第一章イオニアの華 六、ナクソスから来た客 一  ヒスティアイオスがペルシア王ダレイオスに伴われてスーサへと去ってから、数年が経過していた。僭主代行のアリスタゴラスは、かつて彼の従兄弟がそうだったように、ミレトスを無難に治めていた。とは言ってもヘラス(ギリシア)の人々は、元々独裁制を好む種族ではない。薄氷の上に、鋭いエッジの付いた靴を履いて、爪先で立っているようなものであった。  穏やかな日が暫く続いている。時の経過とともに、ヒスティアイオスの記憶も少しずつ薄れていく。勿論アリスタゴラスの妻はヒスティアイオスの愛娘であるから、その存在そのものを脳裏から消すことは出来ぬ。だが穏やかな日々の中で、少しずつ過去の人になりつつあった。時折舞いこむ書簡がなければ、それはもっと加速されたに違いない。ヒスティアイオスは巧くペルシア王に取り入ったのか、大層な羽振りであることは書簡の端々からも判った。しかし、身分は同じままのようだし、何より、常に護衛が付いているようである。それはそれで彼という人間の存在がどれほど王にとって重きをなしているかが知れるが、同時に監視がついているようにも思えた。 「考えすぎだ」  軽く頭を振る。濃い茶色をした髪が揺れる。ヒスティアイオスとも良く似た髪のいろは、彼らの家系に多い色であった。ヒスティアイオスがダレイオスに尽くしていたのは、イオニア部隊ならずとも熟知しているはずだし、何よりダレイオスの足元にいるイオニアの僭主の中で、もっとも有能であった。そのヒスティアイオスを拘留する価値があるだろうか? 却ってペルシアから独立したがっている人々をのさばらせるだけではないか。ヒスティアイオスにしてみればアリスタゴラスがいるからそういう事態にはなるまいと踏んでいるのだろう。だが、ペルシア王はアリスタゴラス個人をヒスティアイオス程に熟知している訳ではない。 「ま、いくら馬鹿でも自分に利益のないことはしねーだろ」  自分に言い聞かせるようにアリスタゴラスは呟いた。青い空がその小さな呟き声を吸い取るかのように眩しかった。  その日。遠い海面に船の影が見えた。ヘラスの方向である。もっともヘラスから来るとしても直線的に来るというのでなければ、陸伝いに来ることもありえるから、一概には言えないかも知れないが、その船は西からまっすぐにやって来る様に見えた。三段櫂船は順調に岸に近づいている。獅子湾にまわりこんで入ってくる船を、目ざとく見つけた人々が、声を上げた。 「船だ!」  大人の男だけではなく、子供達もが飛び出してきた。娯楽の少ない時代、来訪者は時々退屈な人々にとっていい暇つぶしとなる。勿論友好的な来訪者だけとは限らないのがこの時代の特徴の一つである。時には物資や住民を略奪し或いは虐殺することもある。だが、昼日中にそういう事態は想像しにくかったし、何より子供達は抑え難い好奇心の虜となっている。 「子供は行った、行った!」  邪険にしたというよりは、諍いを避けるためだろう。幾人かの大人が、子供達を窘めるようにその肩に手をかけて、港から遠ざけた。やがて、接岸した船には数十人程度の人間が乗っていた。半数以上は労働力として雇われた人々であろう。どんな人間が乗っているのか、子供ならず大人も興味を持つのは当然である。大人に遠ざけられながらも柵の隙間から覗く子供も少なくない。秩序ある行動が、それなりの身分であることを思わせる。やがて全ての人が下船すると、眩い程に輝く宝飾品で身を飾っているものが大半であった。そういったものを身につけていない者でも、全ての者が身なりをきちんと整えていた。恐らく、母都市では指折りの金持ちか、貴族であるに違いない。その中から一人進み出たのは、壮年の男であった。装飾品は少ないが、ヘラスの海のように鮮やかな青いヒマティオン(外衣)を右肩に掛けていて、髭も見事に整えられている。 「我らはナクソスからヒスティアイオスの援助を求めて来た」  来訪者達を見ていた観衆がざわついた。ヒスティアイオスがここミレトスに居ないことは周知の事実だったからである。 「ヒスティアイオスは今、ここにはいない」  観衆のざわめきの後ろから、良く通る声がした。人を掻き分けるようにして現れたのは、ヒスティアイオスの代理を務めるアリスタゴラスである。舅のヒスティアイオスがその姿を見たら、瞠目していたに違いない。  到着した船から降りてきた人々は、ヒスティアイオスとは旧知の間柄であった。しかしヒスティアイオスを頼って来た人々にとって、見知らぬアリスタゴラスの出迎えは好ましいものとは映らなかった。落胆の色を隠しきれないようである。 「ヒスティアイオスは居ないのか」  傍目からも判る程にがくっと肩を落とす者も、少なくない。 「俺はアリスタゴラス、ヒスティアイオスの従兄弟にして娘婿だ。父はモルパゴラスという。……ヒスティアイオスは今、ダレイオス王の相談役としてスーサにいる。ご用件は代わりにこのアリスタゴラスが承ろう。ひとまず、暫く滞在されるだろうか」  ヒスティアイオスの不在を聞いて、気落ちしていたナクソスからの来訪者であったが、その名乗りを聞いた途端、疲労の影が濃かった流浪者達の顔つきに、光が差し込んだ。 