第二章英雄の末裔 一、ヘラクレイダイ 一  ヘラス(ギリシア)の大部分をなす、ペロポネソス半島は、「ペロプスの島」という意味である。ペロプスとは、伝説時代の英雄の名であり、ヘラスの祖と言われる人物の一人である。  ペロポネソス半島は、ヘラスの殆どがそうである如くに、いくつもの山と谷が複雑に絡み合って形成されている。その形は桑の葉(モレア)にも良く似ている。丁度桑の葉の太い葉脈に当たる部分には山があり、細かい葉脈が多い部分には谷があると考えれば、判りやすいかも知れない。東にパルノン山脈、ペロポネソス半島をほぼ南北に連なって東西に別けるタユゲトス山脈が、葉脈の先のタイナロン岬まで続き、西にはそれらの山脈ほどの規模はないが、イトメ山、リュカイオン山といった山々と、丘陵に囲まれた広くなだらかな平野がひらける。ラケダイモンを流れる川は、エウロタス。パルノン山脈とタユゲトス山脈を結びつける石灰岩の山地を通り、広い沼沢地を横切ってラコニア湾へそそぐ。水の利も良く肥沃な土地であった。ラケダイモンが、心理的障壁ともなりうる二つの山脈に囲まれているのに対して、タユゲトス山脈を隔てたメッセニアは、肥沃なばかりでなく開けた印象がある。この地には、先史文明が存在したが、ヘラスを俯瞰してみて、より発展したのはタユゲトス山脈より東の地域であった。黄金のミュケナイ、交通の要衝であるコリントス、そしていうまでもなくアテナイ。これらの都市と同等の勢力を誇りながら、しかし現在スパルタ(現在の都市名はスパルティ)は、観光名所のリストからは外されている。それは、「人が城壁」であったスパルタでは、遺跡らしい遺跡が殆ど残ってはいない。だが、それは繁栄していなかったという証明にはならない。  ラケダイモンとは、ラコニア地方に存在した国の名称である。「スパルタ」という名が一番耳に馴染みやすいだろう。それは、「スパルタ教育」につながるものであり、事実古代スパルタがそのスパルタ教育の発祥の地である。産湯は葡萄酒で、それで痙攣やひきつけを起すような子は、即座に遺棄される。新生児検査は王族を含めて等しく行われ、合格しなければ容赦なく遺棄された。その為か否か、スパルタはずっと人口不足に悩むことになった。先住民族を含めたヘイロタイ(ヘロット/国有奴隷)をしばしば殺したのも、ヘイロタイの人口がスパルティアタイと呼ばれたスパルタ市民の人口を、遥かに上回る数だった為である。男の子は七歳まで親元で育つことを許されるが、それ以降は文字通りのスパルタ教育が待ち構えていた。  この都市の誕生は、紀元前千数百年前に遡る。トロイア戦争で有名な美女は「スパルタのヘレネ」、つまりはスパルタ王妃である。神話伝説が好きな方ならご周知であろう。スパルタ王妃レダが、白鳥に姿を変えて現れたゼウスの愛を受けて生んだ子の一人ということになる。もしヘレネという女性が実在していたとするなら、その民族はアカイア人であろう。ペルシア戦争に関わりがあるスパルタ人は、その後にこの地にやってきたドーリス(ドーリア)人であり、先住民族アカイア人を追いやり或いは奴隷として支配した。侵入者であるドーリア人たちは、ヘラクレスを祖とする人々に率いられていた。伝説を事実とするなら、古代スパルタ王家はヘラクレスの子孫ということになる。双子の王子を先祖とする二つの王家は、上位王家をアギス家、下位王家をエウリュポン家という。上位王家の最初の王はアギスという。年代は、紀元前九百三十年頃くらいという説がある。下位王家の最初の王エウリュポンは同八百九十年頃ということで、以降は二つの王家が同時に存在するという、世界では稀なケースとなった。もっとも、民主政治発祥の地ヘラスでは僭主を嫌ったためか、この二人の王が専横を振るうことが出来ぬよう、早くから長老会(ゲルーシア)が存在し、また一年任期の監督官(エフォロイ)五人が監視の目を光らせていた。長老会は、六十歳を過ぎたスパルタ市民の中から選出され、終身その任を負う。死没の際には新たにまた一人が任命されることになっていた。対する監督官は年齢についての制限に言及した描写はない。しかし、王の行動を監視し、王が儀式に参加するときは立会い、時には王を拘束する権限さえ持ち合わせていたことは、絶対王権が多かった古代においては極めて稀な例だったといえるだろう。  