたその様子は自信に満ちている。王は「うむ」と短く肯いて、西の方を見つめた。目に映る限りは平らかで、肥沃な土地に見える。その先には山が連なっているのだと途中征服したゲタイ人の首領は答えた。勇猛果敢な首領は他のトラキア人、スキュミアダイ人、ニプサイオイ人達などが抵抗もせず易々と屈服するのを苦い思いで見つめていた人物である。ゲタイ人はトラキア人に属するが、他の部族と行動をともにせず、その正義心からペルシアと真っ向勝負を挑んだのだ。結果は知れていた。ペルシア人の多くには無謀な抵抗と見られていたが、ダレイオスはゲタイ人の首領の勇猛果敢さを好み、相談役兼案内役として傍に置くことにした。或いは王としての器量を実際以上に大きく見せたいというパフォーマンスであったかも知れない。  三人居るというスキュティア王に、降伏を求める伝令を出したのは、その夜だった。イストロス河に架けた船橋を渡ったダレイオスは、橋を壊した後でついてこいとイオニア軍の司令官に声を掛けて出立しようとした。 「お待ち下さい」  やや遠くから声が聞こえた。ミュティレネ部隊を指揮するコエスである。これから王が行く場所は辺境の地で、人が住む町もまばらであるから、念のために橋はそのままに残して行くようにとの献策には、抜け目なく王への賛辞もちりばめてある。ダレイオスは快い言葉に気分を良くしながら、その献策を受け容れた。元々、ポントス・エウクセイノスをぐるっと沿岸に沿って進めばやがてペルシアへ戻れるというつもりでいたし、船橋を守る船員を戦力として加えたいと思っていた。だが、コエスの献策を取れば、スキュティア遠征に多少時間が掛かったとしてもいい訳である。イオニア軍船員の戦力を加えることが出来ないのは少々残念ではあるが、それでも同数のペルシア軍兵士程の戦力は期待出来ないだろう。そう判断した王は、イオニア軍に船橋の警護を命じて、六十日間待つようにと指示を下した。紀元前五一三年のことである。 二  スキュティアの三王は頭を寄せて考えていた。三人とも長髪多鬚で頬骨が高い。思いおもいの姿勢を取りつつ、時々視線を交えていた。天幕はそれなりの広さがあって快適であるが、重苦しい雰囲気があたりに立ちこめている。はるか古の王が三人息子に国を分割統治させたので、三王は縁続きであるが、それはもはや既に遠い昔のこと。それでもそれなりにやってこれたのは、時折娘を互いに嫁に出し合うなどして血の繋がりを保つ努力をしてきたことと、言語や文化生活基盤が共通のものであることが大きかった。スキュティア人は遊牧を生業とし、エウクセイノス・ポントス(黒海)沿岸に植民したヘラス(ギリシア)人と盛んに交易していた。三王の前にぶら下がっている議題は、ペルシア王ダレイオスからの降伏勧告である。一人の王が重苦し過ぎる溜息を、ゆっくりと吐きだした。 「かなりの勢力と聞き及んでいる」 「近隣諸国の援助がなくば……我らスキュティア独力で戦うことは流石に難しかろうな?」 「さすれば、周辺諸国を巻き込み、スキュティア奥地へ誘いこんで、撹乱し殲滅させるのが上策ではないか?」  三王は忙しなく視線を絡ませ合った。その中に微妙な駆け引きが含まれている。単独の民族ではなく、自分の部族のみでダレイオスを撃退出来れば、他の部族はその部族に従わざるを得なくなる。そう思わぬ者はない。だが事実上の問題として、兵力に彼我の差がありすぎる。 「諸王に使者を」 「うむ」  スキュティア近くの諸民族の王たちもまた、所と時とを変えて協議していた。ダレイオスの今回の標的はスキュティアである。ならば、それに関わり合いを持たぬ方が良いだろうという結論に落ち着こうとしていた。何より、遥か昔のこととはいえ、きっかけを作ったのはスキュティア側であるといえなくはない。しかし、言いがかりをつけてきた、野心溢れるダレイオス王がそれだけで満足するだろうか? 