「おお、ヒスティアイオスの従兄弟か!」 「彼は元気なのだろうな?」  突然滑らかに回るようになった舌には、ヒスティアイオスという名によって潤滑油が注されたのかも知れない。  プリュタネイオン(公会堂、或いは迎賓館の役割を果たす。宴会場でもあり、都市国家の中心となる役所)へ集まったのは、ナクソスから来た人々と、アリスタゴラスである。歓迎の宴会をする前に、明確にしておかねばならないことは、二つある。ひとつは、ここミレトスへ来訪した目的。二つめはその滞在が長期にわたるのか、否かである。ナクソスの人々は、明らかに資産階級の富裕な人達である。ナクソスはアイゲウスの海(エーゲ海)に浮かぶ島である。現代ではキクラデス諸島と呼ばれる島々の一つであり、かなり古い時代から有力な都市国家として栄えていた。当然ながら民主主義盛んな土地柄で、寡頭政治を行っていた人々が民衆派によって国を逐われたものと想像された。それらの情報はヒスティアイオスから引き継いだ間諜がもたらした情報である。ただ、国を逐われた人々がミレトスにやって来るというのは少々計算外のことであった。しかし、国を放逐されたというのはナクソスの人々には言い難いことであったらしく、「不当に国を逐われた」と些か曖昧な物言いをしていることが、アリスタゴラスには笑止きわまりないものとして映った。 「それで」  一拍おいて、威儀を正す。重々しく言葉を発するのは、その効果を最大限に引き出す為のパフォーマンスである。 「軍隊の出動を要請し、その軍隊の力で祖国に帰ることが出来るよう取り計らって貰いたい。そう仰るのですな?」  ヒスティアイオスであれば、ペルシアの軍隊を引っ張り出すのは容易であろう。そう判断したナクソスの人々はここミレトスにやってきたのである。折悪しくヒスティアイオスは不在であるが、このアリスタゴラスは中々の勢力を持っているようだ。と思った人々は、真摯に深く肯いた。実情より勢力があるように見せるには、自信があるように振舞うことである。それをアリスタゴラスはヒスティアイオスから学んでいた。もし、この人々の思惑通りに自分の尽力によって帰国させることが叶った暁には、ナクソスの支配権に手が届くかも知れない。取らぬ狸とは良く言ったものであるが、目の前に美味しい果実がぶら下っているのを見つけて、そのまま通り過ぎることが出来る者は余程克己心のある人物であるに違いない。  重々しく肯いたアリスタゴラスは、しかしすぐにはその好機に乗っかろうとはしなかった。 二 「さて。事情は判ったが。私としては、今ナクソスを牛耳っている一派を敵に回しても、諸君の帰国を実現させるに足る程の、強力な軍隊の提供を今すぐに確約することは出来ぬ」  少し間をおいて、ナクソスの人々の顔を見回す。失望が七割方支配したような顔つきに、内心で満足を憶えると、顔を顰めつつ言葉をつぐ。 「確かナクソスには、八千の重装歩兵と、軍船多数があるとかつてヒスティアイオスから聞いたが、相違なかろうか」  苦虫を噛み潰したような顔で、一人が答えた。 「そうだ」  きりりと歯軋りをしている者が数人いた。忌々しい、と毒づいた者も数人いる。故国にいればそれは自らを守ってくれる強力な軍隊だった。しかし今は彼らの帰国を阻むだけのものでしかない。 「屈強の壮丁(三十歳から六十歳までの、ある程度の資産を持つ正式市民であり、参政権を所有する。戦時には市民兵として活躍することを求められた)八千を相手にして、勝ち得る程の軍隊となると…。即準備出来るようなところを考えただけでも、容易に出せる、と即答は出来ぬ。まあしかし、そなたらの為に出来るだけのことはしよう。暫く滞在されるだろうか」  行くあての決まらぬものに、その問いは少々惨いものと言える。 「……滞在の場所を提供頂けると有難い」  アリスタゴラスはにっこりと肯いて、客舎の手配と、歓迎の宴の準備を命じた。  数日後。アリスタゴラスからの呼び出しを受けて、ナクソスから来た一団は再びプリュタネイオン(公会堂)に集結した。 「先日の一件じゃが。少々思案をして、思いついたことがある。それが最善と呼べるに値するか否かは諸君に聞いてからにしよう。私の懇意にしている者の中に、ヒュスタスペスの子アルタフェルネスがいる。ペルシア王ダレイオスはヒュスタスペスの子であるから、まあその弟じゃな。サルディス総督で、アジア沿海地方一帯を支配し、大軍隊と軍船多数を持っている。彼に頼れば、或いは、そなたらの望みを叶えることが出来るかも知れぬ。どうじゃな?」  勿体つけたようなものいいではあるが、ナクソスから来た亡命者には天からの声とも聞こえた。 「おお。それは心強い」 「流石はアリスタゴラス」 「是非にも、宜しく取り計らって貰いたい」  口々に出てくる賛辞は、アリスタゴラスの耳に快く響く。だが、肝心なことを忘れては勝利者とは呼ばれることはない。 「それで、その軍隊派遣の費用だが…」 「おお、それは我らが何れ弁済しよう。事の成った暁に。どうかそのようにアルタフェルネス…だったか。約束しておいて貰いたい」  多数の軍勢を後ろ楯に戻れば、ナクソスの人々は彼らの言うがままになるだろう、そしてナクソスの近くの島々も同様になろう。