スパルタの繁栄の源は、周辺地域の支配に成功したことである。主として、肥沃なメッセニアの併合が大きい。膨大な数のヘイロタイを支配下において、市民達は初めて自分達で耕作することなく収入を得ることが出来るようになり、結果余暇が生まれた。英語で学校を意味するschoolがギリシア語の暇を意味する「スコレー」に由来していることを考えれば、「生活の糧をあくせく働くことなく得ることが出来るようになったから、暇潰しでもするか」という古代の人々の呟きが聞こえてきそうである。それは同じくアテナイでもあった。奴隷によって人々は収入を得、それからアゴラに集まって政治論争や哲学を語るようになったのである。奴隷という、金銭で売り買いされる人々の存在が是とされた時代、それは必要不可欠なものであったのだろう。スパルタでの奴隷が共有財産つまり国有奴隷であったのに対し、アテナイは私有であった。その主人によっては待遇も異なった。いい主人にあたれば、家族同然の待遇を受けて、長きに渡る奉公の末、時には他の都市国家(ポリス)の市民権を買うことが出来た。悪い主人に当たれば牛馬の如き扱いを受けたようである。勿論逃亡を企てた奴隷もいたが、見つかれば唯ではすまない。スパルタではその余暇を体の鍛錬に使い、アテナイでは主に頭の鍛錬に使ったとでもいえそうだが、アテナイは現代の国家で言えばアメリカの如き訴訟天国であったので、弁論術が盛んであった。ついでに告訴常習者などもいたようである。ではスパルタはどうだったかというと、寡黙を美徳とする風潮であった。しかし言葉は最小限で、気の利いた切り返し技も不可欠とされていたので、アテナイの人々とも十分に渡り合えたようである。それはさておき。メッセニアという巨大な穀倉地帯を配下におさめたのち、スパルタは大いに繁栄することとなった。それは、紀元前七百年代後半のことだったようである。  どの都市国家でも改革を必要とする。アテナイでは国政が王政から貴族政へ、そして民主政へと移行するときに、幾度にか渡った改革が実行された。国の制度が二王と長老会と監督官という極めてシンプルな形で調えられたスパルタにも、改革は必要であった。そこに登場するのがスパルタでは神の如き尊敬をもって敬われることになる、リュクルゴスである。  リュクルゴスは、一説にはスパルタ王家の出身である。摂政のような立場にいた人物とも目されているが、実在したかどうかについても議論の余地がある人物である。或いは、何人かの改革者の業績が、一人の人物に集約された結果であるのかも知れないが、その改革者に与えられた名称はリュクルゴスであった。とすれば、役目の名称とも思えなくもないが、とりあえず今は一人の人物の名ということでいいだろう。いずれにせよ、古代スパルタにはリュクルゴス体制(制度)と呼ばれるスパルタの軍事・社会組織を制定することが必要であった。奇妙なことは、このリュクルゴス体制が、彼がクレタ島で学んでもたらしたとも、デルフォイの巫女に授けられたともいう伝説があることである。 二  リュクルゴスの改革の内容については、判らないことも多々ある。幾つか主要なものを挙げるとすれば、以下のようになるだろう。  一、法律の制定  二、法律違反の取締  三、貨幣制度の改革  四、女子の運動の奨励  五、兵制の制定    血盟隊(エノモティア)、三十人隊(トリアカス)、共同食事(シュッティア)。  一説によれば、監督官(エフォロイ)及び長老会(ゲルーシア)も彼リュクルゴスの創設だという。スパルタと同じドーリス系諸国(クレタ島など)では毎年監督官が任命されていたという。それらはクレタ島からリュクルゴスが学んでもたらしたという説もありはするが、そのすべてをリュクルゴスによるものとするのは少々危険或いは早計であるようにも思う。或いは、それほどの伝説的立法家だったとも言えるのだろうが、それはドーリス系特有の、もともとあった制度ではないだろうかと思える。  制度について、少々説明を添えよう。  血盟隊(エノモティア)  意味は「誓い合った仲間」。スパルタ軍隊組織の最下部単位である。平たく言えば小隊とでもいうところか。定数については不明だが、少なくとも「三十人隊」という名称が別にある以上、それ以下の人数であったのではないかとも思える。だが、三十人隊との関連などについては不明であり、今後研究の必要がある。