トム物語 一  よく晴れた、初夏の日のことでした。  あんまり天気がいいので、トムくんは、公園を散歩していました。  公園を歩いていると、親子連れが目立ちます。  お父さんやお母さんに、肩車をしてもらったり、おんぶしてもらったりしている子供たち。  トムくんは、羨ましくなりました。トムくんは、物心ついた時にはもう、お父さんやお母さんはいなかったからです。  夕暮れの公園をトボトボと歩いていくトムくんは、とても寂しそうでした。  家に帰ると、余計に寂しく思われました。  誰もいない家。誰も待っててくれない家。  トムくんは、旅に出ようと思いました。  格別、当てがあるわけではありません。でも、今までと大差ないような気がします。それに、何故か知らないけど何処かに、自分を待ってくれる人が一人ぐらい、居てもいいんじゃないかな、とトムくんは思ったのです。  憧れのシェリーちゃん以外のみんなに、旅に出る、と挨拶をしにいきました。  どうしてだか判らないけど、何となくシェリーちゃんには、知られたくなかったのでした。  戸惑いましたけれど、結局シェリーちゃんには知らせないまま、トムくんは荷物をまとめ、生まれてからこのかた、ずっと住んでいたふるさとのまちを後にしました。  そうそう、言い忘れていましたが、トムくんは猫です。  近所のみんなから、お餞別代わりにもらった、お魚やら鰹節やらを小さな風呂敷に包み首に巻いて、トムくんはどんどん歩いていきました。ふるさとのまちは、どんどん小さくなっていきます。そうすると、何も言わずに出てきてしまった、シェリーちゃんのことが気になってしまって、トムくんは後ろを振り返り振り返り歩いていきました。  となり町につく早々、トムくんは、みんなにもらったお魚を食べようとしました。  ずいぶん歩いて、お腹がすいたからです。  包みからお魚だけを出して、食べようとしました。  その時です。  木の陰やブロックの陰から、たくさんの猫たちが、トムくん目掛けて不気味な声で唸りながら近寄ってきました。  トムくんは、腕に自信があったのですが、何にせよ多勢に無勢、一目散に逃げました。  逃げても逃げても猫たちは追ってきます。爪で引っかかれ、噛みつかれ、トムくんは風呂敷を奪われてしまいました。  命からがら逃げて、トムくんは迷子になってしまいました。おまけにもう暗くなってきていて、どこがどこだか判りません。トムくんは、次第に心細くなってしまいました。今夜寝る場所も、まだ見付けていないのです。  明るい光が、道のほうまで漏れている家があって、トムくんはその中を覗きました。  温かそうなごはん。お父さんとお母さん。そして、幸せそうな子供たち。安らぎ、とか和やか、というのはこんな雰囲気でしょうか。とっても楽しそうです。  シェリーちゃんと、こんなふうになれたらなあ。  子供と毎日遊んで、奥さんも大事にしてあげるんだ。トムくんは、心からそう思いました。 二  明るいスカイブルーの空に、羊のような白い雲が浮かんでいます。 トムくんは空を見上げて、今はもう遠くなってしまった、シェリーちゃんのいるふるさとのまちを思い浮べました。  トムくんが旅に出て、もう一ヵ月になります。トムくんは、そのあいだにいろんなことを学びました。  たとえば、黒猫のミィという大人っぽい雌猫に、旅に出ても、人間のトラックなんかにまぎれこめば、疲れずに遠いところまで行けるということを聴いたり、ちょっとシェリーちゃんに似ているシャム猫のシャーリーに、旅猫は裏路地へ行くと土地猫に襲われてしまうことなどを教わったりしました。  そうそう、トムくんの種族を言い忘れていましたね。トムくんは、雄はめったにいないという三毛猫族の出身です。  さて、トムくんはある夜、人間のトラックに乗り込みました。車を外から見て、外装の気に入ったものがあったので、それに乗ることにしました。トムくんは知りませんでしたが、この車は実は冷凍車でした。  人間に隙が出来るのを見計らって、トムくんはトラックに乗り込みました。そして、しばらくすると、重い冷たい音を立てて、扉が閉まりました。その途端、トムくんはひどい寒さを覚えて、積み荷の上に倒れました。そして、積み荷を見て、トムくんはこの車が冷凍車であることを知りました。乗り込む時には人間に見つからないよう必死だったので、荷物の確認までは出来なかったのです。慌てて扉を叩いたり押したり爪でひっかいたりしましたが、鋼鉄の扉は重くて堅くて、トムくんの思うようにはなりません。  トムくん絶体絶命の大ピンチです。犬ならともかく、猫は一応暖かい地方の動物です。その猫のトムくんに、この寒さに耐えるだけの力があるでしょうか。  体中の力が、急速に抜けていきます。極寒の寒さのなか、トムくんは、憧れのシェリーちゃんのことを想いました。一度でいい、シェリーちゃんに会いたい。 「シェリーちゃーん(猫語ですので、ミャーオーという声にしか聞こえません)」  トムくんは力一杯叫びました。喉も張り裂けんばかりに、シェリーちゃんの名前を叫んだのでした。  その時、トラックの運転手がトムくんの声に気付いて、扉を開けました。トムくんは走り出ようと思いましたが、寒さの為でしょうか、体はまったく動きません。運転手はトムくんに近付いてきます。トムくんは恐怖に怯えました。未だかつて味わったことのない恐怖でした。  殺される! トムくんがそう思った瞬間、運転手はトムくんを腕に抱え、トラックを降り、トムくんを毛布に包んでくれました。殺されると思っていたトムくんは驚きました。  何故運転手は救けてくれたのでしょう。トラックに入りこんだ、「悪い猫」の筈なのに。  実はトラックの運転手は、大の猫好きでした。どうやら運転手がついこの間まで飼っていた猫にトムくんが似ているらしいのです。それで、トムくんを助けてくれたのでした。  運転手は川崎という名の人でした。川崎さんはトムくんを助手席に乗せ、トムくんを相手に愛猫だった三毛猫メイの話をするのでした。  メイは何が好物でこういう癖があるんだとか、川崎さん以外の人からは餌を受け付けないんだとか、嬉しそうに、でも少し哀しそうに話をしていました。  川崎さんは、メイが他の人から餌を受け付けないせいもあってか、いつもトラックの助手席にメイを乗せていたのです。でも、メイは他のトラックに轢かれて死んでしまったのです。それも、川崎さんの目の前で。  トムくんは、メイによく似ていました。それで、川崎さんは嬉しいような寂しいような気分を味わっているのかも知れません。だって、メイによく似た猫が、メイのように助手席に座って、自分の話を聴いているのですから。  トムくんは一生懸命励まそうと思い、やたらミャーミャー鳴きました。川崎さんは、そんなトムくんを見て、余計寂しそうな顔をするのでした。もしかしたら、メイも、同じようにミャーミャー鳴いて、励まそうとしたことがあるのかも知れません。  ラジオが、ヒット曲を流していました。トムくんは、ノリのいいその曲にあわせて歌い(といってもミャーミャーとしか聞こえないでしょうが)ました。そうすると、川崎さんは驚いた様子でトムくんを見つめていましたが、やがてトムくんと一緒にその曲を歌い始めました。二人(?)のコーラス(?)は、さして広くもないトラックの運転席いっぱいに響いています。そして、その声はトラックの天井を突き抜けて、お空のメイに聞こえるかのように、トムくんには思えるのでした。 三  ついさっきまで晴れていた空は、どんよりと曇り、今にもわめいたり怒ったり、泣き出したりしそうです。  人間のことばで、雲がこういう風に怒るの、「かみなり」って言ったかな、とトムくんは思いました。  トムくんが、トラック運転手の川崎さんの助手席にいついて、はや一週間。いやそれとも二週間でしょうか。  なにしろ、生活が不規則なので、時間が良くわからないのです。  おまけに、ちょっと立っただけで眩暈がします。最近、運動不足だからでしょうか。トムくんは、少しこの生活にあきてきていました。だって、一日中、何をするわけでもなく、助手席に座り込んで、ただ川崎さんの話やラジオを聴いているぐらいなのですから。  でも、トムくんは、今の川崎さんをほっぽって、旅に出てしまう気にはなれません。それに、旅猫だ、と言ってみても、猫語のわからない人間に、何を話したって、ただ鳴いている、と思われるだけでしょう。  トムくんは考えに考えました。そして文字というものを思いつきました。なんとか人間のことばを覚えて、川崎さんに手紙を書けば、きっと川崎さんもわかってくれるでしょう。  でも、とトムくんは思いました。ここはトラックの中です。どうすれば文字を覚えられるのでしょう。