途中にある国や民族を征服することはほぼ間違いないだろう。ならば関わり合いを持たぬよう努力してもいずれは呑み込まれていく運命になりはしないか。消えぬ危惧が諸王の頭を過ぎった。一人の王の側近がそっと近づいてきた。王の耳元に囁きかけると、王の顔色が緊張を深めたものとなった。 「どうされた?」  隣にかけた別の王が訝しげに訊ねる。 「スキュティア三王からの使節団がやってきたと」  一座に暫時沈黙が降りた。 「ふむ」 「良かろう。話を聞いてやろうではないか。その言い訳をな。…通せ!」  使節団長は初老の男だった。若い男では重みがなく、軽んじられる恐れがあるからだろう。屈強な体格と眉尻に残る深い傷跡は、かつて男が歴戦の勇士であった過去を無言のままにしのばせた。 「スキュティア三王より、諸王方に援軍の要請を申しあげる」  張りあげた訳でもないのに良く通る声は、鍛練の深さを思わせる。その声は柔らかさをまといつつ、強靭な精神に裏打ちされていた。団長は淡々と、諸王との歴代の友誼について、そしてまたダレイオスの野心について語った。途中、スキュティアに何の関わりも持たぬトラキア人やゲタイ人を征服して向かっていることが延べられたとき、それを知らぬ幾人かの王から感歎するような吐息が漏れた。ダレイオス王がもし恨みを晴らす為だけにここまでやってくるというのなら、他の民族には手を出さぬのが筋。もし今圏外に逃れて座してスキュティアが滅ぶのを座視していれば、やがて諸族もまた全て残らず同じ憂き目に遭うだろう。そうなることのないよう、団結してダレイオスに当るべしと団長が語り終えたとき、満座の半数はその意見に傾いていた。 「ならぬ!」  まるで研ぎ澄まされた剣のように、鋭く言葉を発したものがあった。 「その男の言葉に惑わされてはならぬ。もしそなたらが、先に手を出していなくば、故なき侵略に対する抵抗として我等もその戦いに参加しよう。だが、此度はお主らに非があること、明々白々ではないか。お主らにペルシアを支配することを許した神々が、翻ってペルシアに同じ行為を以って報復することを許したに過ぎぬ。我等は今まで一度もペルシアにかようなことを行ってはこなかったし、これからもそのつもりだ。だがもしペルシアが我等を支配しようと攻め込んできたなら、それを甘受せずに迎え撃つだろう。だがそれを見極めるまでは動くまい。スキュティアに巻き込まれて無益な戦いに一族を巻き込まれてはなるまいぞ。スキュティアの為に大事な民を喪う義理はない」  その王はそう言い終えて立ち上がり、大股で歩き去った。諸王のほぼ半数が立ち去った王に同意してその場を去った。残った者はスキュティアに援軍を約束したが、正直どこまで信用出来るものやら。何よりそれだけの援軍でペルシアを撃退出来るとは思えない。だが焼け石に水でも援助がないよりはある方がいい。敵対されるよりは。団長は援軍を約束してくれた王たちに深く謝意を示した。  三王の許へ使節団長の報告が届けられると、方策が練り直されることになった。兵力の差は歴然としているし、諸王の援助が半分しか得られなかったのであれば、正面からの戦いは避けるべきであろう。スキュティア全軍を二手に別け、ゲリラ戦に持ち込んで少しずつペルシアの勢力を削ぎ、消耗させて撤退させることを狙いとした。戦っても得られるものがないなら、別に勝つ必要はない。負けなければいいのだ。その瞬間、方策が決定したのである。  ペルシア軍が進んで行く先には、井戸も泉も見つからなかった。おまけに草の根ひとつ生えていない、不毛の大地が続いているようである。ところどころに湿った土が見える小さな穴がある。途中の川や泉で汲んで持ってきていた水は既に底をつきはじめている。残っているのは王専用の水だけだ。これは、ペルシアのスーサを通って流れるコアスペス河から汲んできた水である。ペルシア王は常にこの河川の水しか飲まない。