三十人隊=血盟隊という説もあるが、三十人もの人々で一緒に誓い合うというのは、少々大規模すぎないかとも思われるので、五人乃至十人から、せいぜい十五人程度までとしておきたい。  三十人隊(トリアカス)  意味はそのまま、三十人の隊ということらしい。だが、先の血盟隊の説明にも書いたように、定数については不明であり、血盟隊との関連についても不明。  共同食事(シュッティア)  意味は「共に食事をすること」。スパルタ特有の制度である。スパルタ市民(男性のみ。女性は市民としては認められていなかったので、以下「市民」は男性のみをさす)は王も含めて必ず共同食事をせねばならないという規定があった。人数は十五人程度ずつだったらしい。自宅で妻と食事を取りたくなった王が、食事を使いの者に取りに行かせたところ断られたというエピソードがある。共同食事ではスパルタの二人の王は、それぞれ二人分の食事が与えられたが、それは自分で二人分を摂るためではなく、市民の誰かに栄誉を与える為に予め用意されたものであったらしい。そこで食べられた食事及び葡萄酒については持ち寄りであったが、とすればその為の当番があったかもしれない。蛇足ながら、七歳以降のスパルタ男子は皆共同生活をしているが、それは四六時中一緒にいることによって連帯感が生まれることを期待してのことらしい。とすれば、家庭生活に戻りがちな彼らの精神を結束するために考え出されたことと言えるだろう。それというのも、三十歳を越えれば、七歳以降ずっと集団生活を強いられてきた市民は、成人として家庭を営むことを許されて家を持つことが出来た(結婚そのものは二十歳から許されるが、妻と一緒に生活することは出来なかった)ので、自然そういう共同生活からは遠ざかることになる。当然それまで培ってきた連帯感も自然に消えていくだろうが、共同食事をすることによって、それを少しでも繋ぎとめようということかも知れない。共同生活を営んでいた七歳以降の男子は、食事はある程度は与えられるが、常に足りないように準備された。これは、彼らが盗みをするように仕向けるためのものである。見つかると罰せられたが、それは見つけられるようなヘマ或いは不手際をしたことを罰するものであり、盗みそのものを罰するものではなかった。蛇足ついでに、ヘラス(ギリシア)では夕食は日没以降、大体現代の時間に換算して、二十一時以降に開始されたようである。スパルタが同じ時間くらいに食事を摂っていたと仮定すると帰宅時には真っ暗闇だった筈だが。深夜でも闇夜でも同じように行動出来るよう、松明を持って歩くことは許されなかった。  長老会(ゲルーシア)  二人のスパルタの王と、二十八人の長老とで形成される、スパルタの最高会議。長老は六十歳以上の男子から選出され、終身制。主としてその職権は司法にあった。  民会(アベソラ)  詳細については伝わらない。だが、長老会が別にあることを考えれば、多数の市民が参加するものであったことが予想される。ただし、あまり活発な動きはなかったろう。  監督官(エフォロイ)  他のドーリス系諸国にも見られる制度である。毎年全市民中から五人ずつ選出された。その役目は王の施政や行動などを監視するものであり、ヘラスという土壌が独裁制を嫌ったためか、王の権限が縮小されるのに従い監督官の権限は拡大強化されていった。時には王を拘束したり処罰することも出来たという。後継ぎがなかなか出来ぬ王に妻を離縁して新たな妻を迎えるよう勧告したという監督官もいた。  制度についてはこのあたりで止めておきたい。時代によっては兵制も大なり小なり変化するが、大まかなところはこのようなものであった。だが、それだけでは不十分であると思うので、説明を添えておく。  貨幣制度は、金貨銀貨を廃し所有を禁じて、全て鉄などの重量がある金属が使われた。財産があると重くて大変という次第である。スパルタは一種の鎖国状態で、市民が公平で平等で、収入について落差が生じないことを望んでいた。経済や商業が活発でないために、商人たちもやがて来ないようになっていったという。まあ商取引を行えば、もっていていい貨幣だけで払うとなると大変重くてそれこそ馬車何台かを使うということになる。とすれば目立つので、ちょっと恥ずかしいし手間隙もかかる。という訳であった。  続いて、女子。