川崎さんだって、一日中トラックの運転をしていて、文字なんて、知っていてもめったに使わないでしょう。それに、トムくんが文字を知りたがっていることだって、知らないのですから(猫ですしね)教えてもらえないでしょうね。トムくんは奇策に出るしかありませんでしたが、その奇策を思いつけないのです。  そんなある日、川崎さんは、トムくんを、小さなアパートへ連れて行きました。後でわかったのですが、それは川崎さんの家でした。  川崎さんの家には本が山積みになっていて、原稿用紙が散らばっていました。実は川崎さんは、作家志望で、トラックの運転手はアルバイトだったのです。  トムくんは、字を覚えられる、と思いましたが、先生も手引き書もありません。どうしたらいいのかわからないままに、いたずらに日々は過ぎていきました。  その日、川崎さんがトムくんを膝の上において、こう言いました。 「なあ、チビよぉ。お前、どっかの飼い猫なんか?」  トムくんは猫語で「はーい、そうでーす」と言いましたが、猫語のわからない川崎さんには、ただ「ニャーニャー」とだけしか聴こえません。それでも肯いているように感じたのでしょうか。 「そうだよなぁ。お前、首輪してんもんなぁ。鈴までつけちゃってよぉ……」  そう淋しそうに川崎さんは微笑んで、そこら辺にあった紙に「あ」と大きく書きました。 「チビ助。お前、この字なんて読むか知ってるか?『あ』っていうんだぞ。覚えとけよ」  トムくんの考えを察知していたんでしょうか。川崎さんはそんなことを言いました。どうやら、メイにも、文字を教えていたらしいのです。しかしメイは、「し」と「い」しか書けなかったみたいです。  川崎さんに言われるまでもなく、トムくんは必死に文字を覚えました。そうして、あの冷凍車事件(?)から一年後、「五十音」をすべて書けるようにまでなり、トムくんは川崎さんにお礼とお別れの手紙を書いて、川崎さんが寝ている間にそっとアパートを出て、再び旅猫となりました。  川崎さんの驚きようったらありません。猫が、ですよ。猫が書き置きして出て行ったんですから。そして、大きなため息をついて、川崎さんは空を見上げました。  そうそう、トムくんの手紙をお見せしましょう。ちょっと読みづらいかも知れませんね。    かわさき さん え    ぼく わ とむ とゆう たび ねこ です    いままで ありがと ございます    ぼく わ たび でます    めいさん かわり に いたけど    もう かわさき さんわ めいさん いなく ても    ぼく いなく ても やって いける おもう ます   とおく から みまもって ます これから も    いい おはなし たくさん かいて いい おはなし や    さん なって ください                   とむ  川崎さんは思いました。もしかして、あれは、メイがよこしてくれた、お使いなんじゃないか、と。いつまでもクヨクヨしてる自分をはげますために、天国のメイが、よこしてくれたんじゃないか、と。  トムくんとしては、そういうつもりではなかったんでしょう。でも、川崎さんはトムくんを思い出すたび、生きる勇気と、頑張ろうとする気力が湧いてくるのでした。そして、向学心も湧きおこってくるのです。  だって、トムくんは、ひらがなだけとはいえど、はじめて手紙を書いた猫、なんですよ。 四  トムくんは、ふるさとのまちへ帰りました。  旅に出て、丸二年が過ぎています。小さかった猫たちは、二年見ない間に大分大きくなっていて、トムくんと同世代の友達も、結婚適齢期(おとしごろ)なので、トムくんがいない間に、結婚しちゃった猫も、たくさんいました。  シェリーちゃんは、何故か結婚していませんでした。みんなの憧れ、マドンナのシェリーちゃんなら、小さいころからたくさんのプロポーズがあった筈です。それなのに、結婚していないとは、どういうことなのでしょう。  実は、シェリーちゃんは、トムくんを好きだったんです。トムくんのことが好きだったんだけど、トムくんはプロポーズの鰹節ひとつさえくれず、すっかりトムくんに嫌われている、と思い込んでいたシェリーちゃん。そして二年前、トムくんが自分にだけ何も告げずに行ってしまったことにショックを受けて、落ち込み、他の猫を寄せ付けないようになってしまっていたのでした。  さて、シェリーちゃんのことはさておき、トムくんはどうなっているでしょう。実は、トムくんは、今、他のメス猫たちに追い掛け回されている毎日です。もともと人気があったのですが、旅に出て、いろいろ知ったせいでしょうか。前より凛々しく、男らしくなったトムくんは、結婚適齢期ともあって、メス猫にとりまかれ、追い掛け回されるようになりました。シェリーちゃんに会いに行きたいのですが、それもままならず、トムくんはかなり苦労しているのです。  トムくんもシェリーちゃんも、本当はお互いに好き合っているんです。でも、お互いに勇気がなくて、打ち明けることが出来ないでいるのでした。トムくんは帰ろうと決心した時、もしまだシェリーちゃんが結婚していなかったら、プロポーズしよう、と思っていたのですが、さすがに、本猫を相手に言おうとすると、足がすくんでしまって、家の前まで行くのが精一杯なんです。だから、シェリーちゃんの家の門の外から、シェリーちゃんの部屋を見つめるのが、トムくんに出来るほとんど唯一のことでした。そんな時、向こうからつかつかと歩いて来る猫がいます。  旅に出る前からの恋敵だったチャーリーが、トムくんに向かって言いました。 「トム! おい! 決闘しよう!」  チャーリーはシェリーちゃんがトムくんを好きだってこと、実は知ってるんです。でも、ただシェリーちゃんを渡すのは悔しいので、決闘を申し込んだのでした。  結果は、最初からわかっていました。旅に出る前、五分五分の力を持っていた、トムくんとチャーリー。あれから二年、旅をしたトムくんの方がきたえられていて、強くなっていたのです。それでもチャーリーは、トムくんと戦おうと思いました。憧れのシェリーちゃんに思われていながら、旅に出ていったトムくん。その後のシェリーちゃんの落胆ぶりを見ていたチャーリーは、二人の行き違いがなくなれば、きっと二人は一緒になれるだろうと思っていました。そんなトムくんに、せめて、爪のひとつでもお見舞いしてやりたかったのです。  決闘の時間と場所はすみやかに決定し、二人は一週間後の土曜日の日暮れに向けて、トレーニングを開始しました。  その話は、もちろんシェリーちゃんの耳にも入りました。シェリーちゃんは、チャーリーに決闘の理由を聞いて、止めさせようとしましたが、トムくんがシャーリーちゃんを好きだ、と聞いて驚いてしまいました。だって、シェリーちゃんの前で、トムくんはそんな様子をかけらも見せなかったんですから。チャーリーに決闘をやめさせようと思っていたのに、自分が関わってると聞いて、シェリーちゃんは吃驚です。  でも、男が一度決めたこと、シェリーちゃんに止められる筈もなく、一週間が無情にも過ぎ去っていきました。  そして決闘の日。夕暮れの川原で、チャーリーとトムくんは、向かい合いました。その時です。  シェリーちゃんが飛び込んできて、二人を止めました。身をていして二人の決闘をやめさせようとするシェリーちゃんに、さすがのチャーリーもトムくんも驚き、戦いをやめました。そして二人は、それぞれシェリーちゃんにあらためてプロポーズをしました。鰹節もお魚もないプロポーズになってしまったけど、シェリーちゃんはそんなことは気にしていませんでした。  シェリーちゃんはだまって二人のプロポーズを聞き、まずチャーリーのほっぺたにキスしました。そして、トムくんの唇に、自分の唇を重ねました。 五  雨が降っています。  トムくんは、シェリーちゃんと家の中に居ましたが、食べ物がないので、さがしに出かけようとしていました。  早いものです。トムくんとシェリーちゃんが結婚して、二ヶ月。まだまだ新婚さんのお二人さんです。あ、そうそう。あれからチャーリーがどうしたかっていうと、じつは、あの後すぐ結婚しちゃって、一ヶ月になります。早くも奥さんは、チャーリーのベビーを身ごもっています。シェリーちゃんにフラれ、雨にもフラれ、落ち込むチャーリーをはげまし、元気づけてくれた、優しい猫でした。  トムくんとシェリーちゃんも、お祝いとして、チャーリーの大好きな鰹節を贈りました。  さて、そのトムくんとシェリーちゃんなんですが……。  朝、トムくんはシェリーちゃんを家に残し、食べ物をさがしに出かけます。うまく見つからなくて、トボトボ歩いて帰ろうとすると、家の前に、鰹節やら、キャットフードやらがおいてあったりするのです。  