第一章イオニアの華 五、嵐の前兆 一  淡い空の色は遠くまで霞んで見えた。荒涼とした地上からゆっくりとたゆたうように舞い上がる、土埃のせいだろう。しかしこの中には豊かな水が湛えられている。水の上を渡ってくる風は、それまでの乾燥が嘘のようにしっとりと湿度を加えて彼の元へたどり着くのだ。水、それはこの乾燥した地帯では豊かさの象徴でもある。王のもとへ辿りつければ、それが豊富にある。そして王のお陰をもって与えられるのだ。そう、王の恩寵のように。  遠くを見遣っていたダレイオスは、手の中にあった杯をゆっくりと干した。スキュティアからほうほうの態で戻ってから、一月程が過ぎている。ペルシア本国に帰りつき、落ち着くと、それぞれの役割に応じてそれを賞し或いは罰するのが望ましいことに思い至った。撤退直後はそうしたことを考えるゆとりすらもなかったが、漸く気分が落ち着いてきたことを示す兆候といえた。信賞必罰。それは、少なくとも奴隷の身であるイオニア地方の独裁者達には多少なりとも効果がある筈だった。自分に有益な助言をしたもの、戦闘時に勇敢であったものなどをつらつらと数え上げる。船橋を残すことを進言したコエスには勿論、スキュティアの矢が届かぬところまで退避しつつもたった一声で艦船を回して船橋を掛けなおしたヒスティアイオスにもそれなりの賞を与えておけば、今後も忠勤に励もうとするに違いない。その論功行賞の記念式典を開催することを決めると、不思議に心が華やいだ。王自らの親征はスキュティア三王に引きずり回されて、思うような戦果をひとつも上げることが叶わなかった。しかしそれが距離も精神も遠いものとなっている今は、式典というイベントに対する感情が鼻腔を擽るように思えた。 「ばかな…」  そう思いつつも、式典用の煌びやかな衣装などを思えば、自然と沸き立つような感情があふれてくる。そう、僅かばかり前のことではあるのだが、ダレイオスにとっては既にスキュティアは過去のことであり、現在の議題ではないのだ。それは最早ヨーロッパ方面司令官に任命した、メガバゾスの役目である。ペルシアの父と呼ばれたキュロスには遠く及ばぬ。だが、生きているからこそそれは越えられない壁であり、生きているからこそいつか越えられるかも知れない可能性を秘めた壁でもあった。子供の頃、父の隣にかしこまって座っていたダレイオスの頭をそっと撫でた偉大な王。そのキュロス王の白い見事な髯を見た少年の日を、ダレイオスは恐らく忘れることはないだろう。ペルシアをメディアの束縛から救い、版図を急速に広げることが出来たのは、このキュロス王が騎馬隊を創設したからなのだよ。と少年の父は誇らしげに語った。それを聞いた少年は、丸い目を見開いてじっと見つめた。彼は眼光鋭いペルシア王に威圧されつつも、それを超えたいという存在に生まれて初めて出会ったのだった。そのキュロスが戦死したのは、ダレイオスがまだ成人する前、そう二十歳になる頃だった筈である。キュロスの長男カンビュセス(二世)が後を継いだ。即位から僅か八年で彼が異郷の地に斃れることがなかったら、ダレイオスの手に王位が舞い込むことはなかったろう。そう、正当な世継を主張出来るものが、ダレイオスには何一つなかった。同じ首長一族アケメネス家出身ではある。だが、ダレイオスの血統は直系であるキュロスやその長男カンビュセスらから見ると、かなりの傍系であった。 「失礼致します。式典にお召し頂きたいお衣装を…」  いつの間にか思考の迷路に沈みこんでいたらしい。壮年の王はふと声を掛けてきた男に視線を当てた。八分通り出来上がっているようである。丁寧に丹精こめて作られた衣装には、一点の綻びも一箇所の糸の緩みもない。すべてが完璧に見えた。黄金の入った刺繍も、上質の布も。その出来栄えに満足気に肯いて、衣装係を下がらせようとした時である。 「お妃様がお見えになります」  先触れが声を上げた。ペルシアでは一夫多妻制であり、妻たちは順番に夫のもとへ通うのである。