アテナイを含めた他のヘラス諸国では、女子は自宅の中にいるもので、結婚前も結婚後も、かなり行動が制限された。スパルタでは健康な子供を生むため、そして陣痛を含めたお産に耐えるだけの力を蓄えるために運動を奨励した。具体的な競技種目としては、競走、格闘、円盤投げ、槍投げである。スパルタの女子は結婚後は他のヘラス諸国の女性と比べると、比較的自由であったらしい。ついでに、スパルタでは子供は年間を通じて殆ど裸同然であった。一応一年に一枚衣服は支給されたが、サンダルなどの履物はなかったようである。それは女子も似たり寄ったりで、放埓がなくて廉恥心があれば良いとしていた。流石は彫刻の国というべきか。簡素への慣れと同時に、健康で引き締まった体そのものを愛でる機会を設けるあたりがお国柄と言えるかも知れない。女子に対しても、自尊心と徳性と名誉心を培わせたとされるが、それが事実だとしたら、リュクルゴスはヘラスにおいてはかなり開明的な人であったといわざるを得ない。  結婚について。若くて未成熟な女性よりも年頃(という言い方は少々微妙でもあるように思うのだが、出産に適した年齢とでもいうべきか)で成熟した女性を妻に求めた。略奪婚の形式をとった結婚式であったようである。プルタルコス「英雄伝」リュクルゴスの部分には、その儀式が簡単に記されている。略奪された花嫁は頭を剃られ、女性の衣服を剥ぎ取って男性の上着とサンダルを与えられ、灯のない藁床に横たえておかれたとある。花婿たる男性は共同食事を終えてから花嫁の傍らにやってきてその帯を解き、抱き上げて寝室に移した。暫く時を過ごした後、花婿は身だしなみを調えて共同生活を営む他の青年たちとともに眠るために立ち去る。という。また、少々妙ではあるが、後継ぎのいない男性が、良い子を生めそうな多産系女性をその夫の諒承を得て自宅に迎え、子供を生んでもらうということも時折あった。果ては、どうしても子供に恵まれない男性が、自分の妻に、生まれのよい若者を宛がって、生まれた子を自分たちの子として育てるということも許されていたらしい。不倫でも姦通でもなく、予め申し立てられてあったことなので、当然ながら関係したどの人物も処罰されることはない。いずれにしても、健康で頑強な子を望んだスパルタ市民が切ない程に子供を求めたということかも知れない。個人的には、誕生時に多少虚弱でも成長して頑強になっていくこともありうるのだから、新生児検査で落第でも育ててみれば意外にいい成長株になったかも知れないと思うのだが、彼らはそうは思わなかったようだ。だが、子供は親の私物ではなく、国家の公共物(宝という訳ではないらしい)であるという思想が根底にあった。  以上が簡単ながら、スパルタの制度についての説明である。リュクルゴスが加わっているかいないか不明な制度もあるが、スパルタの制度として簡単に記した。ついでながら、リュクルゴスという人物の終りについては諸説あり、しかもその多数がスパルタでない異郷の地で生を終えたとするものである。そのうちの一つに、リュクルゴスがスパルタの人々に「私が帰国するまで現行の法律を違えてはならない」と言い置き、デルフォイへ向ったという話がある。そこで、法律は国家の繁栄と徳性の為に十分に定められたか否かを問い、その答えとしてそれを用い続ければスパルタは極めて高い名声を保ち続けるだろうと返ってきたので、食を絶って死んだという。彼が帰らぬ限りは、その誓いを守り続けてくれるだろうという希望のもとの自殺である。  リュクルゴスには、一子がいた。その名を、アンティオロスと言った。その子は、子なくして世を去ったので、彼の家系は途絶えた。しかし、リュクルゴスの仲間や親族は彼をしのび、彼の精神と事業とを継承するための団体を創設し、長く続けた。その会合が行われる日を「リュクルギデス」と呼んだという。 三  ラケダイモンつまり古代スパルタについての話をすすめよう。  ヘラス(ギリシア)では、都市国家ごとに全く異なる暦を使っており、その月の名や日数についてもかなりアバウトだった。単位や貨幣についても統一がなされていないのは止むを得まい。度量衡を現代のものに換算して考えたとしても、金銭の価値そのものが現代とは大きく異なる。それでも基準となりうるのは、やはり商工業が発達した都市国家(ポリス)の度量衡だったろう。たとえば、アテナイ。