一度や二度なら、不安ではありますが猫好きの人がたまたま置いて行ってくれたのだとしても、そんな日が、ここ一週間続いています。昨日や今朝なんかはトムくんが出かける前に、家の前に置いてあったほどです。  トムくんは不思議に思い―――数分間、そこで待ってから、中に食べ物を入れました。 「あなた。あら、そのおさかな、どうなさったの?」  すっかり主婦業が板についたシェリーちゃんがトムくんに聞きました。 「また家の前に置いてあったんだ。いったい誰がおいていくんだろうな。うちとしては嬉しいけど、いったい何のためにこんなことをするんだろう?」 「ええ、ほんとね。何の理由があってこんなことを…。それに、誰が…?」  猫はもともと、とても鼻が利きますが、トムくんが嗅いでみる限り、猫駆除の為の餌とも思えませんでした。それらしい薬の匂いはしないのです。  二人はここのとこ、「考える猫」してます。そして、思いついたアイディアは、やはり「見張る」ということでした。そして、今までより一時間早く起き、一時間遅く寝ることにしました。  次の朝、二人はいつもより一時間早く起きて、外を見ました。家の前には、もう鰹節がおいてありました。トムくんは外へ飛び出し、辺りを見回しました。そして、トムくんが見つけたのは、弟のティム。以前、シェリーちゃんにフラれてしまった猫のひとりです。 「ティム、お前が…?」 「やあ、兄さん。おはよう」 「あ、おはよう…じゃない。この鰹節はお前なのか?」 「うん、おれだよ」 「じゃ、きのうもおとといも、お前……?」 「え? きのうって?」 「……いいから、ちょっとこい」  トムくんは、弟のティムに今までのことを話しましたが、どうやら今までの食べ物の送り主とはちがうみたいです。照れたようにティムはいいました。 「義姉さん(シェリーちゃん)にフラれてから、おれ、しばらく旅行してたんだけど、昨日帰ってきて、んで、兄さんたちに結婚のお祝いやってないなーと思ってたんだ。今朝、近くに用事があったから丁度いいなって思って、玄関の前に置いとこうと思ったんだ」  ティムはどうやらはじめてここにおいた、という様子……。その時でした。トムくんは、シェリーちゃんの叫び声を聞きました。 「あなた!」  シェリーちゃんの声のする方に走っていったトムくんは、そこに一人の作家の姿を見ました。そう、今までトムくんの家の前に食べ物を置いて行ったのは…やっと長年の夢が叶って、作家になった、あの懐かしい川崎さんだったのでした。 「川崎さん!(注:猫語なので、人間には「ミャミャニャニャミャー」と聞こえます)」 トムくんは叫び、川崎さんは振り返りました。 「チビ助!」  二人ははっし!と抱き合いました(?)。  トムくんはそれからシェリーちゃんを呼び、川崎さんの前に二人で並びました。 「そうか、お前の嫁さんか……」 淋しそうな声で、川崎さんが言いました。 「チビ助、俺について来ないか?」  川崎さんはトムくんを愛おしそうに見つめていました。 六  秋の気配が漂うロサンゼルスの空港へ川崎さんとトムくんが到着したのは、二人が再会して一ヶ月と少し後のことでした。日本から遠く離れたカリフォルニアは、空気がとても乾いているようにトムくんには思えました。トムくんは、川崎さんが用意してくれた猫用バスケットの中で少しまどろんでいました。無理もありません。猫が受けなければならない動物検疫で、半日ついやしたのですから。 「タクシーを拾うか。チビ助、しばらく出るなよ」  やさしくそういって、タクシーを探して歩き出しました。  その時、スーツを着た男性が川崎さんのそばへやってきました。 「タクシーをお探しですか?」 「ええ」  川崎さんがそう答えると、男性は一台のタクシーらしき車の前へ案内して行きました。彼はタクシー運転手みたいでした。トムくんが夢現ながらも川崎さんをみていると、川崎さんはほんの少しだけためらったように見えましたが、思い切って乗ることにしたようです。車のトランクへスーツケースを詰め込み、バスケットは?と訊く運転手に、「これは大切だから」と抱えたまま後ろの席に乗り込み、行先を言ってしまうと、川崎さんは疲れが出たのでしょうか。軽いいびきをたてながら、眠ってしまいました。  トムくんも、バスケットの中でうたたねです。トムくんには少し大きめのバスケットは、窮屈なのは厭だろうなと考えた川崎さんがペットショップを何軒も回って探した、とっても素敵なトムくんのお部屋でした。トムくんもちょっとおつかれみたいです。浅い眠りの中で、トムくんは故郷の夢を見ました。いろんな猫の、いろんな顔がトムくんの夢の中をかけめぐります。泣いた顔、怒った顔、驚いた顔、笑った顔…。そのままその猫の性格と生き方と考え方を示すような。  がくん。  その時です。大きな音をたてて車が急に停まりました。トムくんのバスケットも、川崎さんの膝の上からおちてしまい、その中のトムくんは受身もとれず全身を強く打ち、はずみで「うわっ(注:ただし人間にはニャッとしか聞こえません)」と叫んでしまいました。しかし川崎さんは余程眠りが深いのか、そのままの態勢で眠っているようです。  バスケットからようやく脱出したトムくんが見たものは、運転手の薄気味悪くわらった顔でした。運転手はトムくんには気づかなかったようです。車を降り、トランクへと歩き出しました。あたりには、トムくんが今まで見たこともないような、たくさんの砂が舞い踊っていました。  実は、この男は、たちの悪い強盗でした。外国帰りや観光客などのお金を持っていそうな人をねらって近づき、タクシーに乗せ、おどしてさんざんお金を巻き上げるのです。川崎さんが眠ってしまったので、荷物を先に物色しようと考えたのでしょうか。強盗はトランクに積んだスーツケースを開けようとしました。  川崎さんは、良くいえば質素、悪く言えば無頓着な人なので、服に気を遣ったりする人ではありません。古びて破れたりしない限り、同じ服を何年も着たりします。その他の持ち物も、高級品を使うとめまいがするとかで、安物ばかりを使っていました。いわゆる貧乏性さんなのです。  スーツケースにはたまたまロックが掛かっていて、荷物を開けることが出来ませんでした。運転手はいらいらした様子でタクシーの後ろのドアに近づき、ドアを開けようとしました。川崎さんを起こし、おどしてお金を巻き上げるつもりなのに違いありません。トランクの隅に隠してあったロープとガムテープを引っ張り出しました。川崎さんは、まだ目覚める気配がありません。  強盗がゆっくりとドアを開け、川崎さんを車の外に引っ張りだそうとしました。 「このやろう!!(ただし、人が聴いたらニャニャニャア!!でしょうね)」  運転手の行動に気付いて、川崎さんの足の下にひそんでいたトムくんが、強盗の足にかみつきました。 「ぎゃあああああっ!!」  驚いたのは、むしろトムくんの方でした。少しは手加減したつもりだったのですが、強盗はそのまま気絶してしまいました。男は猫が苦手だったみたいです。それとちょうどいれちがいに、悲鳴で飛び起きた川崎さんが周りを見、何事が起ったかを推察して、ため息をつきました。 「白タクだったのか」  白タクというのは、特別な許可を貰わないでお客を乗せ、とんでもないところへ連れていったり、脅すなどして、決められた以上の料金を請求したりお金を巻き上げようとする、悪い人です。川崎さんはそういう人たちのことを聞いてはいましたが、慣れない土地で良く判らずに乗ってしまったのでした。 「運転して行かなきゃならないな…」  川崎さんは面倒くさそうに、席を降りました。 七  川崎さんのアルバイトは、トラック運転手でした。その免許は日本国内のものなので、外国で車を運転することは出来ません。国際免許という特別な免許が必要なのです。でも幸いにレンタカーを借りるつもりで川崎さんは日本でその手続きをとってありましたので、強盗犯の車を運転することが出来ました。そこで、強盗が暴れないよう適当にガムテープで止め、トムくんが犯人の番をすることになりました。犯人の胸のあたりにちょこんと座ったトムくんを見て、川崎さんは吹き出しそうになってしまいましたが、トムくんはとっても真剣な顔つきです。犯人が目を醒ましたら、うなり声をあげておどしてやるつもりでした。だってこの犯人のせいで、トムくんの素敵なおうちの扉が壊れてしまったんですもの。トムくんが怒るのも当たり前ですね。 「カーナビは…ないか。じゃあ地図で行くしかないが、場所が判らんな…」 砂地をずっと走ってきて、民家はどこにも見つかりません。強盗がこんなところへ運んだのは、川崎さんが逃げ出しても助けを求めるところがとっても少ないからでした。それでも、舗装された道をずっと走っていけば、どこかへはたどりつくでしょう。  