コアスペス河から汲まれた水を一旦沸騰させて専用の銀の器に入れ、四輪の騾馬の引く車に乗せて運ばせるのである。一人の人間の為のものでも、それが六十日を越える量となれば当然半端な量ではない。しかしそれは全て王ダレイオスだけのものである。他の人間が口にすることは一切許されぬものであった。それを一口でも口に出来れば。そう思う兵士が一人や二人ではなくなりつつあった。特に水を運んでいた者たちは、それが死と隣り合わせになる行為だと判っていても、底が見える程に減った備蓄の水を見る度、豪奢な車に載せられた豊かな水を思って咽喉をごくり。と鳴らさずには居られない。ペルシア人の食事は一日一度、ただしその一度の食事はかなり盛大である。多少絶食をしたとしてもそれが体に与えるダメージは然程大きくはない。だが、水はそうはいかぬ。人間の体の大半は水分である。餓えるよりも咽喉の渇きの方が深刻な影響を与えるのだ。兵士らの不満は高まりつつあった。水を捜す必要のないダレイオスを見つめる護衛兵の目が、徐々に殺気を帯びはじめていることに、まだ若い王は気付いてはいなかった。 三  三王の軍をニつに分割することについて、兵力をただ人数で分割するのではなく、指揮系統の混乱を招かぬ方法として、ニ王の軍を合流して一つとし、一王の軍をもう一つの軍として動くことに決定した。ニ王軍にゲロノス人とブディノイ人を加え、ペルシア軍よりも凡そ一日の行程分だけ先んじて進む。いや、行動内容を考えれば撤退である。  スキュティアでは、女子供の非戦闘要員と食糧と家畜とを、作戦行動に必要な分だけを取り分けて、北へと移動させていた。更に精鋭部隊を選りすぐり、前衛隊を結成する。イストロス河から三日程の行程を隔たった地点で前衛隊はペルシア軍を発見し、先の計画通りに一日分の行程だけ先んじて野営を行った。当然ながらペルシア軍は前衛隊の姿を認めると、その後を追って進軍していく。それが十日程も続いた後で、ダレイオスは全軍の停止を命じ、オアロス(ヴォルガ)河畔に駐屯させた。一旦城砦を築きそこを拠点にと考えていたのも束の間、ペルシア軍に追跡「させていた」前衛隊が全くペルシア軍の前に現れなくなった。ダレイオスはかの前衛隊がスキュティアの全軍であり、西方へ逃走したと考えはじめていた。全速力でペルシア軍を進めてダレイオスがスキュティア本土に到達した時、待ち構えていたのはニ王軍である。前衛隊と同様に一日行程の間隔をおいてダレイオスに後を追わせる。そして、同盟を拒んだ諸国に逃げ込んで行った。かねてからの、計画通りに。  メランクライノイとアンドロパゴイの国が、スキュティア軍とそれを追うペルシア軍によって蹂躪され、民は逃亡を余儀なくされたとの通報を受けて、アガテュルソイの王は威嚇を込めて伝令をスキュティア三王のもとへ派遣した。アガテュルソイの王は侵攻軍を撃退する用意を整え、国境の防衛を固める。メランクライノイとアンドロパゴイ、そしてネウロイの三国の王は先に協議の席で吐いた威嚇の言葉も既に念頭にはなかったものと見える。ひたすら無人の荒野を目指して遁走をはかったと聞いて、アガテュルソイ王は隣国の王の不甲斐なさに呆れながらも、逃げてきた民があったら保護するようにと、きびきびと臣下に命令を下した。  援助を拒んだ国々を、戦いに巻き込むことには成功したとは言い切れぬ。ペルシアに対して自ら進んで戦おうとはすまいが、同盟を拒否した国々に向かって撤退するようにすれば、ペルシア軍は知らずしらずのうちにその領土を侵すことになる。自らの領土を侵されたとなれば、厭でも応でも戦わざるを得まい。と判断していたのだが。思っていたよりもそれらの国々は柔弱の国であったようだ。早々にスキュティア軍の入国を拒否したアガテュルソイの王は流石に頭が切れると見えた。他国の惨状を知ってスキュティア三王の狙いに気付き、早速に伝令を寄越したあたり、若いとは聞くが切れ者であることを感じさせた。