即位した時、豪族との勢力調整の問題もあって、ダレイオスは妻を幾人も娶ることになった。その中には先の王カンビュセスの妻だった女たちも居る。今、ダレイオスの妃の中で絶大な権力を握っているのは、カンビュセスの姉でありまたその妃でもあったアトッサであった。カンビュセスの姉、それはつまるところ先々王キュロスの娘ということである。ペルシアは、ことに王族では姉妹或いは姪を娶ることが少なくなかった。 「今宵はアトッサだったか…?」  妻として何かが欠けている訳ではないのだが、ダレイオスにはアトッサは少々重過ぎた。最愛の妃であるアルテュストネはそのアトッサの妹である。だが、彼女は寵妃という立場を鼻にかけることはなく、寧ろいつも何かにつけ行動的で目立つ姉を立てていた。その一歩退いた、控えめなところにダレイオスが惹かれたとも言える。ダレイオスが妻にしたとき、彼女が処女であったという事実はあまり関係はないだろうが、それでも幾人かの男を知っていた別の妃よりは情愛が勝ってもおかしくはない。彼を受け入れ、ゆっくりと開いていく華を見守ることは、男として幸福だった。 「陛下…」  遠慮がちな声が、そっと耳を打った。ダレイオスが我が耳を疑ったのは是非もない。それはアトッサではなく、アルテュストネの声であった。 「アルテュストネ…。どうした?」  順番を違えることはアトッサが許さぬだろう。そう思ったのだが、アルテュストネの頬にそっと射した朱が、ダレイオスの言葉を止めた。 「今宵は…、お姉様…アトッサ様は今宵陛下のお相手をお勤めすることは出来ませぬ」  そう恥ずかしげに語る声は繊細な銀の細工を思わせる。アトッサの張りのある声を黄金の兜に譬えるなら、アルテュストネの声は白銀の花であった。控えめで、決して出しゃばろうとしない細工物。それは好ましくはあるが、妃の最上位を与えようとしても自らその椅子を降りて人に譲ってしまうような、か弱さがあった。 「子か…? それとも」  初々しい妃は、うつむいたままにそっと首を振る。 「お相手が叶わぬ故、私にと…」  姉を立てることを最上とするようなその性質は生来のものかも知れぬが、望外の喜びにダレイオスはふと顔を綻ばせた。彼女を妻に迎えて既に十年程の歳月が流れている。女として成熟の時を迎えつつあるアルテュストネに、王はそっと手を差し伸べた。 「来い」  微笑んだ王の手に白くほっそりとした自らの手を与えて、妻は夫に己が身を投げかけた。  アトッサは一人、闇の中に佇んでいた。思うのは、如何にして愛息子クセルクセスをダレイオス王の後継者に出来るかということである。ダレイオスにはアトッサらと結婚する前に既に妻が居り、子がいた。長子という意味で後継者を考えれば、クセルクセスは些か不利になる。だが、英雄キュロス王の血を引く彼はペルシア国民に後継者として訴えかけるものが少なくない筈だ。キュロスの血を引いた息子達は既に死に絶え、娘はアトッサとその妹アルテュストネのみである。王となったダレイオスに一番最初に息子を生んだのは、アトッサだった。英雄王の血を引く後継者こそ、次のペルシアの王になるべきである。やや露わになった豊満な胸を揺すって、王妃は妖艶に微笑んだ。 二  式典は華麗に始まり無礼講に終わる。ことに、ペルシアでは。それぞれの殊勲賞が与えられ、上等の酒と女をあてがわれて、取るに足りない者までもがまるで自分が先陣を切って武功をたてたかのように、ありもしない武勇伝を話し出す。本来冒険が多いものはそれを殊更に言い立てる真似はせぬ。戦場から離れた場所で話すものなど、寝物語程の価値しかない。ただ傍に侍った女の気を惹く程度の。  酒が適当に回ったところで、宴の主宰者であるペルシア王ダレイオスはコエスとヒスティアイオスの二人を近くへ呼び寄せた。既に酒の入った席で、拝跪の礼を取るのは無粋である。礼を失せぬよう配慮して王に対するものとしては少々軽い会釈をした。