川崎さんはそう思いましたが、ガソリンの残量計を見て困ってしまいました。あまり余裕がないのです。土地鑑がないし、どのくらい行けばいいのかも全然判りません。途方に暮れてしまいました。夜になると沙漠はとっても冷え込んでしまいます。毛布も何もないのに、沙漠で夜を越すことが出来るでしょうか? それに犯人だって、このままにしておくわけにもいきません。  夕陽が地平線の彼方に沈んでいきました。その時、川崎さんはひらめいたのです。ロサンゼルスは西海岸にある都市です。西へ向かっていけば、いつか海に出るでしょう。そうすれば、ロサンゼルスと他の都市を結ぶ道路にも出られる筈ですし、そこから正しい道を探すことだって出来るかも知れません。 「チビ助。行くぞ」  ハンドルを握ると、川崎さんは西へと車をすすめました。そして、暫く行った先で一軒の家を見つけました。 「この時間にこんな身なりでは怪しまれるのがオチだが…。背に腹は変えられないな。チビ助、見張りをしててくれ」  そう言って川崎さんは灯のともる小さな家に向かいました。  とんとんとん。  丁寧に、でも音が聞こえるようにしっかりと叩くと。中から現れたのは、金色の髪に褐色の肌を持つ、あどけない少女でした。 「こんな時間にごめんね。ロサンゼルスへ行きたいんだけど、道が判らないんだ。教えて貰えるかい?」  川崎さんはゆっくりと少女に聞きました。その背中へ、深く沈んだ声が響いてきました。 「何の用だ?」  振り向くと、黒髪に黒い肌のがっしりとした男の人が立っていました。もしかしたら、この金髪の少女の、お父さんでしょうか。 「あ、道が判らないので教えて頂きたいんです。ロサンゼルスへ行くには、どう行けばいいですか?」 「旅行者か?」  ぎろっとした目で川崎さんを睨みながら聞き返します。「ええ」とにっこり笑って肯き、事情を説明しました。その途端、「もしや」という顔で、車の方へ駆け出しました。その様子にちょっと驚きながらも、川崎さんは慌てて後について行きます。  後部座席に気絶したまま横たわった犯人を見て、男の人は愉快そうに笑声をあげました。 「こりゃいいや! おれはジム。あれは娘のリズだ。で、あいつは俺の弟でトム。悪いことばかり憶えて家出しててな。迷惑かけちまってすまなかった。よければあんたの名前を聞かせてもらえるか?」 「川崎眞人です」 「マヒト? 呼びにくい名前だな。まあいいや、今日はここに泊まっていけ!」  そう言って川崎さんに右手を差し出しました。二人は握手を済ませると、後部座席から気絶したトムをひっぱりだし、トムくんも連れてジムのおうちへ入りました。 八  暖かな中にも爽やかさを感じる、早朝。  カリフォルニア、ロサンゼルス郊外に住むジムの家では、「お小言」が響いていました。 「よそ様に迷惑かけてばかりいないで、しっかりしろ。せめてお天道様の下に居られるような仕事をするんだ。暮らしがたつまではここにいればいい。だから二度とそんな悪事に手を染めてくれるな」  トムくんはそんな兄弟二人を見つめていましたが、やがてジムの娘リズの手に抱き取られてしまいました。ついうっかり夢中になっていて、逃れるタイミングをなくしてしまったのです。  川崎さんは、そんなトムくんの様子をスケッチしていました。三毛猫族であるトムくんは、アメリカではとっても珍しいので、リズはずっとトムくんを抱っこしたかったようです。手加減してくれないリズの抱っこは、最初、トムくんにはちょっと辛かったのですが、川崎さんが教えてあげると、リズはトムくんが苦しまないような力の抜き方を憶えて、少しずつ二人は仲良くなっていきました。 「待たせてすまなかったな。朝飯にしよう」  げんなりした様子の弟トムを従えて、ジムが三人のところへ戻ってきました。 「マヒト、ところでその猫は『チビ』っていう名前なのか? どういう意味なんだ?」 「いや、この猫の名前はトムだ。『チビ』っていうのは愛称だな。『ちいさい』という意味だ」  その話を聞いたジム、トム、リズの三人は吃驚して言葉もありません。そうですよね。猫嫌いのトムと三毛猫族のトムくんが同じ名前なんですもの。しかもトムくんはとても勇敢な猫、そして人間のトムは川崎さんからお金をとりあげようとして、トムくんに吃驚した臆病者だったんですから。  トムは口をパクパクさせています。ほんのちょっと早く吃驚から立ち直ったジムが、トムくんを抱き上げました。 「いい名前だ。それに勇敢でいいやつだな」  そう言ってトムくんにほお擦りしました。 「トム、お前はこのトム…まぎらわしいな。チビって呼ぶか。チビと一緒にいろ。食事やトイレの世話もお前がやれ」 「えーっ、パパ、私がしたいわ。こんなに可愛いんですもの」  そう駄々をこねるリズの金髪をやさしくなでて、トムくんを右手で抱えると、左手にリズを抱き上げました。 「お前はそのお手伝いだ。叔父さんが出来ないことを、手伝ってやるんだ。いいな?」 「ほんとう? パパ。ありがとう!」  リズの嬉しそうな笑顔に、「いやだ」という言葉を飲み込んでしまったトムは、こそこそと逃げ出そうとしましたが、それに気付いたジムが、トムの肩にトムくんを載せました。 「うぎゃあああっ」  あっという間に白目をむいて気絶してしまいました。肩に載せられたトムくんは、崩れ落ちるトムの下敷きになる前にすとんとジムの肩に飛び移ります。それを見ていたリズが嬉しそうにトムくんに手を伸ばしました。 「先が思いやられるが…。まあ、こいつにはいい薬だろう。それにチビは頭もいい。こいつの臆病を少しは変えられるかも知れん。すまんがしばらく滞在してくれないか、マヒト」 「そうだな。一週間くらいなら」  こうしてトムくんと川崎さんは、ジムの家のお客様となりました。 九  秋の温かい陽射しの中、シェリーちゃんはうたたねをしています。最近は天気がいいせいでしょうか。やたらと眠くって、最近シェリーちゃんはまるで「眠り猫」みたいです。  昨日、チャーリーの奥さんのミカが無事赤ちゃんを産みました。シェリーちゃんと、それから何匹も子猫を産んでるミケ母さんがお手伝いです。  ミケ母さんが「とても安産だった」って言ってるし、チャーリーもいるから大丈夫でしょう。ミカはぐったりしたようすでしたが、それでも満足そうな優しい笑顔で子猫たちを見つめていました。  今頃はお乳をあげながら二猫でちいさな猫たちの名前を考えているかも知れません。  トムくんが川崎さんに連れられてロサンゼルスへいって、もう五日でしょうか。ここ一ヶ月ほどはずっと準備に追われてあわただしい毎日で、シェリーちゃんはトムくんとゆっくり話す時間もありませんでした。でもいなくなってしまうと、何もやることがなくなってしまって、今更ながらにトムくんの存在の大きさを実感するのでした。  まだ行ったばかりなのに。  ふとシェリーちゃんが玄関を見ると、誰かが外に居るみたいです。 「どなた?」  声を掛けると、影は吃驚したみたいに慌てて走って行ってしまいました。外を見回しても誰もいません。 「だれだったのかしら?」  不思議に思いましたが、しかたありません。 「どこかと間違えたのかも知れないわね」  そういって中に戻りました。  数日後、シェリーちゃんはミカのお見舞いに行きました。まだ目が開かないちいさな猫たち。一生懸命お母さんに甘えて、お乳をもらっています。 「本当に可愛いわねぇ」  溜息とともに呟くと、ミカが子猫たちから視線を外してシェリーちゃんを見つめました。 「そういうあなたも、もうすぐでしょう?」 「えっ?」  驚いたようにシェリーちゃんが見返すと。 「じきよ。すぐだわ」  そういって、ミカはにっこりと優しく微笑みました。  そうかしら?という言葉は飲み込んで、シェリーちゃんはおうちに帰りました。トムくんが帰ってくるまで、まだ少しあります。一猫でのお留守番は淋しいし、心細いなぁ。  そう思いながら歩いていると、おうちの前に知らない猫がいました。  つやつやした毛並みの、黒猫族の女の子です。 「あの…?」  挑むような瞳が、大きくきらきらと輝いていて、まるで黒い宝石みたいだわとシェリーちゃんは思いました。 「あなたの体を貸して欲しいの」 「えっ?」  その時、女の子の姿がぼやけていき、やがて消えてしまいました。吃驚していると、女の子の居たあたりに黒い種みたいなものがふわふわと浮いているのに気付きました。  ぱくん。  シェリーちゃんは見つめているうちについその種みたいなものを一呑みしてしまいました。すごく温かい、ふんわりしたお布団の上に寝そべっているみたいな気持ちに包まれました。 「気がついた?」  目を開けると、ミケ母さんがすぐそばにいました。どうやらシェリーちゃんは眠っていたみたいです。 