彼らはそう思っていた。画布一杯に描かれた未来図は、極彩色であるように思われた。 「では、私はサルディスに赴き、アルタフェルネスにその話をしてこよう。待たせて済まないが、もう暫く滞在して頂きたい」 「吉報を楽しみにしている」  ナクソスから来た客人達は、そういってアリスタゴラスに深い感謝を寄せた。無論アリスタゴラスにはアリスタゴラスなりの皮算用がある。だが、それは彼自身の胸のうちに仕舞われて、ナクソスの人々の前に公開されることはなさそうだった。  数年前、ヒスティアイオスが通った道を、今アリスタゴラスが通っている。サルディスという名の古都は、やはり一国の都であった場所であった。広壮にして豪華な王宮の主はダレイオスだが、現在は代理としてその弟アルタフェルネスがいる。王の道の出発点そして文化の都でもある。膨大な量の寄進物を奉納したことで知られるサルディスの主人クロイソスは、その寄進物の為にデルフォイから神託の優先権を拝領した。その富はかき集めて献上されたものではないということが、王宮の建物一つで判る。酷政を行って民から吸い上げた財宝ではなく、集まるべくして集まった富の余剰を、奉納していたにすぎない。豊かな都は今は最早リュディアのものではない。 「どえらく立派だな。噂以上だ」  そう一言感想を漏らすと、アリスタゴラスは中へと誘う案内人に従った。ナクソスの人々と、自らの野望の為に。  アルタフェルネスが居たのは執務室である。ここサルディスには旧リュディアの玉座もあるが、それは普段使われることはない。玉座の主はダレイオスであり、名代であるアルタフェルネスがそこにダレイオスの代理人として着座することは、極稀なことであった。アリスタゴラスの姿を見て、少し眉を寄せた。一瞬のあとに表情が少し柔らかいものになる。 「ヒスティアイオスの娘婿どの。久しぶりだ」  アリスタゴラスの訪問は既に伝えてあった。顔を見るまで、それがヒスティアイオスの従兄弟であるアリスタゴラスと一致しなかったのだろう。父の名を添えてあるとはいえ、ヘラス(ギリシア)人にアリスタゴラスという名前は、少なくない。イオニア系有力者だけでも数人の名前が挙がるのだ。父名だけで識別できなかったアルタフェルネスを責めるのは酷であろう。久闊を叙して、本題に入る。 「閣下はナクソスという島をご存知ですかな?」 「確か、アイゲウスの海(エーゲ海)の島だったように思うが」 「左様。大きい島ではありませんが、美しく、地味も肥えており、奴隷や財宝も豊か。アイゲウスの海に浮かぶ島の中でも指折りの島でイオニアからも近うございます」  その言葉に心揺るがぬ権力者は少ない。アルタフェルネスとて例外ではなかった。ごくり、と唾を嚥下する音が聞こえる。 「とっかかりが、欲しいな」  その瞬間を待ちかねていたように、にやりとアリスタゴラスが笑う。 「閣下にとっても悪い話ではありますまい。実は今、ミレトスにナクソスからの亡命市民がおります」 「ほう」 「国に帰れば彼らは一級の有力市民、ナクソスに兵を進めて彼らを帰国させるよう取り計らうことをお勧めいたします。軍隊出動費用は事の成った暁にナクソス亡命市民が全額弁済すると申しておりますし、閣下はただお持ちの軍隊の一部をほんの少しの間、お貸しするだけで宜しい。ナクソスに従属する島々も数多くございますゆえ、これらの全てを大王(ダレイオス)の版図に加えることが出来ましょう。そうなれば大王の覚えも更に目出度くなりましょうし、何れはそこを基地として更に西へ足を伸ばす足がかりとすることも出来ましょう。如何ですかな」  アリスタゴラスの目はアルタフェルネスの反応を見守っている。だが、その表情は「美味きわまる獲物を逃すのは愚者のやることですぞ」と言っているようにアルタフェルネスには思えた。西には、エウボイア島、そしてその先にはアテナイを含めたヘラス本土がある。将来を見据えた布石だと王であり兄であるダレイオスから絶賛されるのは間違いないだろう。 「船はいかほど必要かな?」  身を乗り出しかけたアルタフェルネスに少々逆らうように、眉根を寄せて思案気に呟く。 「そうですな。百艘程あれば十分でしょうか」  この当時、海軍力を保有する都市国家でも、五十艘以上の船を用意出来るところはまずなかった。殆どが陸上の戦力であり、重装歩兵であった。アリスタゴラスはそれを踏まえた上でこの過酷とも言える条件を提示したのである。 「ふむ。そなたの申し出はペルシア王家にとってまことに有益なものだと私も思う。大王の認可を必要とするが、それが得られればすぐにでも用意するとしよう。それから、船の数は二百艘だ」 「えっ」 「よもやこの数で少な過ぎるとは言うまいな?」  にやり。と笑ってアルタフェルネスは、アリスタゴラスの計算の倍の兵力を提示してみせた。兵法の基本である。 「おお。ナクソス攻略はこれでより確実なものとなりましょうぞ」  アリスタゴラスは喜色を湛えてミレトスへ帰国し、アルタフェルネスはすぐさまスーサへ使者を送った。ダレイオスの認可を求める為である。 三  気だるい午後であった。