だが、妃とは違う見目麗しく若い女を侍らせて、王の機嫌が悪かろう筈がない。ふんわりとした大き目のクッションに身を預け、ご満悦の表情でゆったりと口を開く。 「この度の遠征では、そちたちには世話になった。何なりと褒美を与えよう。何か望みのものはあるか?」  船橋を破壊せぬよう建言したコエスに、王の探るような視線が向けられた。彼はミュティレネの有力市民である。この度も有力市民としてミュティレネ部隊を率いてはきたが、一市民としてのものである。彼は少々権勢欲豊かであった。 「叶いますなら、王よ。ミュティレネの独裁権を望みます」  舐めるようにワインを含んだ唇がゆっくりと応える。 「ミュティレネか……良かろう」  鷹揚に肯いたダレイオスが、次はコエスの隣に座るヒスティアイオスに、静かな視線を向けた。ヒスティアイオスは既にミレトスの独裁者として君臨している。ダレイオスの後ろ盾あってこその独裁者としての地位であることを、ヒスティアイオスは十分に弁えていた。もっと大きな他の町の独裁を望むことも可能だったかも知れない。だが、彼の脳裏には違う未来が描かれていた。 「陛下にお許し頂けますなら」  萎縮したように顔を下げる。 「……ミュルキノスの土地に新しい町を作りたいと存じます」  ダレイオスの右の眉がはね上がった。ヒスティアイオスの表情は、ダレイオスの位置からは殆ど見えない。もともと、臣下が主君の顔を見上げることはそうそう許されることではないのだ。 「ほう。新しい町を」  ミュルキノス、それは、異民族であるエドノイ族の人々が暮らす土地である。勿論、その土地の上に「乗っかっている」異民族はダレイオスの軍によって「排除」されるだろう。運が良ければ、その対価を王から貰えるかも知れないが、それはヒスティアイオスの知ったことではない。新たな町を作る。それはまだ何も描かれぬ白い紙に筆を落とすのに似ている。城壁を作り、道を作る。神殿や家屋、役所。水源も確保せねばならぬ。それら全てを、一から作り上げていくのである。道一つを作るにしても現代のように科学技術が発展している訳ではない。ローラーもコンクリートもない時代のことである。人の手によって草木や石が取り除かれ、路面が馴らされ、敷石を一つひとつ埋め込んでいくのだ。気の遠くなるような作業だが、ヒスティアイオスの表情は心なしか楽しげに見えた。ペルシア王はコエスの願いを聞き届けた時と同様に、一つ肯くと、傍に居た宦官にさりげなく視線で合図を送る。数日後にヒスティアイオスがここを出発するまでには、ミュルキノスの地は無人になっているかも知れない。 「今後も一層の働きを期待しておるぞ」  王としての鷹揚さと、成り上がった者としての気配り。それがダレイオスにはあった。王が恐れるものは、王を僭称することが出来る存在の出現である。それを押さえ込める程には、既に王としての業績をあげてきたつもりだった。しかし無敗を誇っていたペルシアが破れてその権威は地に落ちた。比較的早い時間での回復が望まれている。王の肝いりで、しかも王が親征した戦いでの敗北など、過去のペルシアにはなかったことだったのだ。コエスとヒスティアイオスは願いを聞き届けられ、深い安堵に包まれて手にした杯を煽った。ヘラス(ギリシア)とは違い、水で割ることをせぬままに飲むペルシアの酒はあっという間に二人を夢の中の理想郷へと誘うかのようだった。  壮麗な式典が営まれてから、数ヶ月程が経過していた。スキュティア遠征後、ヨーロッパ担当司令官に任命されたメガバゾスはとりあえずの功績を上げ、帰国の途上にあった。ダレイオスの親征がはかばかしいものでなかった以上、あまり勝ちすぎては疎まれる。しかし功績がゼロではその後の出世を見込むことは出来ぬ。何事にも頃合というものがある。勝ちすぎぬ程度に勝つ。それがメガバゾスの持論だった。まだ若い割に老齢のもののような考え方をする。と同僚には良く言われてきた。しかし何の後ろ楯もない頼りない身であれば、慎重すぎて困ることはない。