「夢……?」 「大事な体なんだから、無理はしないのよ」  ミケ母さんは優しく微笑みました。シェリーちゃんはほんわりした気持ちになりながら、もう一度心地いい眠りに入っていきました。 十  満点の星が優しい煌きを地上にさりげなく届けている夜、トムくんは眠っていました。夢の中でトムくんは、あの懐かしい黒猫ミィに会いました。「久しぶりだね。元気だった?」  ミィは色っぽく微笑んで、答えません。どうしたんでしょう。いつものミィなら「何いってんのよ、当たり前じゃないの」と元気よく答えてくれそうなのに。 「トム、あたし、あなたのとこへ行くよ」 「えっ?」  どういう意味なんだろう?とトムくんは不思議に思いました。そのトムくんの頬にミィがそっと口付けしました。その瞬間、トムくんは飛び起きました。  目覚めると、さっきと同じリズの膝の上でした。リズのふわふわした金色の髪が揺れるのを見ていて、トムくんはシェリーちゃんのことを思い出していました。慌しい毎日が続いて、ゆっくり話をする時間も取れなかったのですが、シェリーちゃんは今頃どうしているでしょうか。チャーリーやティム、ミケ母さん達が気を配っていくれている筈ですが、そうは言っても結婚してまもなくの愛妻と遠く離れていることは、いろんな意味でとっても不安でした。  川崎さんがうとうとしているリズの肩にそっと上掛けを載せてあげました。 「マヒト、少し呑まないか?」 「ああ」  ジムがグラスを片手に、川崎さんを誘いました。トムくんはリズの膝をそっと降りて、川崎さんに駆け寄ります。椅子に座った川崎さんの膝の上に飛び乗ってちょこんと座ると、目線はテーブルよりほんの少し高い位置にありました。 「そろそろ旅の目的を聞いていいか?」  がっしりとした太い腕をテーブルの上に載せて、ジムはじっと川崎さんを見つめました。 「こいつを書くことさ」  川崎さんはそう言って、トムくんの載った膝をほんの少し持ち上げました。 「どういうことだ?」 「俺は童話作家で、こいつは俺の書く話の主人公なんだ。もともとはトラック運転手のアルバイトをしていて、作家になるのが夢だった。こいつはそんな俺の目の前に現れて、夢と希望を与えてくれ、叶えてくれた。ただ、物語というのはなかなか思いつくものじゃない。それで新しい環境で頭をリセットして、ヒントになる何かを掴みたくてここに来たんだ。来ればそれでいいと思った訳ではないが、とっかかりをつかめる予感がしたんだ」  川崎さんを見つめたまま、ジムはグラスを置きました。 「俺はヨセミテのガイドをしてる。一緒に行って見ないか?」  暫く考えて、川崎さんは答えました。 「こいつを、中に連れて行けるか?」 「中には難しいな。取っていいのは写真だけ、足跡さえも残していくなという土地だ。ましてや、野生生物は様々な感染症やウィルスを持っている可能性がある。チビには危険だ」 「それでも俺はこいつと行きたい。この広いアメリカで、見るもの全てをこいつと共有したいんだ。こいつが入れないというなら、俺は行きたいとは思わない」  ジムは呆れたような顔をしました。 「そういう奴は珍しい。…判った、チビが行けるようなところを考えよう。俺もそういう頑固な奴は嫌いじゃない。それに」  立ち上がって、眠ったままのリズの顔に掛かった髪をそっとどけて額に優しくくちづけをしました。 「チビが入れるなら、リズも入れるということだ」  二人は微笑みを交わして、グラスをかちん。と合わせました。トムくんはそんな二人を見ながら、いつしか川崎さんの膝の上で深い眠りに包まれて行きました。 十一  切り立った、そびえたつような岸壁を、その朝トムくんは生まれて初めて見ました。抱きかかえているのは、トムです。一週間程一緒に暮す間に、トムは少しずつ三毛猫族のトムくんに触れることが出来るようになっていました。リズの応援やジムの拳骨もそのお手伝いをしていたことはもちろんです。川崎さんは少し離れたところでジムと何やら話をしていました。もしかしたら今日のコースを話し合っているのかも知れません。  川崎さんがジムに約束した一週間はまたたく間に過ぎ、トムくんと川崎さんは徐々にジムのお家での生活に慣れていきました。もうすぐ旅立つ二人の為に、今日はジムが案内役を買って出てくれたのです。いつもはふわふわのワンピースに大きなリボンのリズも、場所が自然豊かな国立公園とくれば、歩きやすい恰好に着替えなければいけません。そういう訳で今日は皆ジーンズにコーデュロイのシャツ、セーターにコートといった服装です。  トムくんは猫用バスケットに入ったり出たりですが、リズとトムが作った素敵な名札を首に下げていました。万が一離ればなれになったとしても大丈夫なように、です。トムくんはコーデュロイのシャツの肌触りがとてもお気に入りで、今日は寝ぼけながら何度もトムのお腹にほお擦りしていました。そのトムくんが寝返りを打ったりする度にびくびくしているのはやっぱりトム。でもね。最初は気絶してばかりでしたが、少しは頑張ったんです。今はもう、震えてはいてもちゃんとトムくんに触れることが出来るんですよ。  最近はトムくんの温かさに気付いて、寒い時はトムくんを抱っこしようとします。でもそういう時はしゅるんと逃げて、リズや川崎さんのところへ行ってしまうのでした。トムくんの、三毛猫族にしてはちょっと長めのしっぽでぺしんって叩かれると、トムは思わず悲鳴をあげそうになってしまうのでした。 「大分慣れたな」  ジムがトムくんを抱きかかえるトムを見て、ニヤリと笑いました。トムは情けなさそうな顔で兄を見つめましたが、ジムは全然お構いなしです。 「チビちゃん、これから暫くおトイレもご飯も駄目よ。大丈夫?」  トムくんの顔を覗きこむようにリズが聞きました。「うん(注:もちろんリズにはにゃ〜あとしか聞えません)」と答えるトムくんに、リズはうっとりしています。 「あ〜ん、チビちゃん可愛い。クリスマスプレゼントにチビちゃんが欲しいなぁ」 「だ〜めっ(注:にゃにゃ〜あと聞えているはずです)」 「……なんだか、会話になってるなぁ」  小さな女の子と猫の掛け合い漫才のような会話をトムはしみじみと不思議そうに眺めています。 「チビは人間の話が理解できるぞ」  横合いから川崎さんが声を掛けました。 「内容も判ってるし、頭も切れる。もし何か悪さをすることがあれば必ず理由があるんだ。おまけにこいつの忠告はかなり役立つ」  猫とは思えない、という言葉をどうやらトムは飲み込んだようでした。 「だから」  ニヤリと川崎さんが笑いました。 「あの時、お前の足に噛み付いたのさ。猫の前足でも掴みやすいし、足を痛めれば逃走が難しくなる。いざつかまれてみると振り払うのが難しい。おまけに服や靴下に覆われているから、怪我をしてもそのあと生死に関わるような事態にはなりにくい。体液が触れないから感染症の可能性も低くなる。それに相手に対するショックを与えることが出来る。普通の猫は自分の身を守ることだけ考えるから顔や手を爪で引っ掻くだけだろうが、チビの反撃は一味も二味も違うぞ」 「チビちゃん、本当に賢いのねぇ。あ〜ん、ますます欲しくなっちゃったわ! ねえマヒト、チビちゃんを頂戴!」 「駄目だよ、リズ。さっきチビもそう答えたろ? それにね、こいつにも家族がいるんだ。可愛いお嫁さんがね。だから、チビ一猫をここに置いていく訳にはいかないんだ」 「じゃあマヒトもここに残ればいいわ!」 「おいおい、そしたら俺はチビのついでかい?」  おしゃまに軽くターンして、後ろ姿を見せたリズが、振り返りながら笑いました。 「そんなことはないわ。わたし、マヒトもチビちゃんもトムおじさんも大好き! ずっとここに居てくれたらいいなぁって」  トムはきょとんとした顔でリズを見つめました。今までそんなことを言ってくれる人なんて、居なかったのです。 「リズ、本当かい?」 「もちろんよ、トムおじさん。だって三人が来てからパパは毎日すごく嬉しそうだわ。いつも優しいけど、ママが死んじゃってから、ずっと淋しそうだった。でもマヒトやトムおじさんと話をしたり、チビちゃんと遊んでるパパは、とっても楽しそうだもの。ねえ、トムおじさんはずっとここに居てくれるのよね?」  リズのビー玉みたいな緑色の瞳がきらきらと輝いて、トム顔を映していました。トムの目が次第に潤んでいくのに気付いたトムくんは、そっと川崎さんの肩へ飛び移りました。 「チビ?」  トムはその場にしゃがみこみ、激しく泣き出しました。 「トムおじさん、どうしたの? どこか痛いの?」  リズが心配して駆け寄ります。そこへ丁度戻ったジムが肩を軽く叩くと、トムはその腕にしがみついて、泣きました。兄の大きな体をしっかり抱きしめて泣く姿はまるで少年のようでした。 