聖白節 「三哥!」  声を掛けてきたのは、黄玉であった。随分長いこと黒玉にお預けを食わされているが、最近は少し余裕も出てきたようである。ところ構わず黒玉に迫っては殴られているが、それも結構楽しんでいるのだろう。 「黄玉」  語尾に微かに篭もったような響きのある声が、少年の名を呼んだ。明るい日差しのような笑顔が少年に向けられる。二人とも黒髪黒瞳の持主だが、黄玉の髪は日に当ると少し赤味を帯びる色合いであり、青玉は烏の濡羽色という言葉が似合う漆黒である。 「お返しは決めましたか?」  並んでみると、まだ少し黄玉の方が少し背が低い。 「お返し…?」  あれ、という顔をして黄玉が首を傾げる。 「三哥、先月他姓の姐妹達にお菓子を貰っていたでしょう?」 「ああ、確か月の中頃に…」 「明日、それのお返しをしなくちゃいけない日ですよ? とすると準備なんてとてもしてないですね?」 「貰った時に御礼は言ったが。それだけではいけなかったのか?」  疎い人、というのはどこでもいるものだが。やはりそうだったかと改めて黄玉は年上の従兄を見た。 「黄玉っ!」  血相変えて部屋に飛び込んできたのは、赤い髪の持主だった。軽やかに風になびくその様は、草原を走る火にも似ている。 「あなた、青玉に一体何を言ったの?!」  そう叫んで扉を開けたまでは良かったが、何もない床に躓いて、体勢を崩した。それを正面に近い位置から手を伸ばして支えようとしたのは、彼女の許婚である黄玉である。その掌が、豊かな重みのあたりの落下地点付近に位置しているのは恐らく計算ずくのことであるに違いない。が、すんでのところで黒玉はもう片方の足の爪先を床につけた。その際、身を支える為に伸ばした手に少々勢いがつきすぎていて、許婚の腹のあたりを思いきり突き飛ばす結果になった。ある意味、これは偶然という名の神が与えたもう天罰であったかも知れない。 「ぐえっ」  避けきれずに黄玉が悲鳴をあげる。突き飛ばしてしまった黒玉もまた驚いて再び体勢を崩した。 「きゃあっ!」  とっさに黒玉の腕を引っ張った。 「え?」  黒玉が状況を把握出来る状態になった時、彼女は許婚の腕の中に抱きしめられて唇を塞がれており、その襟元を寛げて衣服の内側へ侵入を試みようとする指があった。少年に返されたのは、愛が篭もっていたかどうかは不明だが、強く強く握りしめられた拳だった。 「明日は聖白節じゃないですか? だからお返しをしなくてはいけないんですよとお教えしただけですよ?」  瘤のできた頭を冷やしながら、黄玉はそう黒玉に告げた。 「それだけじゃないでしょ?」  何か余計な事を言っている筈だわ。と妙にきっぱりと黒玉は付け加える。 「何か三哥が?」 「厨房に篭もって何やら作ってるわ」  にまにまと笑う黄玉は、明らかにそれを予期していたのだろう。 「お陰で明日の食事の支度が出来ないわ」  明日は食事当番なのに。と半ば憂鬱そうに呟く。黒玉は料理があまり得意ではないのだ。前日にしっかり準備をしてさえ失敗することは少なくない。明日が食事当番という日は、いつも練習をするようにしていた。 「三哥のことですから、きっと大丈夫でしょう」  のほほん。といった風情で黄玉が微笑む。少年の手がそっと娘の腰に巻きついた。抗う間もなく引き寄せられる。 「お返し、俺にも下さい」  微笑んだ顔が再び近づいてきて、黒玉は目を閉じた。  翌朝、払暁。紅玉はいつものように巫女のつとめを終えて厨房に向かった。今日は黒玉が当番である。下ごしらえは済んでいるだろうが、時折処理を間違えてとんでもないものを作ることがあった。それで様子を見に来ているのである。しかし今日は素晴らしく芳しい匂いがあたりに立ちこめていた。いかにも美味しそうな匂いである。しかし時間はまだ払暁。いくらなんでも早いのではないか。