常々彼はそう思っていた。出る杭は打たれる。ペルシアはイオニア地方のギリシア人を治めるのに、僭主という「手段」を使ってきた。僭主というものは、目立つもの、成長する恐れがあるものを早期に摘み取る。そうして独裁権を長くしかもしっかりと握るのだ。物思いに耽っていたメガバゾスは、ふと前方に以前はなかったものがあるのに気づいた。副官を呼び寄せて確認を取る。 「エドノイ族の居住している辺りですな……。城壁のような」  メガバゾスの瞳に光が灯る。 「面白そうではないか? あのエドノイ族が城壁だと? 見物に行ってやろうではないか」  それは、紛れもなく決定であった。  砂が吹き荒れていた。と思ったが、それは砂嵐ではなく軍隊であった。ヒスティアイオスは工事監督の手を止めて、休憩を伝える。接近している軍隊は旗から言ってペルシアのものである。恐らくはヨーロッパ方面担当指揮官となったメガバゾスの軍隊であるに違いない。相応の功績を挙げて帰途についたというところだろう。まだ街づくりは途中である。よって人口も女性より男性の方が遥かに多かった。ヒスティアイオスは手近なところにいた女に宴会の準備をするよう伝える。 「アリスタゴラスはどこだ?」  ミレトスの僭主はあたりを見回す。 「舅どの。どうかしたか?」  声を上げると名前の主が現れた。ヒスティアイオスの従兄弟にして、愛娘の婿である。スキュティア遠征の時はミレトスの僭主代行を務めていた。スキュティア遠征時イオニア部隊にいたキュメの僭主アリスタゴラスと同名であるが、別人である。ヒスティアイオスがもっとも頼りとする友人の一人であった。 「舅どの、は止めろと言っただろう」  苦笑しつつヒスティアイオスは答えた。事実彼の娘はアリスタゴラスに嫁いでいるが、同時に彼らの関係は従兄弟でもある。 「事実なんだから諦めろよな。……で、なんだ?」  与多話は忘れないが、余計なことに潰す時間は最小限にとどめる。その簡潔さをヒスティアイオスは気に入っていた。 「まだ少し距離はあるが、軍隊が近づいている。恐らく、ヨーロッパ平定を命令されていたメガバゾスの軍だろう。馬は乗れたな? ひとっ走り行って歓迎の宴を開きたいのでお越し下さい。と伝えてくれ」 「俺がか? そういう使者には向いてねーと思うんだけどなあ」 「他に適任者が居ない。それとも私の代わりに監督代行を務めてくれるか? なんなら人足として働いてくれても構わんぞ」  脅し文句には反応せず、即座に回れ右をして厩舎へ向かった。物分りの早い奴で助かった、とヒスティアイオスは顎髭を撫でたが、ふとメガバゾスが若い人物であることを言い添えるのを忘れたことに気づいた。 「……まあ、諍いを起こさないでくれればいいか」  城壁の町から馬が一騎、駆けてくるのに気づいて、メガバゾスの従卒はごくり。と唾を飲み込んだ。まだ若い。というよりは少年である。メガバゾスにしてからが青年になりかけの年齢であるからそれはこの軍中においては異例のことではない。砂塵に気づいたものは他にもいたようだ。副官がメガバゾスの方をちらりと見遣ると、視線は前方の馬に据えたまま、深く肯く。やがて馬には人が乗っていて、それがヘラス(ギリシア)の服装をしていることに誰もが気づいた。 「メガバゾス司令官殿!」  馬に乗った人物は声を張り上げている。メガバゾスの名を知っているというなら、ペルシアに従うイオニアの同盟諸国関係者であろうか。 「ここだ」  軍人らしく律動的な動きでメガバゾスは右手を上げた。馬上の人物はほっとしたように近づき、少し手前で馬を止めて降りた。 「……ミレトス僭主ヒスティアイオスの遣いで、アリスタゴラスと言う。メガバゾス殿か?」  わざわざその名を改めて添えたのは、思ったよりも若すぎたからだろう。漸く生え揃いつつある髭もまだ威厳を醸し出すには至ってはいない。 「そうだ。ミレトスのヒスティアイオス? ここに来ているのか?」  