「ようやく、だな。お帰り、トム」  低く豊かなジムの声は弟に深く響きました。トムくんはそんな兄弟をじっと見つめていました。 十二  こんなにも深く静かな闇に包まれた森を歩くのは、トムくんには初めてのことでした。昨日から見ているものは、信じられないくらいに澄んだ空気と水。それから生き生きとした息吹を感じさせる自然。エル・キャピタンの切り立った壁も驚きでしたが、森に満ちる動物の匂いや足音も消してしまう大雪にはもっとびっくりです。トムくんの故郷は雪も殆ど降らない、温かい土地なのですから。もっとも、トムくんには足音なんて無縁なんですけどね。古いお話によると、昔、強い剣を作るために女の人のひげと、猫の足音などが材料として集められたといいます。それ以来、猫には足音が無くなって女の人にもひげがなくなったとか。本当かどうかはともかく、トムくんも足音をたてずに歩くのは、とってもじょうずなんですよ。 「今回はドームには登らない。それから冬は滝が枯れているからそのつもりでいてくれ」  ジムはそう言いました。ヨセミテで有名なハーフドームやノースドームは、子供には少し辛いと思われるからです。トムくんが一緒で今回はトレイルも使えないし、いろいろと考えなければならないようでした。でもそんなことより、トムくんも川崎さんも目の前に広がる光景に目を奪われていたのです。 「あれがノースドームだ」  雪の原っぱに、まるでクリスマス・ツリーのように空へ向かってまっすぐ伸びた木々が、たくさんの雪をかぶっていて、そのさらに向うにその大きな岩山はありました。一番高い木よりずっとずっと高いのです。切り立った崖はナイフで削り取ったみたいに鋭くて、雪がまるで白い粉砂糖みたいにドームを飾っています。そんな厳しい岩山にもちゃんと木は生えていて、しっかりと根づいているのでした。来る時に見た、エル・キャピタンもとても急な岩山だったけど、もっと全体的に丸くてなめらかな感じがしていましたが、ノースドームはずっとゴツゴツした印象です。どちらも岩だけど、トムくんの爪は果たしてひっかかるのでしょうか。 「雪に沈んでいるようだな……」  川崎さんがそうつぶやきました。沈もうとしていく月が西の空に溶け込むように消えていきます。 「チビ?」  トムくんの目からひとつぶの涙が落ちていきました。 「猫とは思えないな、チビは」  しみじみとジムが言いました。 「さて、そろそろ朝食にしよう」  朝から何も食べずにここに来たので、お腹はペコペコでした。  昼食を終えて、ヨセミテのロッジに戻ろうとしたその時、トムくんは何かの匂いと音を感じたような気がしました。リードを掴んだトムの向こうにジムがいることに気付いて、その肩に飛び乗ります。それを見て、ジムは川崎さんに向かってニヤッと笑いかけました。 「……流石だな」 「もしかして、何かいるのか?」 「ああ」  その瞬間、夕焼けの空を切り取ったような鮮やかな色が目の前を斬るように通り過ぎていきました。 「野鳥か!」  トムくんはその羽の色に目を奪われました。日が沈んだ直後の、あの紫と、夜の闇が交じった青をまぜたような色合い。白い雪原に鋭く飛んでいる姿は、まるで絵本の中の一枚の絵のようです。 「地球上では、今世紀中に鳥類の十四%が絶滅する可能性があると言われている。希望的に見ても六%は絶滅するだろうともいう。ウィルスによって激減することもあるが、何よりも生息環境が悪化し、どんどん減少しているんだ。そして、鳥類の激減はそのまま害虫の繁殖に繋がってしまう。だからヨセミテのような場所の保全が必要なんだ」 「渡り鳥の繁殖地が年毎に縮小しているという話も聞くな」 「ああ、モモイロペリカンの話が有名だ」  木の影を見つめていたリズが声を上げました。 「ジリス? ナキウサギ?」  振り返ると、リズの視線の先にはトムくんより小さな動物がいました。黒目がちのおおきな瞳を動かして、でもあまり警戒する様子はありません。 「ほら、あまり騒いではいけないよ。餌をあげるのも禁止だ。いいな?」 「ええ、パパ。ごめんなさい」  にっこりとリズは肯きました。その様子を見ながらジムが提案しました。 「まだちっとは元気があるようだし、インディアン・ロックに寄っていこう」 「確か、アーチ状になってる……?」 「そうだ。岩の上まで登れれば、アーチ越しにハーフドームが見える。もしそこまで行けなくても、アーチは見る価値が充分にある」  ジムは何となく誇らしげに見えました。 十三  ヨセミテ公園を出たのは、夕方でした。近くに、ジムの親しい友人が居るということで、そちらに遊びに行くことになったからです。明日いよいよジムやリズ、トムとお別れです。丁度その友人が、川崎さんが行きたがっているアーミッシュ村に詳しい人だということで、最後の夜はそのお家に泊めてもらうことになりました。ログハウスっぽい作りが、シエラの雰囲気にとても良く似合っています。 「ニック!」 「ジム!! 久しぶりだ。リズはすっかりレディだな」  ニックは、淡い灰色の髪と、リズとお揃いの緑色の瞳をした、赤ら顔のおじさんでした。ジムだって大柄だけど、ニックと並ぶと普通の体格に見えてしまいます。ジムがブラックベアなら、ニックはそれより一回り大きいグリズリーかも知れません。恰幅のいい体は、とても頼もしそうに見えました。トムくんが肩に登ると、まるでリスみたいに見えてしまいます。ニックは嬉しそうにジムを抱きしめ、リズには軽く頬にキスをしました。 「これが弟のトム。こっちは日本から来た俺の友人でマヒトだ。それからマヒトの猫。トムっていうんだが、弟と紛らわしいからチビって呼んでる」 「ほうほう、今日は連れがいっぱいだな。何もないが、ゆっくりしていってくれ。はじめまして、マヒトにトムにチビトム」  そう言って、温かな優しい眼差しで一人ひとりに握手を求めました。トムくんは爪でニックが怪我をしないように注意して、前足を差し出しました。リズやジムはもう慣れっこですが、ニックは目を丸くしています。 「……面白い猫だな」 「だろ?」 「アンジェラのいい遊び相手になりそうだ。……アンジェラ!!」  そっとニックの後ろから出てきたのは、濃い灰色の猫でした。リズが嬉しそうに抱き上げます。 「久しぶりね、アンジェラ。元気だった?」  その猫は、とても不思議な瞳でトムくんを見ています。何だか品定めでもされているような気分になったトムくんは、ニックの肩からトムの右肩へ飛び移りました。それを追いかけるようにアンジェラもトムの左肩へ移動します。徐々にトムくんに慣れてきていたトムでしたが、これはちょっと刺激的すぎたみたいです。トムくんは急いで川崎さんの肩へと移動しました。アンジェラがまた移動する前に、トムはやっぱり気絶してしまい、アンジェラは危うくその下敷きになるところでした。 「どうしたんだ?」 「やっぱりまだ駄目か。……俺の弟は猫が苦手だったんで、このチビに助けて貰ってリハビリしてたんだが……。チビ個体は大丈夫でも、猫全般はまだ駄目みたいだな」 「なるほど。だが一つの個体に慣れたのなら、その数を増やしていけば大丈夫だろう」  なんとかトムの下敷きにならずに済んだアンジェラは、またトムくんを追っかけ始めました。トムくんは家具や机にあるものを倒したり傷つけたりしないように注意しながら、逃げまくります。どうやら持久力はトムくんの方が上みたいでした。そのうちアンジェラは追いかけっこをやめ、息をぜいぜいさせながら、トムくんに向かって言いました。 「いっときますけどね、ここはあたしの縄張りよっ、あんたなんか入れてあげないんだから!!(注:人間にはふぎゃぎゃぎゃ〜!!と威嚇の声に聞こえます)」 「俺は縄張り荒らしをする気はないよ。この川崎さんと一緒に来てるだけだから。明日には出て行くと思う。安心して(注:もちろんにゃにゃ〜あと聞こえています)」  トムくんが近寄ってそう言うと、アンジェラは猫びんたを食らわせようとします。慌てて飛びのいて無事だったけど、アンジェラの爪で怪我をしそうになりました。 「アンジェラ!!」  ニックがアンジェラを厳しく叱り付けました。 「この猫はこの人間、マヒトの猫だ。俺が飼っているのはお前だけだ。今夜彼らは泊まって、明日は出て行く予定だから、仲良くしろとまでは言わないが、喧嘩はするな」 「でも〜(注:ニックには、ふみゃあ〜と聞えます)」 「喧嘩したら朝飯抜きな」  ニックがそうきつくいうと、アンジェラはトムくんを鋭い目で見つめはしても、攻撃したり追いかけたりしようとはしなくなりました。トムくんとしては、初めて会ったアメリカの猫だし、話をしてみたかったんですけど、アンジェラは聞く耳をもちません。  夕飯が済んで、川崎さんとニックは、アーミッシュの村について語り合いました。