乾燥した空気と暑い日差しが降り注いでいる。只管に青い空には埃が舞っているのだろう。澄みきったとは言えぬ濁りがあった。しかしそれが慣れた肌には、バビロンの水気を帯びた空気より遥かに心地よい。晒していると肌を刺す程に強烈な直射日光もまた、この上もなく快い。一族の故郷の地であるアンシャンとは大分異なる空気ではあるが、乾燥した空気特有の厳しさが楽しかった。 「こちらにおいででしたか」  鋭くも高くもない声が、広大な帝国の主であるダレイオスの耳を打った。足音も気配も感じさせぬこの男は、近習となって長い。王の思うところ願うところを余すことなく理解する、得がたき人物である。得てして、そういう人々は阿諛追従に傾きがちだが、それがないことをダレイオスは気に入っていた。声には出さず、視線で問いかける。 「サルディス総督アルタフェルネス様より使者が来ております。謁見の間に」 「弟が? …判った、すぐに行こう」  王に一礼して退き、風のように近習は消えた。ダレイオスは手にしたままの杯を置いて、ゆっくりと立ち上がった。  謁見の間に控えていたのは、弟であるアルタフェルネスが寄越した使者である。特に小アジアで揉め事があったとは聞かないし、緊急のことではないのだろうと察せられた。使者自身の表情にもゆとりがある。 「サルディス総督からの使者よ。用件を話せ」  重々しく告げたのは、王ダレイオス本人ではない。ペルシア王がじきじきに声を掛ける程の存在ではない。 「はっ。大王陛下にはご機嫌麗しゅう、恐悦至極に存じます…」  決まりきったご機嫌伺いの挨拶の口上を一通り述べ終えると、本題に入る。関心のなさそうだったダレイオスの表情が、話が進むにつれて血色が良くなっていく。 「賢明なる大王陛下には申し上げるまでもないことでございますが、ナクソスという島がアイゲウスの海(エーゲ海)にございます」  使者は、アルタフェルネスから聞いた言葉を、そのまま伝えようと試みていた。その元はといえばアリスタゴラスの口から発せられたものである。ナクソスという島が地味肥え、奴隷も財宝も豊かであること、そしてその島からの亡命市民がアルタフェルネスを頼ったことを、少々の脚色を交えて説明した。艦隊を出動させれば、ナクソスのみならず、キクラデス諸島の島々をもペルシア支配下に置くことが可能となろうという話は、版図の拡大を願うダレイオスにとって、中々に魅惑的な提案であった。 「アルタフェルネスは何と申しておる?」  逸る心を抑える。二度も続けて失敗しては、大王としての面目が立たぬ。 「されば、二百艘の船と、ペルシア軍及び同盟国軍で構成された遠征軍を用意して、ナクソスを攻略したいので、大王陛下の認可を頂戴したい、とのことでございます」 「戦費はどうなるのか」 「ナクソスの亡命市民が、事のなった暁に弁済すると申しております」  すらすらと澱みなく答える。ダレイオスは顎の髭を指で撫でた。 「良かろう。承認を与える」  うまくいけば、キクラデス諸島近辺の制海権が手中に収まるだろう。それは、全ヘラス(ギリシア)世界の半分ともいえる。折角の機会を逃す程に、ダレイオスは愚鈍ではなかった。或いは、少々利に聡くなければ良かったのかも知れぬ。うまい話である。それが叶うなら。しかし人は実現して欲しい未来と、実現しそうな未来とが並んでいた場合、より前者を夢見るように出来ている生き物である。ダレイオスもまた、その生き物としての制約から逃れることは出来なかった。  兄であり王であるダレイオスから作戦の承認を受けたアルタフェルネスは、早速準備に取り掛かっていた。二百艘の三段櫂船と、ペルシア軍及び同盟国軍の編成が必要であった。勿論糧食と水、武器なども不可欠のものである。それらの準備に取り掛かる一方で、総指揮官となる人物の選定に頭を悩ませていた。大規模な軍隊である。信頼出来ぬ者に預けることが出来る筈はない。そうして同時に無能な者であってはならぬ。幾人かの候補が浮かんでは消え、消えては浮かんできた。一人、その脳裏に引っかかった人物がいる。濃い茶色をした髪と瞳、壮年に近づきつつある王族。その父親は、アルタフェルネスたち兄弟の父であるヒュスタスペスの兄弟で、つまり彼と、王ダレイオスとアルタフェルネスは従兄弟同士にあたる。少々融通が効かないところはあったが、律儀で良く軍律を守るという評価が高かった。声望の高さではペルシア王族中でも上位だろう。その青年の名を、メガバテスという。かつてヨーロッパ担当指揮官だった人物はメガバゾスといい、名前は一文字違いで似てはいるが、血縁関係は全くない別人である。アルタフェルネスからの呼び出しを受けて、彼はサルディスに到着した。アルタフェルネスは王ダレイオスに話したようにナクソスの事情を説明し、最後に高らかに告げた。 「メガバテスよ。兵を率い、ナクソスを攻略せよ」  青年は、逃れられない運命の軛に、囚われたような気がした。用意された二百艘の三段櫂船に乗り込み、ペルシア軍及び同盟軍で構成された遠征軍を率いなければならない。サルディス総督の任命であるが、スーサにいる王ダレイオスの認可を得たものであるなら、それはまさに王命と言っても良かった。