可愛いげはないが、王としては有能と言えるだろう。自国民を巻きこまぬという意味において。二王軍は、入国拒否されたアガテュルソイの方をいまいましげに眺めつつも、ネウロイの国からスキュティア本土にペルシア軍を誘導することに決めた。  ペルシア軍を翻弄しつづけるスキュティア軍の行動に、業を煮やしはじめていたダレイオスから、騎兵の一人が派遣された。それは、戦うか、従うか、どちらかを選べという内容である。スキュティアのニ王は顔を見合わせてにやり。と笑った。スキュティアには、荒らされるのを恐れるごとき町や果樹園はない。戦いを急ぐ理由とてない。強いて荒らされることを恐れるものは、先祖の墓くらいである。しかしそれをダレイオスが発見することは困難を極めるだろう。それが可能なら、試みるが良い。そうダレイオスへの伝言をことづけた。 「我が崇めるは先祖と神のみ」  二王はそう嘯いた。  スキュティア一王軍は、イストロス河畔の警備に当っているイオニア軍との交渉に当るべく出発した。ニ王軍はペルシア軍引き回し作戦を中断し、兵士が食糧を求めて出動する時を狙って襲撃を開始した。ゲリラ戦である。昼夜を分かたず出没しては攻撃してくるスキュティア軍に、ペルシア軍は息をつく暇もなく防備に当たらねばならない。ましてやスキュティアにとってはここは庭のようなものである。スキュティア軍は神出鬼没である。それに手を焼くペルシア軍は、スキュティア三王の掌上で踊らされているかに見えた。  二王の軍が新たに考案した作戦は、些かならず奇妙なものであった。それは、少数の家畜と牧人をペルシア軍に捕捉されやすい場所に置きざりにし、自分達は移動する。というものである。少数ながら戦果としてペルシア軍はこの家畜を手にいれ、意気が上がる。そしてまた暫時何もない状態があり、また適当なところで少数の家畜と牧人を…ということを繰り返したのである。一度や二度なら良かろうが、何度も重なれば、戦果と言える程のものではないことに改めて気づき、ペルシア軍は当然ながら途方に暮れることになった。混乱し、またその目的が何なのかを理解出来ず苦しむことにもなった。客観的に見れば、寧ろさっさと追い出した方が良いと思いがちだが、スキュティア三王は長く異郷の地をペルシア軍が彷徨って、万事に事欠くようにしむけることを良しとしたようである。その思惑が当ったかどうかはともかく、ダレイオスは思考の迷宮に陥った。それを知ってスキュティア三王がペルシア軍中に贈ったものは、小鳥と鼠と蛙に五本の矢である。ダレイオスがその贈り物の意味を問うと、使者はそれを渡すと早々に立ち去るように命じられただけであると答え、またペルシア人に知恵というものがあるなら自分で判断すれば良かろうと冷然と言い放って去った。贈られたペルシア軍ではその意味を解釈しようとした。ダレイオスの見解はペルシア軍に従うという意味であろうという如何にも彼らしい発想であったが、それならば「土と水」のそのものを贈る方がより正しいだろう。しかしペルシア王の傍近くに控えた七重臣の一、ゴブリュアスの意見はそれとは真逆のものであった。 「これは、鳥のように空を飛ぶか、鼠のように地へ逃れるか、蛙のように水の中へ飛びこむかしない限り、矢に当って命を落とすぞという、スキュティア王の恫喝ではと」  普段はどちらかというと豪胆な行動が目立つゴブリュアスであったが、その意見はスキュティア王の動きを考えれば、納得出来ると言えた。  丁度その頃。スキュティア一王の軍は、イストロス河畔に向かっていた。目的は、ダレイオスの帰路となる、船橋である。それを守っているのは、イオニア部隊。ペルシアの圧政の下に喘いでいる人々である。交渉の余地は十分以上にあると、一王は判断していた。  使者は船橋の近くまで来て、戦意がないことを知らせるために鎧や武器の類を、地面に置いて近寄る。