不審げに眉を寄せたメガバゾスの面には、警戒感がありありと出ていた。あからさまな警戒感にアリスタゴラスも軽く眉根を寄せる。しかしここで諍いを起こしてはヒスティアイオスの顔を潰すだけにしかならない。 「ダレイオス陛下のヨーロッパ担当司令官メガバゾス閣下を歓迎する宴を開きたいのでお越し頂きたい」  少し愁眉を開いたメガバゾスは首肯した。ヒスティアイオスはダレイオスの歓心を買いたいのだと思い当たったからである。 「兵達も歴戦で疲弊している。それはありがたい」  磊落な青年を装って司令官は豪快に笑った。その目には観察するような鋭い光を宿しながら。 三  宴の支度は既に万端整っていた。ペルシアでは一日一度、夜に食事をする。それもだらだらと。メインも多いがデザートはその三倍はある。そして勿論酒は生で飲むのだ。ヘラスでは通常混酒器(クラテル)と呼ばれるもので水と酒を混ぜる。客人を酔いつぶらせない程度に楽しませるのは、招待者のつとめであり、義務とも言えた。生のまま酒を飲むのはヘラスでは野蛮とされた。しかしここではペルシアをあくまでも立てねばならぬ。酒が一通り回って、半ば酔いつぶれたものもいる。ヨーロッパ遠征を戦ってきた兵士らは、ダレイオスの軍から選り抜かれた言わば精鋭であった。しかしその彼らも、戦いにつぐ戦いで疲れ切っている。ましてや久しぶりの宴会なのだ。気が緩んでも仕方の無いことであった。 「女が居ないようだが」  建設は順調とはいえ、まだ作られている最中の街である。女性は殆どが建設に携わる者達の妻であり娘であり母であった。本来ならどこの街でも居る、竪琴(キタラ)弾きの女や笛(リュート)を吹く女、それからそのものずばり遊女(ヘタイラ)がまだこの街には殆ど居なかったのである。よって現在ペルシア兵の酌をして回っているのは、少年ばかりであった。ヘラスでは少年愛が些かならず盛んであるが、しかし公共の場で公然と肉欲を伴う関係を持つことは禁忌とされている。ペルシアでそういう関係についてはあまり論じられることはなかったようだが、少年美を愛する習慣はない。酌をする者が見目良いものであっても、男では気が削がれていく。 「メガバゾス殿の到着を知っていれば近隣から呼び寄せたのだが」  言外に言い訳じみたものが漂う。その言葉の全てが嘘ではないにせよ、全てが本当であるという訳ではあるまい。他の者がいる前で女を愛撫する趣味のないメガバゾスは、それはそれで構わなかったのだが。ヒスティアイオスの言葉の裏に剣呑なものが含まれているように感じられていた。権力を多少なりとも持つものがいれば、その要求に応えるべく努力する。と言えば聞こえは悪くない。しかしそれはその相手を増長させる危険も孕んでいるものである。それは何の為か。この街はミレトスよりも大分ヘラスに近い。ダレイオス王の目の届かぬところで、より大きな街を建設し、より巨大な力を蓄えようということではないのか。それは一見してダレイオスの勢力が拡大したように見える。しかしそれが分離するのであれば、ダレイオスの勢力にはまるで影響がない。なかんずく、ミレトス諸共に離反するのであれば、大幅な勢力減となりかねない。そこまで考えて、メガバゾスはぶるっ。と身を震わせた。 「考えすぎだ」  あまり思考が先走ってしまうのは良くない。そう思って酒をあおる。いつもより少々ペースの早いメガバゾスの酒量を不審に思うものは居なかった。漸くペルシアの国土に近くなって、リラックスしているのだろうと思ったに違いない。ダレイオスは役目を果たしたメガバゾスに少なからぬ恩賞を与えるだろうし、それに貢献した兵士らにもお目こぼしがあるだろう。そう思えばペースが早くなるのは当然と言えた。もし、メガバゾスの内心の懸念をヒスティアイオス或いはアリスタゴラスが承知していたなら、その後の歴史は大きく変わることになったかも知れない。  ヨーロッパ担当司令官メガバゾスはサルディスのダレイオスの許へと到着した。