芸術と学問が花開いた都だが、アテナイに対抗する都市としてあまりに名高いスパルタは質実剛健で知られ、商工業があまり発達しなかったというよりは、必要としない状態に自らを作ったと言った方が正しいかも知れない。農業中心の貴族政都市国家であった。  ヘラスでは、祭礼というものは必要不可欠のものであった。ラケダイモンでは、有名な祭礼が判っているだけで三つあり、その何れもが春から夏までの時期に集中している。まず最初に行われるのは、現代の暦で五月末から六月初めくらいにかけて行われるもので、ヒュアキンティア(ヒュアキントス祭)である。アポロンとヒュアキントスを祭ったもので、ギリシア神話ではアポロンと円盤投げに興じていた美青年ヒュアキントスが、アポロンの投げた円盤に当たって打ち所が悪く死んでしまい、アポロンが彼を悼んだということになっている。それはヒュアキントスを愛していた西風の神ゼピュロスが、二人の仲睦まじい様子に嫉妬して起した風の為であったともいう。結果ヒアシンスという花が美青年ヒュアキントスの血から誕生したということになっているが、もう少々詳しく調べると、どうもヒュアキントスはスパルタ南方の集落アミュクライの土着の神であったようで、大地と深く関わりがあり毎年の植生のサイクルを象徴しているらしい。この土地出身のスパルタ兵は、出征中も祭に参加することが出来るという権利を有していた。祭は三日ほどあり、その中日にはスパルタからアミュクライまでのパレードなどもあったらしい。蛇足ながら、ヘラスでは、男性同士の愛は恋愛として許容されていた。プラトニックなものか否かについては、それぞれのカップルの自由だったろうが、男女の恋愛よりは美少年とそれを導く程度の年頃の人物との、人格を高め合う愛というものの方が世間的には認知されていたようである。  次に、ギュムノパイディアイ(裸の歌舞の祭)。双子神(ディオスクロイ=双子として誕生した神々。この名で呼ばれる神として有名なのは、他にスパルタに縁の深いカストールとポリュデウケスがいる)アポロンとアルテミスを祭った体育祭である。現代の暦で七月末くらいに開催された。参加を許されたのはスパルタ市民であるが、未婚男性の見物は不可とされた。数日間に渡る数多くの競技は、戦場での耐久力を証明するものである。最終日には五人の監督官(エフォロイ)を先頭に、大パレードが行われた。これは紀元前六六八年頃、スパルタが大敗北を喫した戦いののち、内外の混乱をおさめるために催されたという説がある。  そして最も有名で壮大な祭礼は、カルネイアである。毎年盛夏に行われるもので、アポロン・カルネイオス又はアポロン・カルノスを祭った祭礼とされる。カルネイオスはアポロンとその母に育てられた土着の神という説があり、カルノスはアカルナニア人の預言者で、カルネイオスの祭司とされる。ヘラクレスの子孫に殺され、この殺人はアポロンの怒りを招いた為、アポロン・カルノスとして祭られ、アポロン・カルネイオスと一体化したという。カルネイアの時期は現代の暦に換算して、八月下旬頃から始まる。八日間程の祭礼の最終日が満月になるよう、予定が組まれていた。これはドーリス人の他の諸国でも開催されたようだが、一番有名なのがスパルタの祭礼であったらしい。かなり大規模でかつスパルタでは神聖視された祭礼で、この祭の期間中の出征は絶対禁止とされていた。重装歩兵の模擬戦的色彩が濃いものであったが、祭には葡萄の走り手(スタフュドロモイ)を追いかけて捕まえる競技や、若い男女の踊りなどもあった。スパルタはその習慣や風俗に関して詳細な記述をしなかった為、現在では資料が非常に少ないのだが、それでも僅かに伝わる情報の端々から、それが国を挙げての華やかな祭であったことは窺える。余談ではあるが、このカルネイアのすぐあとに、現代オリンピックの元となったオリュンピア競技が開催された。ヘラス全土から人々が集まるこの競技会は、四大競技会と呼ばれたうちのもっとも有名なものである。他にイストミア、ネメア、ピュティア(デルフォイ)があって、開催時期や年度に多少の違いがあった。イストミアやネメアは二年乃至三年毎であり、オリュンピアとピュティアは四年毎である。元々ピュティアは八年毎であったが、クリッサとの戦いに勝利したデルフォイがその戦勝記念として、従来の音楽や詩、舞踊などの競技に加えて、体育競技を取り入れた祭儀に改めた上で四年に一度としたという。