当初警戒していたイオニア兵も、丸腰で来るらしいスキュティア兵が害意を持たぬことに気付いて、表情を少し和らげた。数歩程の距離を置いて立ち止まった使者に 「何の用だ」 「お主らにいい提案を持ってきたのだ。指揮官殿のところへ案内して貰いたい」  そう言った使者はにやり。と笑った。警備兵二人は顔を見合わせ、指揮官に使者が来た旨を伝えさせた。 四  イオニア部隊の指揮官達は、スキュティア王からの使者を囲んでいた。 「我等はお主らに自由を与えにきた」  スキュティア王の使者はそう指揮官達に告げた。威風堂々としたその様子は、傲岸不遜な微笑みとあいまって、自信の深さを窺わせた。長髪多鬚で頬骨が高い民族である。 「我等の言うことに耳を貸す気になりさえすれば」  ひそひそとした私語が各所で交わされる。 「どういうことだ?」  詰問調の声をあげたのは、ケルソネソスの僭主であるミルティアデスである。アテナイ市民としての資格を持ち、名家フィライオス家の血を引く人物であるが、様々な事情からペイシストラトス一族によりケルソネソスへ派遣されていた。謀略によってケルソネソスの支配権を掌中におさめた。利に聡く万事に目端がきく彼は、今まさに男盛りである。妻はトラキア王の娘であるが、現在身重であった。 「我等スキュティア人は、かのペルシア王とお主らとに交わされた約定を承知している」  使者が語り出したのは、ダレイオスがあの船橋を離れた日のことである。本来は壊してしまおうと思っていたダレイオスが橋を残しておくことを決定したのは、ミュティレネ部隊指揮官コエスの建言を受け容れてのことだった。六十日間の船橋の守備をイオニア部隊に命じたのである。 「即ち、約束の日数だけ待ったら、さっさと壊して帰国されることをお薦めする。ダレイオスとの約束を守るのであれば、その咎めを受けることはなかろうし、我等もお主らを害することはない」  その言い方には何やら引っ掛かるものがあるように思えたが、使者に対してはその通りにすることを約束した。  スキュティア王の使者が去っていくと、指揮官達は協議を催した。即ち、使者の言葉の真意とその内容についてである。謀略の匂いを感じとれぬ者がこの場にいるのなら、それは不敏であるといえた。  スキュティア二王軍は、決戦の準備にかかっていた。歩兵と騎兵とを配備して、ペルシア軍に対する陣形を組む。今まさに出撃というその瞬間、一羽の兎がスキュティア軍の眼前を通り過ぎて行った。それを見たスキュティア兵は次々に兎を追って隊列を乱し大声を挙げて走っていく。少々離れたところからその様子を見たダレイオスは、何の騒ぎかと側近に尋ねた。その答えを聞いてダレイオスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。 「よくよく侮られたものだ。…先日の贈物も、ゴブリュアスの見解が正しかろう。しかし、判らぬ。彼奴らは何故にこれほど我等を引き回すのか?」 「手に負えぬ民族であるとは察しておりましたが、これほどとは…。これはもしや、我等をこの地に引きとめて、故郷へ帰れぬようにする為ではないでしょうか」  ゴブリュアスの意見で、ふとダレイオスは思いあたった。六十日の船橋のことである。 「船橋…」  唇から零れた呟きに、ダレイオス自身が驚愕していた。 「そうだ、船橋だ。六十日を経過すれば、船橋は破壊されイオニア部隊は去ってしまう。そうなれば、我等は帰国が難しくなる。スキュティア王の狙いというのはもしや…!」  血が冷えた。青ざめた顔に冷たい汗がたらり。と落ちていく。今日は何日目であろうか、とダレイオスは頭の中で日数を数えた。船橋のところまで、何日で戻れるか、ダレイオス自身にも判断がつかぬ。近道を知っている訳ではない。来た通りに戻れば、それだけの日数がかかる。しかも邪魔が入る可能性が極めて濃厚であるのだ。それも、ここの場所を庭と心得ているような者たちの。 