即日謁見が許されたのは、その使命の大きさゆえだろう。玉顔麗しく機嫌も麗しいダレイオスは、満足気に若き司令官を見下ろした。 「大儀であった」 「はっ」  既に報告は上がっていた。御前に参上したのは九割がた形式である。 「今後もますます励んでくれよ」  ほくほく顔になるのは当然だろう。王自身は失敗した遠征ではあるが、王の部下が功績を収めれば、それはとりもなおさず王ダレイオスの功績としてカウントされる。メガバゾスには目を掛けていたし、その期待を「石榴」の一件で表明してもいたから、彼は鼻高々であった。現に「王は流石先見の明がある」と囁く声が耳に届いている。それが世辞或いは阿諛追従であったとしても。  一通り報告が終了して、メガバゾスは少し眉根を寄せた。ヒスティアイオスについての彼の懸念を王に報告すべきかどうか、ということである。もし間違っていればヒスティアイオスの恨みを買うことは必至であるし、間違って居なければ将来ヒスティアイオスが禍根となるのをみすみす見逃したことになる。その逡巡に気づいたダレイオスは不審を憶えた。 「どうした?」  暫くの躊躇いの後、メガバゾスはその懸念を告げた。判断するのは王だ。と割り切ったからである。黙っていて罪になるよりは寧ろその方が良いと判断した背景には、かつてのクーデターの原因となった事件がある。王弟バルディヤ(スメルディス)の簒奪。その事件のお陰で、今のペルシア王ダレイオスが存在する。同じように他の者が王として台頭することを、この王が喜ぶだろうか? ……メガバゾスの頭の中で弾き出された答えは、否。であった。 「ヒスティアイオスがミュルキノスに街を築いておりますな」  ああ、と思い当たったようにダレイオスは肯いた。 「ヒスティアイオスが街を作りたい。と言い出してな。許可を与えた。それが?」 「ヘラスの者は一筋縄では参りませぬ。表では慎み深く従順な乙女のように見えても、その腹の底では何を考えているか判らぬ者でございますぞ。近隣は資源も多く、指導者を得ればあっという間にあのあたり一帯の主権を握って独立してしまうに違いありませぬ。領内での戦乱を王がお望みとは思えませぬが。一刻も早く彼を街の建設から手を引かせるようになさいませ」 「しかしヒスティアイオスは此度のスキュティア遠征の折も…」 「王はお優しゅうございますから、ヘラス人はそれにつけ込んでいるのです。あのように面従腹背な者を遠隔地に置いては、藁束に油を落として火矢を打ち込むようなものではございませぬか。王の御為に申し上げます。即刻ヒスティアイオスを呼び寄せて、ここに留めおき、戻さぬようになさいませ」  いつになく激しい論調のメガバゾスの言葉に、少々ダレイオスも危機感を憶えはじめていた。ヒスティアイオスの能力を考えれば、それくらいのことは簡単に出来るだろう。性格や行動パターンの問題よりも、この場合能力の有無の方が問題である。ましてや彼はペルシア人ではない。自由を尊ぶヘラスの人間なのである。ダレイオスの胸中にふと疑念が萌した。スキュティア遠征の折、ヒスティアイオスは陸地から弓矢が届かぬ位置まで艦船を遠ざけた。それはダレイオスの生死をヒスティアイオスが握っていたということである。現在、ペルシア帝国の後ろ楯がなければ、ヒスティアイオスは僭主として君臨することは出来まい。しかしミュルキノスはどうか? 一から彼が作り始めた街なら。 「ふむ。……将来を良く見通した意見である」  ダレイオスは若き司令官に労いの言葉を与え、隣に控えた者に使者の手配をするように命じた。  ヒスティアイオスのもとに、ペルシア王ダレイオスから使者が到着したのは、メガバゾスが建設中のミュルキノスの街を去って、半月も経たぬ頃であった。「王ダレイオスよりヒスティアイオスに告ぐ。そなた程誠心を尽くす余人を知らず。我が大事を諮るにそなたを置いてなく、我が許に来られんことを願うものなり」  使者の言葉を疑うものなどその場には居なかった。