ストレスは少なからず過重であったが、これは王族でもあまり高位に位置していないメガバテスにとっては、一つのチャンスでもある。躊躇することなく任命を拝受し、サルディス総督の骨折りに深く感謝を示して、船出した。ミレトスへと。  ミレトスへの航海は順調であった。僭主代行のアリスタゴラスと、亡命中のナクソス市民らは既に艦隊到着の知らせを受けて港に待機していた。機嫌良く出迎えたのは当然だろう。彼らの願いと野望を叶えるための艦隊であるのだ。 「遠路はるばる、ようこそ」 「メガバテス殿。宜しくお願いする」  アリスタゴラスとナクソス市民らが口々に遠征総指揮官を労った。言葉での礼は無料である。しかし流石にミレトスの僭主代行者は、それだけでは終わらせなかった。 「総指揮官殿には些少ではあるが食糧と、それから少しばかりの金銭も用意した。この遠征に使って頂きたい。成功の暁には何れ、ナクソス市民の諸君から弁済はあるだろうが、当座に必要な分程度は私が出すつもりである」  少し胸を反り返らせたアリスタゴラスに、胡散臭さを憶えつつも表情はにこやかに応える。 「それはありがたい。アリスタゴラス殿、感謝する」  アリスタゴラスの好意については、メガバテスは確信を持つことが出来なかったが、少なくともナクソス亡命市民の目には、帰国への願望が色濃いと見えた。しかし。と彼は思う。これは、事後にナクソス亡命市民が弁済することになっている。とすれば、これはいわば傭兵である。総指揮官という立場は軍隊全てを掌握することが出来るものだが、これでは彼らを単なる傭兵として扱うのではないか、という危惧がメガバテスを捉えていた。 「ミレトスから、まず北上してキオスへ寄航します。ヘレスポントスを目指すと見せかけて、それから一気にナクソスを叩くのが最上と存じますがそれで宜しいですね?」  きびきびと話すメガバテス総指揮官の言葉に、ミレトスから合流した人々は深く肯いた。その最初の目的地キオスで、ちょっとした事件が発生するとは、このとき誰も予想だにしていなかった。 四  アイゲウスの海(エーゲ海)の上を渡ってくる風は、その空気の色まで青く輝くようだった。風光明媚と一言で言ってしまうのは簡単であるが、豊かな緑と黄金色にも似た砂浜に囲まれたキオス島(現ヒオス島)の魅力はそれだけではない。キオス島を含めた小アジア西岸五島は、全体に山がちではあるがオリーブをはじめとした木々が茂り、肥沃な土地は果樹栽培にも適していて、穏やかな入江と良質の港をもっている。その五島の中には女流詩人サッフォーの出身地として有名なレスヴォス島もある。女流詩人にそういう嗜好があったのかどうかはさだかではないが、「レスビアン」の語源となった島である。しかしそれはさしあたって現在のペルシア及び同盟軍の艦隊に影響はない。  ミレトスを出た船団は、昨日ここキオス島のカウカサ港に到着した。北風が吹くのを待って、一気にナクソス島へ向うのである。ナクソス島のほぼ真北に近いキオス島を選んだ理由は、一にヘレスポントスを攻撃目標としてカムフラージュすること。二にこの北風である。艦隊の総指揮官であるメガバテスはいつ北風が吹いても良いよう、手筈を整えていた。段取りは九分通り終り、最終確認として艦隊の警備状況を巡察することにした。同行したのはまだ若い従卒が一名程で、メガバテス自身も軽装である。あまり重苦しい服装を好まない彼は、童顔のせいもあって少々軽く見られるところがあるのだが、それに気づいていない。童顔であれば尚更重々しさを強調した衣装をまとった方が威厳もつくしハッタリも効かせ易いのだが、メガバテス自身は機動力のない従卒にも自分にも興味がなかった。  艦隊の船一つひとつを巡察するのには時間がかかるが、それをしっかりやっておけば綻びも生じ難い。逆にそれをやらねば上手の手から水が漏れる如くに計画は水泡に帰すのである。幾つかの船を巡察して、満足気に肯くと、一つの船が妙に気になった。ミュンドスからの船である。近くまで歩いてきて、その違和感に気づいた。船の周りに置かれるべき警備兵が一人も立っていないのである。他の船は全て、二人乃至三人以上の警備兵が居た。艦隊であればリスクは多少減るかも知れないが、警備の為に、兵は一つの船につき数人を置くのが本来の規則である。それに急な伝達事項があったとき、警備兵が居ないのでは誰に伝えればいいのか、困るだろう。メガバテスは怒りを抑えたような声で従卒に向って言った。 「私の親衛隊長を呼んで来い」  従卒は声音に含まれた微かな怒りに即座に気づいたが、何に対して主人が怒っているのかまでは読み取ることが出来なかった。 「はっ!」  律動的な動きで離れていった従卒の背中を見遣りながら、メガバテスはミュンドス船長にどういう処罰を与えたものか、頭を悩ませていた。戦いの前に厳重な処罰はあまりしたくはないが、これほど弛んでいては全体の士気にも関わる。士気をある程度引き締めつつ、しかし下げない処罰をしたいと思っていた。  考えこんでいるメガバテスの前に息せききって走ってきたのは、先程呼びにやらせた親衛隊長と、彼の従卒であった。親衛隊長は中年のがっしりした男で、焦茶色の髪に灰色の目をしている。