「王」  力強い声が、近くで呼びかけた。 「戦うに難のある者たちと、傷病者、それから失っても構わぬ者と、驢馬を用意して頂けますか?」 「何をする気だ?」  ゴブリュアスは、微笑みを深くした。  その夜。ペルシア王の陣地では、いつものように篝火が焚かれていた。ダレイオスは準備が整ったという報告を聞いて、満足げに肯いた。 「出立!」  ペルシアの王は凛々しく威厳溢れて、堂々たる偉丈夫ぶりである。それに従う全兵士は感歎の溜息を漏らした。男と生まれたからには、ああなりたいものだ、と。  ダレイオスが出発すると、一斉に驢馬が凄まじい嘶きをあげた。 「王様が精鋭部隊を率いてスキュティア攻撃に向かわれるそうだ」 「我等はその間陣地をしっかり警備せねばならんぞ」  各所で明るい会話が聞えた。驢馬の悲痛な悲鳴とは裏腹な程に明るかったそれが、夜明けには怨嗟と変わることも知らずに。  真っ直ぐにイストロス河に向かいたいところであるが、方角を把握している者はダレイオスの軍中には皆無である。来た道をそのまま戻る他はなさそうであった。既に五十日をとうに過ぎている。あと数日の間に船橋のところまで帰ることが出来なければ、帰る為の橋を破壊され、ペルシアへ帰国することは叶わなくなるだろう。正規の道作りがされていない道なき道を、それでもダレイオス率いるペルシア軍は全速力で駆け抜けた。罪なき犠牲を置きざりにして。  夜が明けて、ダレイオスに置き去りにされ裏切られたことを知った人々は、スキュティア王の前に投降した。ペルシア王の計略に嵌まったことを悟ったスキュティア三王は、急遽ペルシア軍を追ってイストロス河へ向かった。途中でダレイオス軍を捕捉することがあれば決戦に持ち込むつもりでいたが、先に船橋に到着したのはスキュティア軍であった。スキュティア軍は騎兵部隊であるが、ペルシア軍は大部分は歩兵である。速度に差が出るのは是非もない。何より土地鑑の有無が各軍の移動速度を大きく別けていた。恐らく既に約定の六十日を越えている筈だが、イストロス河の船橋はまだあった。かつての申し出を「その通りにしよう」と言いながらも実行せぬイオニア人に、スキュティア軍は苛立ちを隠しきれずにいた。 「イオニア部隊の指揮官殿、まだここに留まっているのは明らかに不当ではないか?」  前回と同じ使者が再びイオニア軍の指揮官を前にしていた。 「さっさと船橋を破壊して本国に戻り、自由の身であることを喜んで危害を加えぬ我等と神に感謝を捧げて貰いたいものだ」  使者の胸中には、かつてダレイオスがスキュティアを臣従させてやると言った言葉が渦巻いていた。それは騎馬民族スキュティア人の憤激を誘発せずにはおかぬ言葉であった。 「お主らの主君であった者は、この地で十分に歓待しよう。そう、他のどのような国にも侵攻出来ぬようにな」  その笑いは、獰猛な肉食獣を思わせる笑いであった。  スキュティア王の使者を待たせて、イオニアの指揮官達は別室で協議していた。ミレトスの僭主ヒスティアイオス、キュメの僭主アリスタゴラス、ケルソネソスの僭主ミルティアデスなどをはじめとした数人がその場で意見を交わしていた。ダレイオスに船橋をこのままにしておくよう進言した、コエスの姿もあった。スキュティア人の申し出に従ってイオニアを解放すべしとの声もあれば、自分達が僭主として君臨出来るのはダレイオスのお陰であるから、その勢力が失墜すれば自分達もその座を追われて地位を保つことは出来ぬだろうとした者もいた。後者の代表的人物がミレトスのヒスティアイオスである。どの町も僭主に従うよりは民主制を望むに違いないと彼が発言すると、それに同調する意見が多数を占めた。そして、方針が決定された。 「スキュティア王の使者よ。貴重なる意見を携えてきてくれたことに深く感謝する。我等は自由を求めて船橋を破壊することにした。我等はスキュティア王に報いるべく、十分に尽くしたいと思っている。