アーミッシュとは、電気や車などを持たない、古い時代の生活スタイルを維持している人たちのことです。アメリカ東部を中心に幾つかそういった人たちの住む村があって、川崎さんは以前から興味を持っていたのでした。 「この辺りにはアーミッシュ村は少ないが、全くないわけじゃない。良かったら案内しよう」 「迷惑でなければ是非お願いしたい。ジム、明日は一緒に行けるか?」 「そうだな。リズもいるし、いい勉強になるだろう。ニックとも久しぶりだし、折角の機会だから行くことにするか」  そうして夜は更けて行き、それぞれみんな眠りました。トムくんは猫用バスケットの中でおやすみです。インディアン・ロックのアーチの向うに、夕焼けの赤に染まったハーフドームの夢を見ているに違いありません。  きしっ。きしっ。  微かな気配に、トムくんは目が醒めました。トムくんのバスケットは窓際の机の上にあって、外の様子が良く見えます。まだ外は暗いけど、半分くらいになっちゃった月が傾いているみたいでした。  トムくんは胸騒ぎがしていました。ふと、金色に輝く二つの光が、家の外の森の中にいるのに気づきました。  そっとバスケットを抜け出し、川崎さんの鼻や頬をぺたん。と前足で撫でてみましたが、昼間の疲れが出たのか、ぐっすりと眠っていて起きる気配がありません。隣のジムも同様でした。  トムくんは仕方なく、隣の部屋へ入って行きました。ニックを起こそうと思ったのですが、起きてくれそうにありません。そうだ、アンジェラ。  トムくんはアンジェラの傍に行って、音をたてずにその体をゆすりました。アンジェラは寝ぼけて唸りそうになりましたが、トムくんのただならない様子に気づき、黙り込みました。 「家の外に金色の目をした獣らしき影がある。みんなを起こそうとしたが、疲れがたまっていたのか、誰も起きないんだ」 「……はぐれコヨーテが出る話をニックがしてたわ」 「俺は金色の目を見張る。アンジェラは何とかしてニック達を起こしてくれないか?」 「判ったわ」  トムくんは静かにまた窓へ戻っていきました。月の光が当るところに立つと、金色の目の獣に見つかってしまいます。影になっているところから外を伺うように見ていると、少しずつ近づいてくるようでした。  血の匂い?  微かに、だけと血の匂いがします。もしかしたらこの金色の目の獣は、怪我でもしているのかも知れません。どんどん近寄ってくる気配は、少し呼吸が乱れているみたいでした。トムくんはごくり。と唾を飲み込みました。 十四  金色に輝く目は、トムくんが様子を伺う窓から、少しずつ戸口に向かって移動をはじめました。トムくんは相手に気づかれないように注意しながら、ゆっくりと後を追います。ニック達が目覚めた気配はまだありません。アンジェラはちゃんと皆を起こせるでしょうか。  戸口には、アンジェラの為の、猫用出入口が一つついていますが、窓がありません。トムくんは、戸口の外側が見える窓からこっそり様子を伺っています。金色の目は戸口の外、三メートル程のところで立ち止まりました。月の光に照らされて、それはそれは不思議な毛の色をした動物がそこにいました。白でもなく、黒でもなく、しいていうなら銀色が一番近いでしょうか。トムくんやアンジェラよりもずっと大きくって、もっとたくましい動物です。耳はぴんと立って、凛々しい顔立ちでした。でも右の後足を少しひきずっているようです。ほんのりと血がにじんでいることにトムくんは気づきました。やっぱりこの金色の目の動物は、怪我をしていたのです。それから何か甘えるように声を出しました。「ニック(注:トムくんにはこう聞こえてますが、ニック達が聞いたらく〜んと聞こえます)」。トムくんはびっくりしました。もしや、ニックの知っている動物なのでしょうか? その時、ぎしっと木の床を踏む足音が響きました。振り返ると、ニックの大きい体が見えました。 「マヒト」  川崎さんを起こしているようです。トムくんは、金色の目の動物が動かないことを確認して、そっと川崎さんの傍へ行きました。メモになるようなものを慌ててさがします。 「チビトム?」  ニックが不思議そうにトムくんを見ていました。 「きん め ち におい にっく なまえ」  ようやくメモ帳を見付け、それだけ書くと、川崎さんの隣においてまた戸口に戻りました。 「チビトム…。これは一体何だ? 何かの記号か?」  ニックは読むことは諦め、川崎さんを起こすことにしました。先にジムの方が気づき、ニックは唇の前で人差し指を立て、声を出さないように注意します。 「マヒト…、起きてくれ」  熟睡するとなかなか目覚めない川崎さんも、二人がかりで揺すり起こされ、ようやく目を醒ましました。外はまだ真っ暗です。ニックが説明するより早く、トムくんが置いたメモに気付いて確認します。 「これはチビか。金色の目をした何かが近寄って来ていて、血の匂いをさせてるらしいな。ニックの名前を呼んでるみたいだ」 「その紙にそう書いてあるのか?」  川崎さんはにっこりと肯きました。 「で、心当たりは?」  トムくんは戸口のとなりの窓から様子を伺っていました。金色の目の動物は、二、三度ニックの名前を呼びましたが、諦めたように森へ帰っていこうとしています。後ろを振りかえりながら、名残を惜しむようにゆっくりと静かに。 「数年前、狼の子供を保護したことがある。闇でみると金色の綺麗な目をしていた」  怪我をしていた子供の狼を保護し、治療してやってから森へ放したことがあったのでした。でも本来、動物に干渉することは好ましいことではありません。餌を与えることも、薬を与えることだって、良いことではないのです。ニックは飛び出して行って怪我を見てやりたい気持ちになりました。川崎さんはそんなニックを見て、立ち上がりました。 「チビ。連れてきてくれ」  トムくんは、アンジェラ用の出入口から飛び出しました。 「待って!(注:川崎さんたちにはにゃおん!と聞こえます)」  びっくりしたように、金色の目の動物はトムくんを振返りました。見慣れない模様をした猫に、戸惑っているようです。 「誰だ? お前は?」 「ニックが呼んでる」  金色の目の動物は、ぴくっと体を震わせました。しばらく迷ったようでしたが、首を横にぶるぶるっと振ると、トムくんに向かいました。 「ニックは元気か?」 「とっても」  そうか、とちょっと笑ったようでした。 「俺は本当は会っちゃいけないんだ。でも怪我をしたらニックが懐かしくなってきちまった」 「ニックも会いたがってる」  ためらっていたようでしたが、トムくんが先に後ろを見せて戸口に戻っていくと、静かに後についてきました。  川崎さんが戸口を開け、トムくんを迎え入れてくれました。ニックは外を覗きます。金色の目の動物の姿を見つけた途端、ニックの目に涙が浮かびました。 「やっぱりお前、アレク!」  堪えきれない様子で、ニックは両腕の中にしっかりとアレクを抱きしめました。アレクは目を閉じて、ニックの腕にもたれています。そのまま暫く声も出さず身動きもせず、二人は再会の喜びをかみしめあっているようでした。  ふと気付いてアレクの怪我の様子を見て、傷が深くないことを確認したニックは、ほっと安心したように水で綺麗に洗ってあげました。消毒して治療してあげられないので、それで満足しなければならないけど、久しぶりに会えた懐かしい友達との再会を心から喜んでいることはトムくんにも良く判りました。 「お前のお陰だ、チビトム」  夜明け前にアレクは再び森へと帰っていきました。 「もしかしたら、前にもこうして来たことがあるのかも知れないな」  ニックがしみじみと語りました。トムくんと川崎さんがいて、初めて実現したアレクとの再会。それは短い時間ではあったけど、とても幸せなひとときでした。 「夢を与えてくれて、叶えてくれた猫だって言ってたな。本当に不思議なやつだ」  ジムが微笑んでそう言いました。空が少しずつ明るくなって来ていました。夜が明けたのです。  アレク出没の騒ぎもあって、眠り足りない皆は、もう一度眠ることになりました。トムくんも緊張から解放されてほっと一安心です。猫用バスケットに戻って休んでいたら、何時の間にかアンジェラが隣に来ていました。 「ちょっとは、見直したわよ。……ありがと」  とりあえず眠くって、トムくんはもう返事が出来ませんでした。並んで眠る猫達をリズが発見して、「可愛い!」と大はしゃぎです。 「チビは昨夜大活躍だったんだ。少し休ませてあげような」  ジムは娘を抱きしめました。  翌日はアーミッシュ村へ行く予定を立てていましたが、全員が目を醒ましたのは午後だったので一日予定を延ばして出発することになりました。アーミッシュ村は観光地化されているところもあります。