千夜一夜〜ホット・スイート・ハート〜  僕は甘いものが好きではない。子供の頃は誰でも大抵甘いものが好きだったろう、と同期の中島に言われたが、思い出す限り甘いものは嫌いだった。だから、この季節は嬉しくない。町中が甘い匂いに包まれる、真冬のバレンタインの頃は。  特にハンサムだとか、運動神経が良いとか、頭が切れるとかいうことはなくて、僕は平々凡々な人間だけど、たまに義理でチョコレートをくれようとする人がいる。恵まれない人に施しをするように、ボランティアでもしているつもりなのだろう。僕はいつも「ありがたいけど、要らない」と答えることにしている。以前は「嫌いだから要らない」と答えていたが、角が立つわよ、と姉に言われてから、言い方を変えたのだ。一応受け取って誰かにやってしまうほうが波風は立たないに違いない。だが、要りもしないものを貰って三倍返しを期待されるよりは貰わないほうが面倒がないのだ。余計な出費も要らないし、気を遣うこともない。なんて楽に過ごせるんだろう。 でもそのせいか、僕にはずっと彼女という存在がいなかった。姉には、「事前に確認してくる人の誰かは、彼女の有無をチェックしてるんじゃないかと思うんだけどね」と言われたが、別に切実にそういう存在を熱望している訳ではないのだ。そういう存在が居なければ困るというならまた別だろうが、欧米ならともかく、パートナー同伴のパーティが行われるようなイベントに招かれることもないし、子供は嫌いだから結婚も望んでいなかった。  会社の同僚で、イベント好きの女性が居た。僕より一つ年上である。最近の流行なのか、長い髪を耳の脇あたりからくるくると巻いていて、ちょっとぼーっとしたようなとらえどころのない瞳が、何故か印象的な雰囲気を醸し出していた。千夜さんという名前だった。蛇足ながら、僕の名は一矢という。新入社員歓迎会の時、中島が千夜さんの名札を見て、「千夜一夜だ」と叫んだために、それから「千夜一矢コンビ」という名前を頂戴した。別に邪魔になるわけでもないし、普段それでからかわれるわけでもない。長いものには巻かれとけ。である。それのせいか、千夜さんがバレンタインになる少し前、僕にきいてきた。 「バレンタインにチョコを作るんだけど、一つ貰ってくれない?」  小首を傾げて問う姿は、まるで少女のようなのに、口元の艶やかさときたら悩ましいほどである。 「あ…、僕甘いもの苦手なんで、ありがたいんですがご遠慮します。すみません」  いつもの通りそう断ろうとすると、心なしか残念そうな顔になった。豊富なお返しでも期待してたんだろうか? 「チョコが苦手ってこと?」 「いえ、甘いもの全般駄目なんですよ。子供のころから」 「そう……」  一瞬うつむきかけて、しかし顔をあげたときは既にぱっと晴れやかなものになっていた。 「じゃあ、特別仕様のバレンタイン・クッキーを作るわ! 甘くなくて、一矢君が好きなものを」 「えっ」  わざわざそこまでするものなんだろうか? 時間も費用もかかるし、第一面倒じゃないのか? 「いいですよ、そんなわざわざ…」 「いーのっ、作るって決めたの。ねえ、好物は何?」  めげない千夜さんの姿に意地悪をしたくなったといったら、中島は怒るだろうか? 「しょっぱいものとか、辛いもの…。キムチとか好きですけど」  ぱちくり、と目を瞬かせて彼女は吃驚したような顔をした。 「キムチ?」  バレンタインデーは月曜日だった。朝から甘い香が会社中に立ち込めている気がする。大抵の部署では、女子がまとめてお金を出し合って、全員にチョコが行き渡るようにしていた。社交辞令というやつである。僕は予め甘いものが苦手であることを伝えていたので、「頂くね」と女子社員の一人が言いに来た。僕の分は女子社員の皆さんで分けてもらうことにしたのである。需要と供給の問題である。  三時過ぎになって、千夜さんがひょこっと顔を出した。そして、僕に包みをくれた。 「これは?」 「約束してたでしょ? バレンタイン・クッキー。甘くないから安心してね」  何かを企んでいる小悪魔のような瞳で軽くウインクされて、僕は一瞬焦った。 「…すっげー怖いんですけど。開けていいんですか?」 「いいわよ。当然じゃない」  黄緑に赤をあしらった包みを開くと、その中には更にビニールで包装されたものが入っていた。茶色の平たいものの上に、赤いものがちょこんと乗っかっている。強い臭いがそこから漏れてきているようだった。何だろう?と思う間もなく、隣からくぐもったような笑い声が聞こえてきた。 「納豆キムチクッキーよ! 最強でしょ? 一週間研究を重ねたんですからね」  勝ち誇ったような彼女の微笑みがとても眩しく見えた。僕は甘くないクッキーを口に放り込んだ。 「納豆苦手だったんですけどね」  え、と一瞬彼女の顔が曇る。その表情を確認して、にやっと笑う。 「これは結構、悪くない」  それが僕達の初めてのバレンタインだった。それから二年と少し後の十一月、彼女と僕は結婚した。バレンタイン・デーから、千一夜目に。 <zuzu-akkoさんのサイト掌の月を見つめてで行われた バレンタイン・フェスタ参加作品として執筆しました>