なお、イストミアは春に開催されたようだが、ネメアとピュティアに関しては明確に時期を書いた文献をいまだに発見出来ていない。  スパルタは、ドーリス系である。ドーリスは、三つの部族(フュライ)に分かれていて、それぞれをヒュレイス、デュマネス、パンフュロイと言った。二人の王がその部族のどこかに含まれていたのか否かは不明だが、部族は相互の規模と地位に差がないことを原則とし、その都市国家の役人選出や軍隊編成の母体となった。  スパルタ=ラケダイモンの構成人員は、まずスパルタ市民(スパルティアタイ)。ドーリス人であり、成年を迎えた男性である。紀元前二四四年頃で七百人だったというが、人口が増えないことに苦しんだスパルタであったから、二、三百年程遡っても然程違いはないかも知れない。  次にその配偶者や家族。奴隷ではなく自由ではあるものの、参政権は持たない。それぞれの立場などによっていくばくかの義務を負う。  それから周辺民(ペリオイコイ)。「スパルタ市民」以外のラコニア地方(ラケダイモン)在住ドーリス人若しくは先住者アカイア人の一部である。自由身分であり、奴隷ではない。参政権は有しないが自治権を持つラケダイモン成員であり、従軍の義務がある。スパルタ市民の約四倍程度の人員が居たということだから、三千人弱というところか。  最後に、ヘイロタイ(ヘロット)。奴隷である。従属的身分であり、スパルタでは皆国有奴隷である。当然ながら参政権はない。このヘイロタイは国有奴隷として主に農業に従事していたが、スパルタ市民の十倍の人数がいて、時々叛乱を起した。それを恐れたスパルタ市民は、しばしば特に頑強なヘイロタイを選んで殺傷している。スパルタ市民となる青年が一人前と認められる際の最後の試験には、このヘイロタイを一人殺すことが課題の一つとして与えられた。このヘイロタイの叛乱は時としてスパルタを大きく揺り動かすことになった。 四  ラケダイモン(スパルタ)には、二人の王がいた。ヘラクレスを祖としている彼らは、つまりは全知全能の神ゼウスの後裔ということになる。その役目は国家に捧げられた犠牲そのものにも似て、与えられた任務を好むと好まざるとに関わらず、こなさねばならぬ。王は月毎に自分自身の為に、制定された法に従って統治することを誓約する。毎月毎月行われるそれは、まるで月の障りのようで、王であることを否が応でも思いださせた。もっとも、それに対して疑問を呈する余地さえもなかったろう。  王は、ことあるごとに犠牲を捧げねばならない。通常犠牲を捧げるときは、夜明け前とされた。出陣するときには出発前だけでなく、出陣してからも何度も犠牲を捧げる。吉兆を示さないときには、吉兆を示すまで何度も犠牲が捧げられた。国境を越えるとき、戦闘がはじまるときにも犠牲は捧げられる。それらが全て吉兆を示さないうちには、一歩も進むことは許されないし、たとえ弓矢を射掛けられようと反撃を試みることも禁止である。また、戦場では、全ての者は何かをしようと思えば、必ず王の了解を取らねばならない。族長的役割だけでなく、神官として、或いは将軍としての人間問題の処理なども全て王の役割であった。裁判を求めるものがあれば軍法会議に、金銭を必要とする者がいれば財務官のところへ、戦利品を持ってきた者があれば所管役人のところへと、それぞれを導くのもまた、王の役割である。族長というよりは世話人という言葉の方が似合いそうでもある。  王は、いくつかの権利を持っていて、それは名誉に関わることが多かった。一つは、王が現れたときは監督官(エフォロイ)を除く全ての人々が起立する。次に、捧げられた犠牲の分け前を受ける権利を有する。適度な収入に事欠かぬ土地を割り当てられる。公共用の幕舎を持ち、二人分の食事を受ける栄誉を与えられる。……これは、王個人が二人分を摂るということではなく、その権利をその名誉に値する誰かに与えるためのものである。王は、二人の会食仲間を選ぶ権利を有する。……恐らく、これもまた名誉に関わることだろう。王は、国の全ての豚が出産する際、子豚を受け取る権利を有する。これは、事あるごとに犠牲を捧げ続けねばならない王のための配慮だったろう。王が家畜を有していたかどうかは不明だが、いつでもその家畜が子を生むとは限らない。