健闘を祈る」  その言葉を真のものと信じて、使者は去っていった。船橋が、弓の射程に入るところだけしか破壊されていないことには気付かぬままに。 五  ダレイオス率いるペルシア軍は窮地の只中にいた。本来の予定通りならあっという間にスキュティアを平定して、凱旋帰国していた筈である。だが現実はスキュティア軍に踊らされ、引きずり回されて、ペルシア全軍は途方に暮れかけている。イストロス河に渡した船橋へ戻る為に、彼等は来た道を戻る以外の方法がない。現在位置すら把握出来ぬのだ。内陸奥地へと引き回されたあとは、ポントス・エウクセイノス(黒海)を捜すことさえも困難であった。どちらへ行けば海があるのかさえも判らなくなっている。来た道をそのまま引き返すことさえもスキュティアの干渉が皆無とは言い切れぬ。撹乱される恐れもあった。しかし、運が好かったのか悪かったのかはともかく、双方は出会うことがなかった。ペルシア軍は来た道をそのまま引き返しただけだったが、スキュティア軍は近道を把握していた。人は時に、自分の一般常識を他者もまた持ち併せていると思うことがある。スキュティア人にとっての一般常識である近道は、ペルシア軍にとっての一般常識ではなかった。周りの風景も樹木も、ペルシアにあるものとは様相が異なる。しかしスキュティア人にとってみればどれも皆一つひとつがそれぞれの特色を持って見えた。同じ人種から見れば一人ひとりが違った顔に見えても、他の人種から見れば全く同じような顔に見える。ペルシア人から見れば、スキュティアの風景はどこも同じように見えた。その為にスキュティア軍はペルシア軍に先行して船橋の元へと辿りつく事になったのである。ただ、今回はスキュティア人の策略が返って混乱をもたらしたともいえる。先に泉を埋め草木を抜いたことが、却ってペルシア人の後を探索しにくくする結果を産みだしていた。スキュティア軍は馬や食糧のある地域を選び、そこを通過しつつペルシア軍の探索を続けた。しかしダレイオスはひたすら来た道を戻っていき、スキュティア人はペルシア人を捜し求めて彷徨うことになったのである。 「あそこだ……!」  悲鳴に近い声が全軍から聞えた。イストロス河の船橋の渡河地点を漸く彼等が発見したとき、もう既に日は落ちて辺りは真っ暗闇であった。穏やかな波の音が響く。遠くに灯りが見えた。しかし船橋は見当たらない。 「イオニア人は我等を置き去りにしたのか?」 「ありえぬことではない」  不安を隠し切れぬ兵士が私語を漏らす。ダレイオスは小首を傾げて辺りを見回した。 「六十日を過ぎてはいるが…」  岸から見える丁度ぎりぎりの辺りに灯りがある。 「声の大きな者をこれへ」  連れて来られた男はエジプト人のようであった。雄偉という形容が良く似合う体格である。声が体格に比例するものなら、さぞや大声を出すことだろう。 「岸に立ち、ミレトスのヒスティアイオスの名を叫び続けよ。ありったけの声で」  ダレイオスはそう命令して、全軍に渡河の準備をするよう告げた。打算高い男である。今ペルシアの庇護を失えば、己の身がどうなるかを把握している筈だ。それにまだ利用価値はある。ダレイオスはそっと唾を飲みこんだ。  エジプト人の男は、ミレトスのヒスティアイオスの名を数回呼び、ひと呼吸置いてまた呼んだ。その声は指向性を持ったもののように遠くまで響き渡り、ヒスティアイオスの耳に届いた。 「ペルシア王のご帰還のようだ。また奴隷の日々が始まる。だが、今の我等にとっては必要な主人だ。少なくとも、今あるそれぞれの独裁権を守るためには。…艦船を回せ! 橋を掛け直すぞ!」 「あれを見ろ!」 「艦船が回ってきた。橋が掛け直されていくぞ…!」  兵士は口々にそう言い合う。その声にはほんのりとした灯りが点ったようであった。生への希望という名の灯りが。少しずつ岸に近づいてくる橋を、兵士等は歓声とともに眺めた。