と厨房の扉を開いたところで、匂いをさせていた人物に気づいた。 「さ、三哥…!」  驚いて叫び声を上げた巫女の、それでも鈴のような玲瓏たる響きを失ってはいない声にふと振り向いた青年は、青玉であった。 「ああ、おはよう。昨日黄玉に教えて貰ってね。今日は聖白節というんだそうだね?」 「……」 「お返しにと食事を作ったんだ。そろそろ夜も明けたことだし、朝食にしよう」  紅玉は目の前に並んだ凄まじい料理に眩暈を憶えそうになった。青玉が人に手助けを求めることはありえない。この量からすれば徹夜したとしてもおかしくないのだが。まるですっきりと十時間睡眠をとったかのような爽やかぶりであった。  その日、海一族の人間は朝からまるで宴会のような豪華な食事に出会うことになった。食事当番を勝手に奪ってごめんなさい。と謝られれば、そして見事な朝食を見せられ与えられれば、黙る他はない。黒玉は少し肩を落した。本当は、普通の食事の他に、黄玉用の食事をちょっと工夫して「お返し」にしたかったのである。だが宮廷料理のような豪華な朝食を見ては、流石に黄玉だけに「これがお返しよ」と自分の作った食事を与える訳にもいかない。しょんぼり。と席に座って青玉の料理を一度口に含んで、黒玉は仰天した。見た目の素晴らしさに気を取られていたのだが、味もすこぶるつきであったのである。それにひきかえ自分は……と余計なことを考えて、酷く気持ちが沈んでいくのを感じた。殆ど機械的に、湯(スープ)を口に運んでいたが、ふと、かつん。と器の中で食器に触れる何かがあるのに気づいた。そっと掬いあげてみる。湯の中から現れたのは、小さな麩のようなものだった。小さく「謝々」と記されている。当初、青玉にも先月お菓子を与えたからそのお返しかと思ったのだが。  がたん。と黒玉は立ち上がった。  青玉にお菓子をあげた少女達は、デザートの中に「お返し」を見出して、落胆の色を深くしていた。 「やっぱり駄目なのね」  蒼い目を伏せた先には、端座する巫女の姿があった。  夜。湖の傍で青玉は寝そべっていた。一日の勤行を終えた紅玉がその隣に座る。 「三哥」  振り返ることなく、青玉が声を返す。 「お返し、見つかっただろう?」  控えめに結いあげた髪は月を映した湖の光を受けて、静かな輝きを見せている。巫女ははい。と静かに応えた。他の少女に与えられたお返しは皆食べものであったが、紅玉のデザートに入っていたのは小さな金の髪止めであった。巫女はそれが『あなたを守ります』という意味を持つ贈りものであることを知っていた。掌の中にそれをそっと握って、巫女は兄の傍へそっと身を近づけた。湖の上を渡る風が、二人をそっと撫でて行った。 「あなたも随分手が込んだことをしたわね」  寄りかかった赤い髪の持主が、笑いを含んで呟く。木を隠すには森の中。お返しを隠すにはお返しの。朝食でひとつだけ、青玉が手がけていないものがあった。黒玉の分の食事である。それは、青玉が知り得ぬ、黒玉の好物だけで作られていた。気づいたのは、麩に虎縞の輪があったせいである。虎目石で作られた揃いの指輪は、二人の婚約の証であった。 「で、婚儀早めてくれません?」 「駄・目!」  そんなのでほだされると思わないでよね。と黒玉はつん。と横を向き。それから暫く片目で様子を窺っていたが、許婚の唇の端に軽く口づけた。 「『お上がりなさい』はもうちょっと先ですか」  溜息まじりに少年が呟く。 「食べものと間違えてないわよね?」 「いや、そろそろ食べ頃でしょ?」  賞味期限間近と言わなかっただけマシかも知れない。 「『いただきます』って言ったら一生お預けにするわよ」  蒼い瞳が拳をしっかりと握りしめ、にっこりと微笑んだ。 「滅相もない」  少年は黒玉の上にかがみこんだ。心の中で「頂いてますとも。ちょっとずつ味わいながらね」と呟きながら。