いつでも犠牲として出せるようにという配慮だろう。そしてまた、監督官に公私ともに監視されている状態で、どれだけ王は個人の自由を持つことが出来たのかは不明であるが、その職掌に相応しくないと判断された場合、監督官によって拘束・処罰を与えられる場合もあった。  二人の王は、ヘラクレスから数えて四代目に当たる、アリストデモスから別れたとされる。アリストデモスには双子があり、長子をエウリュステネス、次子をプロクレスと言った。まだ二人が幼いうちに、アリストデモスは死に、残された子を王として国家が育てるということになったが、その母つまりアリストデモスの妻は、両方を王にしたいと望み、「王の長子を」と求める長老に「どちらが長子か己にも見分けがつかぬ」と答えたという。弱り果てた長老は国でも指折りの賢者に救いを求めた。我が子を見分けられぬという言葉に疑問を持った賢者は、その母を観察するように、と告げた。つまりは、母親本人にも真実見分けがつかないなら、双子の世話の順番に拘りを持たずに行うはずであり、もし見分けがついているのなら、長子を常に先にするはずだというのである。母親はその意図を知らず監視下に置かれ、やがて常に先に世話をされていた長子エウリュステネスが、長老たちに引き取られた。長子は成長してやがて子を生し、アギスと名づけた。次子プロクレスもまた同様に成長して子をエウリュポンと名づける。この時は長子のみが王になり、次子は王にはならなかった。次子の長子エウリュポン或いはそれから数代のちに、次子の家系もまた王として立てられることになった。僭主や独裁制を恐れたための処置かも知れない。故に長子の家系を上位王家アギス家といい、次子の家系を下位王家エウリュポン家といった。王として連なる名前を確認していくと、その名前の意味からして存在を疑われている王もあるが、それでも紀元前九百年頃にアギス家が成立し、少し遅れてエウリュポン家が成立したとされている。双子であったエウリュステネスとプロクレスは育ちの違いのせいか、生涯仲が悪かったという。その気分は子孫にも伝染したものか、或いはDNAの呪いか、常に蜜月という状態ではなかった。それでも、それぞれがそれなりにやってこれたのは、長老会(ゲルーシア)や監督官をはじめとして、制度がきっちりと調えられていたからだろう。因みに、リュクルゴスは誰の子かということについては諸説あるが、上位王家アギス家の出身とされている。  兵の核をなすものは、当時のヘラス(ギリシア)では一般的であった重装歩兵である。少し後の時代の資料によれば、連隊長が六人いて、それぞれの連隊に大隊長四人、中隊長八人、小隊長が十六人居たという。他に軍隊に必要な幕僚として、幕僚長、預言者、医者、笛奏者、指揮官などがいる。連隊長は王と幕舎を共にし、三人の同僚も同じ幕舎で王と連隊長の補佐を勤める。因みに、この同僚という存在については少々不明確であるが、補佐役とでも考えれば良いかも知れない。蛇足ながら、ラケダイモン人が出陣する際は、一人のスパルタ市民につき、七人のヘイロタイ(ヘロット、ヘイロテス)がついたという。予備の槍などを持ったり世話をする係だったようだが、それらの人々を同行させた裏には、スパルタ市民の十倍の人口を抱えるヘイロタイに対する、あからさまな不信感が見て取れる。だが、実際に戦闘に加わったかどうかについては、さだかではないが、近辺に居た以上、戦闘に巻き込まれないというのは無理だろう。  スパルタの都市が建設されたのは、紀元前九百年頃という。人こそ城壁のスパルタでは、遺構が少なく、その存在を確認することは非常に困難であるが、スパルタ人はラケダイモンという国を数百年という時間をかけて、ゆっくりと作り上げたといえる。  リュディアがクロイソス王のもとで繁栄を極めていたころ、ラケダイモンの二人の王はアナクサンドリデス(アギス家)とアリストン(エウリュポン家)であった。クロイソス王は「ヘラス最強の国を調べてそれを同盟国とせよ」とデルフォイの神託を受けたという。この同盟については使者が行き来し、ラケダイモンの人々も乗り気になってあらかた決定したというが、使者がリュディアに到着する前にリュディアが滅びたという。同盟が成立して、ラケダイモンの人々がクロイソス王を支援するような事態になっていたら、リュディアの未来はどうだったろうか。