だいたいは事前に許可を貰えれば見学は出来るようなので、川崎さんはニックに頼んで見学させて貰い、スケッチを楽しんでいました。トムくんはその隣にちょこんと座ってその様子を見つめています。アーミッシュ村の人たちは写真撮影されることを嫌う人が多いのですが、スケッチは珍しいらしく、川崎さんの手元を覗き込む人もいます。トムくんに気付いて声を掛ける人もいました。トムくんも川崎さんの絵と、目の前に広がる光景を見比べながら、初めて見る馬車や人々の服装に目を輝かせています。  伝統的なアーミッシュの服装は、印象的でした。色もどちらかというと地味な色合いで、女性は足首まであるような長いドレスです。白いエプロンを付けたり、頭を白い布で覆ったりしている人もいました。 「かまどって何? パパ」 「アーミッシュ村には電気がないんだ。コンロもない。だから、キャンプの時みたいに火を燃やして食事を作るんだ。かまどというのは昔人間が使っていた、コンロの原形みたいなものだね。下で薪を燃やし、その上にある穴に釜を載せて煮炊きをするんだ。すごく手間がかかるけど、美味しいご飯が出来るんだよ」  ジムがそう説明している隣で、ニックは時計を見て言いました。 「マヒト、ジム。きりが良ければ食事にしないか。この傍にレストランがあって、美味い飯を食べさせてくれる」  もちろん答えは決まっていました。  川崎さんが予定していた旅行の日程は最初っから崩れっぱなしでしたが、ジムとニック、それからトムくんのお陰で、予定していたよりもずっと素敵なものになりました。ジムやニック達とアーミッシュ村へ行った後は、レンタカーを借りてトムくんと二人でドライブをしたりしましたが、前半にハプニングが続いたせいか、後半はとても落ち着いたものになったような気がしました。  いよいよ帰国することになったのは十二月も後半のことでした。ジムやニックには葉書で連絡をし、空港へ向かうと、なんとリズとトムが見送りに来てくれていました。 「チビちゃん、いつか日本に会いに行くわ」  リズは緑色の目でトムくんを見つめ、頬にキスをしました。トムはしばらくためらっていましたが、ぼそぼそとつぶやきました。 「ありがとう」  川崎さんとトムくんはちょっと目を合わせて、それからにっこりと微笑みました。 「早く猫が苦手じゃなくなるといいな。また会おう」  驚いたように川崎さんを見て、トムはおずおずと手を差し出しました。 「元気で」  リズとトムを残して、川崎さんはトムくんとロビーを後にしました。その直後、猫用バスケットを抱えたニックが慌てて走って来ました。もちろん、バスケットの中にはアンジェラがいます。 「リズ! トム! マヒトたちは?」 「ニックおじさん! チビちゃんたち、もう行っちゃったわ!」 「間に合わなかったか…」  ニックはその場に座り込み、はあはあと肩で息をしています。アンジェラはバスケットの中から思いっきり叫びました。 「トム! あんたなんかよりいい雄猫なんか、一杯いるんだからね!!(注:ニックたちにはにゃにゃにゃおん!!と聞こえます)」 「そういえば、トムキャットってどういう意味だっけ?」  ぽつりと言ったトムの声を聞いて、ニックが吹き出しました。こうして川崎さんはトムくんを連れて、ロサンゼルスを旅立ったのです。 十五  明るい日差しが降り注ぐ、小春日和の日に、トムくんは川崎さんと一緒に、故郷へ帰ってきました。再入国の動物検疫を半日がかりで終え、ようやく懐かしいシェリーちゃんの待つ家へたどり着いたのは、少し太陽が傾き始めているころでした。なにやら騒がしい様子が家の中から聞こえてきて、トムくんは不思議に思いました。お留守番で淋しい思いをしてるシェリーちゃんが友達を呼ぶことはありえるとしても、こんなにざわざわしてるなんて、何かあったんでしょうか。 「ただいま」  中に入ると、そこにはたくさんの猫が集まっていました。後ろからついてきている川崎さんもびっくりです。もしかして、トムくんが今日帰ってくると聞いて、わざわざ待っていてくれたのでしょうか? でもそれにしてはシェリーちゃんの姿が見えません。 「あなた…」  トムくんはドキッとしました。シェリーちゃんの声が、猫たちの真ん中辺から聞こえてきたのです。  声のする方へ行くと、そこにはシェリーちゃんが段ボールの上に横たわっていました。ミケ母さんがとなりにいます。 「帰ってきたね、トム坊」  ミケ母さんは、いつまで経っても子供扱いを変えてくれることはないけど、トムくんにとってはとても頼りがいのあるお母さんです。ふと気づくと、シェリーちゃんのお腹がぷっくりと膨らんでいます。そう、シェリーちゃんは今まさに小さなちいさな命をこの世に送り出そうとしているのでした。あまりのことに、トムくんは驚いて声も出ません。後ろから覗き込んだ川崎さんが、驚きの声をあげました。 「シェリーが子供かぁ。チビ助、お前もオヤジなんだなぁ」  シェリーちゃんが苦しみ出しました。でもトムくんにはどうすることも出来ません。頑張ってといって優しく前足でさすってあげることしか、出来ないのです。こういう苦しみは何回か波のようにやってきて、産まれるのだとミケ母さんが教えてくれましたが、その回数が増える程に体力を奪われていくようです。 「こんなに苦しんでたのを知らずにいたなんて…ごめん」  苦しい息の下で、シェリーちゃんはふっと微笑みました。必死に頑張るその姿は、きらきらと輝いて見えました。  シェリーちゃんがようやく出産を終えたのは、夜になってからでした。白っぽい子、全体的に茶色い子、それから真っ黒な子。トムくんとシェリーちゃんはいっぺんに三猫のお父さんとお母さんになったのでした。初産だからこんなもんよ。とミケ母さんは、子猫たちをなめて綺麗にしているシェリーちゃんの世話を焼いています。川崎さんはその様子をじっと観察し、時には段ボールを替えたり汚れものをどけたりと手助けをしてやりながら、スケッチしたり写真を撮ったりしていました。シェリーちゃんは、なめおえた子猫から順番にお乳をあげています。 「どんな目をしているのかしら?」  ぐったりと疲れた様子で汗だくになりながらも、シェリーちゃんはうっとりとした、しあわせいっぱいの笑顔で子猫たちを見つめています。まだ開かない小さな目を愛おしそうに見つめるシェリーちゃんに、トムくんはまたドキドキして、視線を彷徨わせています。 「あなた、どうか…?」 「えっ」  トムくんの何やら不思議な仕草に、真正面からしっかりシェリーちゃんは見つめました。 「今日、何か変よ? 私の方を一度も見ようとしていないわ」  シェリーちゃんは少し淋しそうに眉を寄せました。トムくんは慌てて言葉をつなぎます。 「あっ、そのね。ミィがね」 「ミィ……?」  アメリカで夢に出てきた、黒猫のミィ。シェリーちゃんにその話をしたいとトムくんは思いました。 「いつだったか、黒猫のミィの話をしたかな?」 「ええ、確か旅先でお世話になったって……」 「夢に出てきてね、俺のところに行くよって言ってたんだ」  シェリーちゃんは驚いています。 「私もね、つやつやした毛並みの、印象的な目をした黒猫に会う夢を見たのよ」 「えっ……」  二猫には、話したいことが本当に沢山ありました。  小さな猫たちがミルクを飲み終えて、ようやく落ち着き、手伝いに来てくれていたミケ母さんをはじめ、みんなが帰っていった夜更け。トムくんはシェリーちゃんと久しぶりにゆっくりしていました。 「おつかれさま。結局何も出来なかったよ」  トムくんが声をかけ、労るようにシェリーちゃんに触れました。シェリーちゃんは子猫達に注意しながら、トムくんに身を寄せました。 「今日は人間がクリスマス・イヴっていう日なんでしょう? あなたはちゃんとプレゼントをくれたわ。この子たちと、あなた自身を」  そういって、トムくんに向き直り、素敵なお花がひらくように微笑みました。 「お帰りなさい」  その途端、シェリーちゃんを映しているその瞳がみるみるあいだににじんで、大粒の涙がこぼれ落ちました。 「ありがとう」  ずっと天涯孤独だったトムくんは、ようやく家族のもとへ、故郷へ帰ってきたのでした。 「それから……ただいま」  トムくんの冒険の物語は、これでおしまいです。えっ、川崎さんですか。川崎さんは、今も冒険する猫のお話を書いているんですよ。それは、ちょっと淋しがり屋で、でもとても勇敢で優しくて、賢い猫の物語。小さな子供たちだけでなく、いろんな人に夢と希望と、温かい力を与えてくれるのでした。そう、トムくんが川崎さんにとってそういう猫であったのと同じように。もし三毛猫に出会ったら、「トム!」って声を掛けてみて下さい。トムくんならきっと返事をしてくれるはずです。猫語で、ですけどね。