髪と同じ色をした眉の太さはメガバテスの二倍はありそうだった。 「閣下」 「ミュンドスの船だが。警備兵が一人もいない。これはどういう処罰をすべきかと思うかな?」 「これは艦長の緩んだ士気が船員に波及したものと存じます。それが艦隊に波及しては困りますので、ここで厳重な処罰を与えるべきでしょう。艦長を拘束し処罰したいと存知ますが、お許しいただけますか」 「ふむ。では、ミュンドス艦長を探し出して処罰を与えよ。私は巡察を続ける」 「はっ!」  親衛隊長は踵を返して立ち去った。隊員を集めてミュンドス艦長を捕らえて厳罰に処するだろう。それがどういう処罰になるのかについては関心がない。ただ、全体の士気に影響がなければ、とメガバテスは思っていた。  その夕方のことである。ミレトスのアリスタゴラスがメガバテスのもとへやってきた。いつになく上機嫌で、上等の酒を持っている。どういう訳か、とメガバテスが視線を走らせると、こちらへやってきた。 「やあやあ、メガバテス殿」  酒は入っている様子ではないが、何とも気味が悪いような気がした。 「何か御用かな?」 「これを共に飲みたくてな…」  壺に入った酒の蓋を開ける。かぐわしいばかりの芳香があたりを染めて、従卒などは思わずごくりと咽喉を鳴らした程であった。 「上物だな……」  メガバテスは従卒に目で合図をして、席を用意させた。 「こちらへ…」  胡散臭いという表情を隠さぬままに従卒はアリスタゴラスを艦長室へ招じ入れた。後からメガバテスが入り、部屋の扉を閉める。普段交流のないアリスタゴラスがわざわざ手土産を持参した意味を考慮した結果であった。 「手土産をわざわざ持参されたのは、何用かな?」  窺うような目つきに、少々アリスタゴラスは相手の感情の冷えのようなものを感じ取ったが、そこで怯んでは目的を果たせぬ。 「流石はペルシア貴族でも切れ者と名高いメガバテス殿。話が早い」  そういってアリスタゴラスは、スキュラクスを解放して欲しい、と頼みこんだ。 「スキュラクス…?」 「ミュンドス船の艦長だ。私がとりわけ親しくしている者で、聞けばかなり手荒な処罰を受けているという。どういう罪かは知らぬが、釈放を依頼したい」  そのためにわざわざ?という言葉を飲み込んで、メガバテスは杯を下ろした。それではこの酒はまるで賄賂ではないか。軍規に照らして罰則を与えねば、軍隊としての規律を保つことは出来ない。それを犯したものをこのような賄賂でみすみす許しては、全体の士気を一気に低下させるだろう。アリスタゴラスという者はミレトス僭主代行として辣腕をふるっていると聞くが、その程度の男だったか。とメガバテスの中の何かが冷えた。 「軍規に照らして、明らかな違反を犯しているのだ。すぐさま釈放などは出来ぬ。この酒は確かに上物のようだが、アリスタゴラス殿にお返ししよう。私には少々適わぬようだ」 「しかし」 「お帰り願おう」  アリスタゴラスは一瞬、むっとした表情を浮かべたが、「なるほど、若い方には清濁併せ呑む器量を要求するのは酷だったか」と厭味のように一言添えた。  口の中に何やら苦いものが残っていたが、メガバテスはそれを唾と一緒に体の外へ吐き出した。 「親衛隊長はどこにいる?」 「はっ、お傍に」 「ミュンドス艦長に与えた処罰だが。どのように行ったのだ?」  アリスタゴラスがわざわざメガバテスのもとにやってきたということは、それが目につく処罰の仕方だったからに相違ない。しかし彼は処罰の方法を指定してはいなかった。親衛隊長に任せきりにして、その結果も見ていない。 「はっ! 重罪でございますゆえ、縛り上げて、体は船内にしたまま、頭だけを船外に。つまりは櫂の穴に押し込みました」  少し胸を張って得意気な親衛隊長に、苛々した気持ちを募らせつつも、それを出さぬように務める。親衛隊長が与えた処罰は、肉体としては楽ではあるが、衆人環視を受けてかなり精神的苦痛を強いられる罰である。なるほど、考えたものではあるが晒し者にされた者はたまったものではない。口を開くことが出来るなら、恐らくその苦痛をあらん限りの声で訴えるだろう。口が閉ざされていてもその惨状を見て、誰かがアリスタゴラスに告げたのに違いない。ミュンドス艦長スキュラクスがアリスタゴラスが懇意にしていたことを知っていたものは多かった筈である。 「あまり惨い刑では艦隊の反感を招く。もう少々処罰は考えた方がいいな。かといってそのままというのでは良くないが。まあ一晩はそこで過ごして貰おう。そのあと、私のところへ連れてくるように」  鷹揚に親衛隊長に告げた総指揮官だが、その翌朝、アリスタゴラスの手によってミュンドス艦長スキュラクスが解放されたと従卒から聞かされて、 烈火の如く怒り狂った。勝手に釈放するとは何事だ、といきり立ったメガバテスに、アリスタゴラスは涼しげに応えた。 「これはメガバテス殿とは何の関係もない。考えてみて頂ければ当然のことだ。アルタフェルネス閣下がメガバテス殿を派遣したのは、私の命ずるままに艦隊を動かすため。軍規に照らし合わせてもこのような処罰の方法など聞いたことがない。