蛇足ついでに、その二人の王に共通する、ちょっとしたエピソードがある。本来ラケダイモンでは一夫一婦制だが、この二人の王アナクサンドリデスとアリストンは各自複数人数の妻を娶った。それぞれの理由はあるにせよ、その二人が同時代同時期に王であったという事実は誠に興味深い。王の性格は窺い知れるエピソードはあまり多くはないが、性格については大分違いがあったようだ。何れにしても王としての役割を重々認識していたことは、疑いの余地がなさそうである。  「オレステス政策」と俗に言われる出来事がある。それを推進したのは、ヘラス七賢人の一人にも挙げられる、キロンである。その年、監督官(エフォロス/エフォロイの単数形)をつとめていた。その頃のラケダイモンは、個人の武勇はさておき、戦闘でいつもテゲアに苦杯を舐めていた。あるとき、デルフォイへ神託使(テオプロポイ或いはピュティオイ。託宣を与えるところは数多くあったが、デルフォイへの神託使のみが「ピュティオイ」と呼ばれたものらしい)をやって、如何なる神の庇護を受ければテゲアを打ち破れるかと訊ねた。巫女(ピュティア)は「アガメムノンの子オレステスの遺骨をスパルタに持ち帰れば望みは叶えられる」と答えた。悲劇として「オレステス三部作」はあまりにも有名だから、わざわざ書くまでもないが。このアガメムノンは勿論トロイア戦争のヘラス総大将であり、スパルタのヘレネの義兄である。帰国後、妻クリュタイムネストラとその愛人によって、連れ帰ったトロイア王女カッサンドラと共に落命した。そのアガメムノンとクリュタイムネストラの間に生まれた末子で、父の敵として母とその愛人を殺したのがオレステスである。早速託宣に従いオレステスの遺骨を求めたが、容易にはその墓所を発見できず、窮したラケダイモンの人々は再びデルフォイに使いを出してオレステスの葬られている場所を訊ねさせた。神託というものはいつでもどうとでも取れそうな曖昧さがあって、俄かには理解し難いことが多い。この時の託宣は「テゲアなる町、必然の強き力に動かされ二つの風吹く。一撃すれば反撃、禍難は苦難の上に横たわる。万物の母なる大地、ここにアガメムノンの子は眠る。この骨を持ち帰る者、テゲアの主とならん」。当然ながら、国中で頭を絞ってあらん限りの探索を試みたが、長いこと発見には至らなかった。それを見つけたのは、善行衆(アガトエルゴイ)の一人となっていたリカスである。善行衆とは、スパルタ市民で王の親衛隊(定員三百人程)を辞めることになっているものの最年長者を指すもので、親衛隊を辞める年の一年間、絶え間なく諸方面に派遣されて国家に奉仕する義務を負っていた。実際には物見遊山的な色合いもあったかも知れない。テゲアで鍛冶屋の店に入って、鉄が打ち展ばされるのをぼーっと眺めてその技に感心していたようだ。どこの職人でも自分の仕事をじーっと見つめられていると、居心地が悪くなってくるか、或いはちょっと話でもしたくなるものだろう。鍛冶屋は、先日見つけたという巨大な柩の話を始めた。それが柩であることはすぐに判ったが、あまりにも巨大である為に中を開けてみたところ、柩と同じ大きさの遺骸が入っていたという。思わずその丈を計ってからまたもとのように戻したがという言葉に、リカスはふと思い当たった。二つの風と一撃と反撃、そして禍難。それはまさに鍛冶屋を示すものではないか。リカスはそれから鍛冶屋を口説き落として庭に住み込み、墓を掘り起こして骨を集め、ラケダイモンへと持ち帰ることに成功した。以来、それまで負け続けだったテゲアに勝利するようになったという。この、オレステスの骨をスパルタに持ち帰ることについては、アナクサンドリデス王は批判的であったらしい。理由は、ヘラクレス一族(ヘラクレイダイ)である二人の王の血を軽んじる行動だったからか。それを推進したキロンとは、あまり気が合わなかったようである。だが、個人の感情とは別に、その遂行に当たっては援助を惜しむようなことはなかった。そういう意味で、自分の意思と王としての役割を別けていたと考えることが出来る。後世の多くの王がそれを別けることが出来ずに周囲を混乱に巻き込むことが多かったのに対して、この自制心のありかたは、如何にもヘラス的といえるかも知れない。ラケダイモンは、その二人の王に治められて、更なる繁栄を迎えつつあった。