船橋は、文字通り生命への掛け橋として人々の目に映っていたのである。水の上に揺れる灯りが、ダレイオスの頬を赤く照らしていた。ペルシア軍が渡河を終えてまもなく、スキュティア軍がイストロス河口に到着した。殲滅できたであろう敵をみすみす逃したと知った彼等は、地団駄踏んで悔しがる羽目になった。  すんでのところで虎口を脱したダレイオス軍は、トラキアを通過してセストスへ到着した。ダレイオス自身はここから船でアジアへ渡る計画を立てており、軍は一部残留させるつもりであった。そうなると有能な指揮官が必要になるだろう。 「ゴブリュアス、誰が良かろうな?」  ペルシア王は隣に控えていた側近に声を掛けた。かつてはクーデターを一緒に戦った身であるが、現在は王とその臣下である。 「メガバゾスが居りましたな」  ダレイオスが目をそっと細めた。そういえば、かつて弟アルタバノスに「石榴の実の種子の数程欲しいもの」と聞かれて、「種子の数程メガバゾスが居ると良い」と応えたことがあった。満座のペルシア人の中で、王にそのように褒められて感激せぬものなど居らぬ。まだ若い将軍としてその名を轟かせつつあった彼は、このことがあって以降更に忠勤に励んでいた。 「うむ、それが良い。メガバゾスを呼べ」 「客好きの海とはよくもまあ言ったものだ」  そう呟く声がした。まだ若い青年が海を見つめている。目の前に広がるのは、ポントス・エウクセイノス(黒海)、ヘラス(ギリシア)語で『客好きの海』という意味である。後世、英語で「Black Sea」と呼ばれるようになる海であるが、これはトルコ語のカラ・デニスに由来するという説があり、それは十七世紀以降のことと目されている。ゆったりとした穏やかな波は、この海が大陸に囲まれているからかも知れぬ。その海を前にして感慨に耽るのは、虎口を脱した故の安堵感からか。幼さの残る顎にはまだしっかりと生え揃わぬ鬚が顔を覗かせている。眼差しは鋭利な刃物を思わせ、それが迫力の足りぬ顔に少々の迫力を添えていた。 「将軍!」  従卒が息せき切って走ってきた。この行軍から遣うようになったが、まだ少年と呼ぶに相応しいあどけなさがある。もっとも、彼自身がまだ若いのだ。それに付き従う従卒は若い方が周囲の反感を買わぬのに違いない。 「どうした、そんなに慌てて」  息を整えるのももどかしい様子である。 「王が。ダレイオス王がお呼びです」  返事もせずに彼は歩きだした。かつて彼の面目を大いに施してくれた主人、ダレイオスの元へと。  軍人らしい、規則正しいリズムを刻んで、メガバゾスは王の元へやってきた。殊更に急ぐ様子を見せてはいないが、王の命令を蔑ろにすることなくやってきたのは明らかである。ダレイオスは若く凛々しい青年を見て、顔をほころばせた。 「メガバゾスよ。軍から八万程を割くゆえ、ペルシアにまつろわぬ者の平定に当って貰いたい」  さりげなく発せられたその命令には、重い責任がある。ダレイオスは彼を、事実上のヨーロッパ担当指揮官に任命したのである。本来は力不足を理由に辞退するべきかも知れぬ。しかし、メガバゾスは試してみたい。と思っていた。己の力というものを。血が湧くような興奮を彼は味わっていた。それは、若さというものが呼び醒ましたものだったかも知れない。彼は戦いの悲惨さよりもなお、戦場で武勲を立てることに憧れを持っていた。  ヨーロッパ指揮官に任ぜられたメガバゾスは、セストスに留まりペルシアにまつろわぬ人々を征討することになった。彼はそれから僅か数年の間にペリントス攻略、トラキア平定などの功績を上げることになる。ダレイオスに命じられた征討を終えたその帰路で、あるものを目にすることがなかったなら、彼を含めた数千数万もの人々の運命を変えることはなかったかも知れない。歯車は一つ狂うとどんどんずれていってしまう。その最初の歯車に彼が出会うのは、もう間もなくのことだった。