よって私はスキュラクスを解放したまでだ」  メガバテスの中で怒りが煮えたぎるようであった。このように顔を潰されて、ペルシア貴族しかもこの上なく王に近い従兄弟たる者が黙っていられよう筈がない。アリスタゴラスを見据える目に不穏な火が灯ったのに、ミレトスの僭主代行は気づかずに居た。 五  月のない夜だった。  すっかり更けて、人っ子一人とて居らぬ港で、船が今にも漕ぎ出されようとしている。どこまでも深い漆黒の闇は月の光を知らぬかのように、全てを包み込んで隠した。星灯りだけがその船の行手を照らす。たどり着く先は、冥府の入口か、それともヘラクレスの柱(現ジブラルタル海峡)か、それは誰も知らない。ただ、星だけが瞬いて、漕手には見えぬ行先を照らしているようだった。  アリスタゴラスは得意気に艦隊を眺めていた。二百艘の艦隊を用意出来る都市国家(ポリス)など、ヘラス(ギリシア)にはまずない。その二百艘もの艦隊がまるごと自分の指図通りに動くのである。余程そういう機会に恵まれているものか、歴戦の強者でもなければ、浮ついた気分になるのは是非もない。この艦隊でナクソスを包囲すれば、ナクソスの人々は恐れ慄いてすぐさまに降伏し、たちまちに亡命していた富裕な市民は元の身分に復帰し、勢力を取り戻すだろう。そうなった暁にはアリスタゴラスにも十分以上の見返りがある筈だった。隣に居るメガバテスにそっと視線を流す。伏せた目の睫の色は、髪よりも少し濃く、深い影を落としている。 「ナクソスの連中はこの大艦隊を見て慌てふためくでしょうな」  何気なさを装って声をかける。ミュンドス艦長スキュラクスの逮捕及びアリスタゴラスによる無許可解放の一件以来、まともに口をきいてはおらぬ。だが、関係を悪化させるのは、明らかに賢明ではない。穏やかに、しかし追従とは思われぬように気を配りながら、アリスタゴラスは言葉をかけた。それに対して、メガバテスは消極的ながら反対の立場を取っているように思えた。 「二百艘は艦隊としては確かに大規模でしょうが、それでも一都市国家を攻めるに際して十分な勢力とはいいかねます」  野戦と攻城戦とでは戦い方も異なるが、その一番大きな相違点は兵力の差だろう。難攻不落を誇る要塞であれば、守る側は、攻める側の何分の一の勢力で済む。だが、大艦隊の総指揮官ともあろうものが発言する内容としては、如何にも心許ない。何を弱気な、とアリスタゴラスは思ったが、口に出してはその見識を褒め称えた。 「流石にペルシアの若獅子、慎重でいらっしゃる。アルタフェルネス閣下が貴殿を推挙なさるのも当然のこと。だが、戦果はかなりのものになりましょう。それだけは疑いないですな」  ナクソスを見くびる訳ではなかったが、攻撃されることを知らぬナクソスの人々が戦いの準備をしているとは思えなかったし、何より、総指揮官が弱気であってはならぬ。 「風も待った甲斐があった。どうやら北風が吹き始めたようだな。明日にでも船出することにしよう」  アリスタゴラスは誰にともなくそう呟いて、踵を返した。その背中を、暗い眼差しでメガバテスがじっと見つめていた。  二百艘の艦隊が揃った様は、まさに壮観であった。どこまでも青い空に、涼しげな水の色が映える。キオス島の山の木々も、青々と伸びやかで目に快い。程よく心地よい北風が、ヒマティオン(外衣)を翻す。アリスタゴラスも含めた多くの者が甲冑に身を固める。  漕手は百数十人程度、水夫と戦闘員は合わせて三十人程度、合計で一艘の船に大体に二百人程の人間が乗っていると考えて良い。乗船するその全てが装備を固める必要はないが、陸戦に参加するものは装備を用意しておかねばならない。三段櫂船の名の通り、櫂の漕手は三段になって船を漕ぐ。一番上段の者は一番長い櫂を操ることになるので、少々骨が折れた。同時に、陸上や、戦闘になった際には船上からの攻撃を浴びる可能性もあるので、装備はある程度固めておいた方が賢明である。三段櫂船の船は重心が低く、重い。外洋には向かず、また船員の寝場所も確保出来ぬ。それゆえに長期の戦いを起すには、近くに補給基地を設けることが必須であった。  支度を調え終えると、アリスタゴラスは指令艦に乗船した。 「出航!」 「出航だ!」 「帆を揚げろ!!」  勇壮な男達の声が港に響き渡る。キオスの沖合で船が揃うと、全ての船首が南へと向けられた。 「ナクソスへ!」  アリスタゴラスの口から発せられた命令が、全ての艦船の長へと伝わる。メガバテスは唯々諾々とそれに従っているように見えた。傍目から見れば投遣りな、とも取れる態度だったが、その眼差しの暗さ重さに気づいたのは、メガバテスの従卒だけである。常日頃から身近に控えているだけに、主の変化に聡くも気づいたのである。だが、それに気づいていながら、一従卒に過ぎぬ身にはどうすることも出来ぬ。 「閣下…」  呟いた言葉は、メガバテスの耳に入ることはない。それは風に流され、遥か遠くに飛んでいくかのようであった。  ナクソス島が近づきつつあった。島影が漸く見え始めた頃、視力の良さでは艦隊一になるだろうナクソス出身の男が、同じようにナクソスから出てきた亡命者に語りかけていた。 「何か、様子がおかしくはないか」 「どこか?」  