アリスタゴラスがもしそこに居合わせたなら、「随分信用されたもんだな」と肩を竦めて見せたかも知れない。ヒスティアイオスは事実上の王の相談役ともいうべき立場に舞い上がっていた。それは僭主どころではない、破格の出世といえた。ヘラス人の中でペルシア総督(サトラペス)の地位を獲得したものはまだ誰もおらぬ。ヒスティアイオスこそが初のヘラス人ペルシア総督となれるかも知れぬ。見果てぬ夢に笑いが止まらぬ彼は、そこに深く掘られた落とし穴に気づく余裕など微塵も無かった。  それからペルシア王がまず最初にしたことは、サルディスの総督を任命することであった。 「…アルタフェルネスか」  ダレイオスの異母弟に当たる人物である。ミレトス僭主ヒスティアイオスの女婿にして従兄弟のアリスタゴラスとも交流があり、イオニア諸都市ではそれなりに知られた人物である。自分の代理としては適当だろう。そう考えながらダレイオスは、顎髭をゆっくりと撫でた。 四  ミレトスともミュルキノスとも違った空気が、彼を迎えた。トモロス山に源を発するパクトロス河のほとりに、ここサルディスがある。パクトロス河はサルディスのすぐ傍でヘルモス河に合流し、ゆったりと西へ流れていく。その先はヘラス(ギリシア)へと向う海へ繋がっているのだ。かつてリュディアの王都があった場所であり、現在は幾つかあるペルシア王の拠点のひとつである。それらの拠点の中でも最もヨーロッパ寄りにあって、ダレイオスが作らせた「王の道」の出発点でもあった。  リュディア王クロイソスがペルシア王キュロス(クル)によって敗北し、国が併呑されてから既に一世代の以上の時が流れている。かつて王都だったそこは、現在は王都ではなくなってはいても、交通の要衝の一つであり、その繁栄はかつてのリュディアとはまた違うものになっている。武張ったものよりも寧ろ繊細で優美で、洗練されたものを好むようになった現代は、クロイソスが民を殺されることを恐れ、キュロスに進言したことによって決定された未来であった。キュロスはクロイソスの進言によって民の武器を奪い、高い靴を履かせ、裾の長い服を着せて楽器を持たせた。女子供のようだ、とキュロスに思われたとしても、それによって命を奪われる危険性は少なくなるだろう。亡国の王クロイソスは、彼なりに民の未来を守ったといえる。戦いには敗北したが、それでも民は生き残ることが出来た。全滅させられた国も多い中で、これは稀有の功績と言えるだろう。  ヒスティアイオスが生まれたのは、恐らくリュディア陥落の前後であった筈である。既に王国の記憶は遠い。リュディアに住んでいたことはないが、それでも、幼い日に、かつてを知る旅人の幾人かにせがんで聞いたリュディアの王都は、繁栄を極めた都であった。現在のサルディスはペルシアによる戦禍の傷跡からは少なくとも表面上、回復しているように見える。先導する案内人に続き、王宮の門をくぐる。広壮な宮殿の現在の主は、当然ながらペルシア王ダレイオスである。その王の命令で王宮を訪れたヒスティアイオスは、イオニア地方の僭主の一人というよりは、王の賓客としての扱いを受けていた。 「おお! ヒスティアイオス!」  ダレイオス王はミレトス僭主ヒスティアイオスを迎えて、殊の外機嫌が良かった。メディアの流れを受けるペルシアの王宮では、装束はメディア風のものが多い。裾を引き摺るような衣は武芸には適さないが、優美ではあった。顔の下半分を覆う豊かな髭は、見事に手入れされていて、一分の隙もない。 「お召しと伺い御前に伺候致しました」  そっと拝跪し、深く頭を垂れる。用件は目下の者から尋ねるべきではない。僭主という危うい立場もペルシア王の後ろ楯があってのこと。自分の権力を守ってくれる虎がペルシア王なら、狐はその威を借りてこそ力を発揮出来るのだ。恭しい態度そのものには、嘘はない。ただ、誠実さよりも計算高さが含まれているのは当然だろう。 「良く来てくれた、ヒスティアイオスよ。実はな。