声を掛けられた男は、あまり目が良くない。島の様子が、と指されて示されても、俄かには判らなかった。近づくにつれて、その危惧が正しかったのに気づいたとき、ナクソス亡命者の一団の中から、深く重い溜息が吐き出された。 「誰か、アリスタゴラス殿に…」  そう言い出した者もいたが、それには及ばなかった。アリスタゴラス自身が、ナクソス亡命者のところへやってきたからである。 「間もなくナクソスに到着する。軍隊がナクソスを制圧したら、即座に市街に入り占拠して貰いたい。準備は万端整えておかれるよう」  上機嫌なアリスタゴラスを前に、異状を説明出来るナクソス人など、居よう筈もなかった。 「う、うむ」  重々しく肯いたのは、それでもこの計画が成功することを信じる余地が残されていたからである。二百艘の船のそれぞれに、戦闘要員が三十人程度乗船していれば、単純計算で六千人である。実際には漕手としての任務しか果たさぬ者は、今回全艦隊要員の半分も居らぬ。とすれば、二百人の乗船者の半数を戦闘要員として計算すると、二万人である。対するナクソスの壮丁は八千、それから艦船も保有している。その数は不明ではあるが、相当な勢力であろう。野戦に持ち込めば、数は倍以上。そうなれば、利はこちらにある。だが。 「ナクソスが!」  驚いたような物見の声が響いて、アリスタゴラスはそちらを振り向いた。 「どうした?」 「城門が閉ざされています!」 「何だと…?!」  城壁の外にはもの一つ、人ひとり居ない状態になっている。港に接岸しても誰一人見に来るものがおらぬ。 「一体…?」  訝しげにそれを見つめるミレトス僭主代行が呟く。それを見つめていたのは、メガバテスの従卒であった。 「情報が、漏れていたらしい」  アリスタゴラスはナクソス亡命市民団を前に、そう告げた。一旦キオスへ寄港したのは、目的地をナクソスと思わせぬ為にであった。しかし今回それは寄り道をしただけの意味しか持たなかった。既にナクソスは防備を固め、籠城の準備を終えていた。城壁は補修され、いつも城壁の外に置き去りになっていた物資も、猫や犬までも、皆城壁の中へと運び込まれていた。食糧、飲料は勿論、武器も用意してあったのである。 「何ということだ」  出だしから躓いたことにアリスタゴラスは一瞬呆然としたが、ここまで来てしまった以上、目的は果たさねばならぬ。ナクソス亡命市民団の手にナクソスを渡さなくては、彼の得るべき利益も何もかも、壺に書かれた葡萄程の意味さえなかった。 「城を包囲し、攻略せよ」  力の籠もった低い声で、僭主代行は叫んだ。自らの苛立ちを隠しきれぬ様子で。  睨み合いが続き、ペルシア軍及び同盟軍の二百艘の艦隊の全員が、満月を三回程このナクソスで見ることになった。ナクソス攻略のための資金は、一時的にミレトスとアリスタゴラス、そしてアルタフェルネスが拠出することになっている。ナクソスの防備が固められていたことに気づいた時点で引き返せば、まだその損失は取り返しのつかないものにはならなかったろう。しかしここまで来てしまって引き返しては、ナクソス亡命市民団の白眼を受けること必定である。アリスタゴラスはそういう人々の目を気にしながら、戦いに突入していった。ナクソス市民は籠城の構えを崩さず、どれ程挑発しようとも城門の外へ討って出ては来ない。城壁の内側へ攻め入る工夫を考えたが、修復を終えたばかりの城壁は堅牢な要塞のようで、蟻の子一匹出る隙間さえ見出せそうになかった。このまま時を重ねては戦費が嵩むばかりで益が一つもない。既に彼個人の出費は莫大なものとなっている。ナクソスを取り戻せば弁済して貰えようが、その宛がない現在、大博打に手を出したことに後悔を憶え初めていた。 「ペルシア軍の用意してきた軍資金が底をついたので、我々は立ち去ることにした」  感情を籠めぬ冷えた声でメガバテスが告げた。 「ナクソス亡命市民の諸君らには申し訳ないが、貴殿らの為の城壁を築いておいた」  あとは自分達で何とかしろ、と言外に匂わせる。 「明日出航するので、ペルシアに亡命したいものは今日中に名乗り出て貰いたい」  それだけを言うと、さっさと艦船へ戻っていった。後に残されたナクソス亡命市民団は途方に暮れた。 「アリスタゴラス殿! 何とかならぬのか!」  声を荒げて掴みかかろうとした者もいる。しかし、このような状態を想定していなかったナクソス亡命市民たちにこそ、その目論見の甘さがあったといえる。  惨澹たる状態で艦隊は大陸に戻らざるを得なかった。失敗は、アリスタゴラスがアルタフェルネスに約束したことを、果たし得なかったということでもある。それは、総指揮官であったメガバテスとの不和とともに、彼の上に大きな不安をもたらしていた。ペルシア軍は容赦なく遠征費用の催促を迫ってきている。結果が得られなかったことも手伝って、それは厳しい催促になっていた。様々な事柄が、金銭の借財以上に大きな負債となって、僭主代行の肩に圧し掛かってきていた。焦りと戸惑いが、彼の心を締め付ける。ペルシア側の信頼を失ってしまったら、ミレトスの僭主代行としての地位も危ぶまれるかも知れない。アリスタゴラスは、少しずつ追い詰められていった。