頼みがあってそなたを呼んだのだ」  用心深く、少し頭を上げる。だが、階の上に据えつけられた玉座に座るダレイオスの顔までは見えぬ。漸く足元が見えるばかりだ。 「何なりと」  そう答えて、再び瞼を閉じる。ペルシア王自身が叶えられぬ願いなど、あるはずがない。地上の権力の全てをその手に握った男である。ならば、ヒスティアイオスに望む何かがあるということだ。 「相談役が近く引退することになっている。次の相談役をと諮ったところ、才智と誠実とを兼ね備えた相談役にはそなたが一番であると推したものがおる。そなたはかつてあのスキュティア遠征でも有益な助言をしてくれたが、あらゆる財宝のうちでも最も貴重なものは才智と誠実を兼ね備えた友人であると余は常々思うのだ。どうであろう。ミレトスやそなたが新たに作った町のことは忘れ、余とともにスーサへ行き、相談役となってはくれまいか。スーサでは余の財産の一切をそなたに委ねようではないか」  ダレイオスは、まるで世間話のついでのようにさらり。とつけ加えた。ヒスティアイオスはごくり。と唾を飲み込む。王の財産、それはつまり国家予算である。その管理を任された、その事実に驚愕しつつも、ミレトスやミュルキノスの町を放棄してしまうのは勿体無いが。と頭の中で素早く計算する。だが、王の相談役という役目は、単なる名誉職だけのものではなさそうである。王の傍近くに仕えて、というのなら参謀とも言える。あわよくば出世コースへの足がかりになるかも知れない。 「非力不才のこの身ではございますが、王のご命令とあらば」  頭の中の算盤は結論を弾き出した。 「そうか、なってくれるか!」  微力を尽くさせて頂きます、と答えながら、次の瞬間には僭主代行の候補を思い定めている。ヒスティアイオスはペルシア王の命令に従うことを決めた。自らの命運を賭けて。  ヒスティアイオスからの書簡を見つめている男は、寝椅子に腰をかけていた。工事は彼の指揮のもとで続行されている。従兄弟にして、女婿そして片腕であるアリスタゴラスである。書簡を置いて、彼は重い溜息をついた。得意満面の舅の顔が目に浮かぶようである。 「えらく舞い上がってんなー。大丈夫かよ、舅どの」  そう呟いてもその声がヒスティアイオスに届くわけもない。既に書簡の主ヒスティアイオスは、ペルシア王ダレイオスとともにサルディスを発って、スーサへ向かっている筈である。その行程は二ヶ月程度はかかっても可笑しくない。自らの拠点としていたミレトスを遠く離れて、ペルシアの中枢であり、虎の巣穴の真っ只中ともいうべきその場所に行くことは、ヘラス人であるヒスティアイオスにとって危うい。計算高い彼のことだから、デメリットを計算していったろうが、目の前に好餌を突きつけられれば、どんな慎重な草食動物とて判断が狂うことはあるだろう。舅の行動に危うさを感じたのは、アリスタゴラスの思い過ごしだろうか。 「ミュルキノスをほったらかして、ミレトスまで捨てて、ついていく価値があるのかねぇ」  ダレイオス王の傍近くに仕えること、それはペルシア人に包囲され、監視の目に晒されているようなものではないのか。相談すべき適当な相手も伴わぬままに単身ペルシアへ赴いたヒスティアイオスは、孤独である。勿論王の命令で王の賓客そして相談役にして友人という立場であれば、不自由のない暮らしを約束されているだろう。だが。  舅の不在の間、ミレトス僭主代行をつとめることになったアリスタゴラスは、面倒臭そうに肩を揺すった。従兄弟と同様、彼もまたメリットのない行動を出来る男ではない。ある程度の計算が出来なければヒスティアイオスも自身の代行には推さない。しかし今回は些か考えることに倦んでしまっていた。 「ま、暫く様子見だな」  アリスタゴラスは大きな欠伸を一つして、寝椅子に寝そべった。今日の仕事は終了…と呟いて目を閉じる。まもなく、健やかな寝息が響きはじめた。  小さな火種が、アイゲウスの海(エーゲ海)の片隅からそっと熾ろうとしていた。