Without 第一章天狼星(シリウス) 序  少年の頃見た空はいつも煙るような色をしていた。空を焦がして沈む夕日を飽きることなく見詰めていたのは、いつの頃だったろう。太陽の命が消えていくのと引き換えに夜の帳が優しくかかりはじめて、遠慮していた星達が少しずつ姿を現していく瞬間が好きだった。金星、火星、アルデバラン、プロキオン、プレアデス…。「夏の大三角形」も嫌いじゃなかったけど、僕は冬生まれのせいか冬の星が一番好きだった。特に突き刺さるような鋭い光で僕を圧倒するようなシリウス。冬になると、母親を捜す子犬のようにシリウスを捜す。そして、見つかるとほっとして僕はまた歩き出すのだ。 一  二月の空はやたら白くて、どこまでも境界線が見えないような色をしていた。滲むような飛行機雲が空を横切って、ゆらゆらと消えていく。仁と僕は、とりとめのない話をしながらソワソワしはじめていた。  駅ビルの階段を元気よく駆け上がってくる女の子が見えて、仁は「あ、来たぞ」とほっとしたように僕に囁いた。息せき切って走ってくるのは、遅れたせいだろう。約束の時間を十分程過ぎていた。仁が軽く手を上げると、片手を振る。体勢を崩して今にも転んでしまいそうなよろけ方をしたけど、不思議に転ばなかった。 「よう、ひさしぶり!」 「ごめん、遅くなって」  ワインレッドのベレーを被った女の子が、仁に向かって頭を下げた。そして僕に向き直って――僕は今でもこの瞬間をはっきりと覚えている――「はじめまして。『春霞(はるか)』です!」とにこっと微笑んだ。息が上がってほんのり朱に染まった彼女の頬は、艶やかで健康的に見え、大きな瞳は躍動的な光を宿していた。 「出掛けに毛布忘れたのに気づいて、慌てて車に積みこんでたら遅くなっちゃった」  頭を掻いて照れ笑いすると、大きかった目がチェシャ猫みたいに細くなった。仁は気にする風もなく、軽く笑うと荷物を背負い、歩き出していた。 「いいよ、あいつら待たせるとまずいからすぐいこうぜ」 「うん。下に車を停めてるの」  にっこり微笑んだ彼女の向こうにはどこまでも空が広がり、太陽は白く輝いていた。僕は眩しさに目を細めながら荷物を背負い、歩き始めた。漠然と沸き起こる未来への期待だけを抱えて。  他のメンバーと待ち合わせて、ハーブ園へ向かったのは、正午を少し回っていた。僕だけが新顔で、簡単な自己紹介だけ済ませると二台の車に六人が分乗する。彼女の親友大野さん、やや寡黙な初瀬川さん、もう一人の運転手で大分訛りがときどき出る藤田さん、そして仁と彼女と僕だった。僕は彼女の車の助手席につき、仁はその後部座席に座った。車を走らせて二十分くらい。ようやくハーブ園の看板が見えた時、駐車場で白いスプリンターの隣にたたずんでいる人影に気づいた。 「松野さん!」 「この距離でよく判るよな」  呆れ顔で仁がつぶやいた。ようやく最後のメンバーが合流したのだった。 「こんにちは」  それは吃驚するほど恰好良くて、三十代を半分くらいは過ぎていそうな人だった。ちょっと髪に交じった白髪がいい雰囲気を醸し出していて、一層魅力的になっているような気がした。優しそうな微笑みはそこらにありがちなおじさん臭い笑顔ではなくて、「ダンディ」と言って差し支えない品格がある。渋いナイスミドルといった感じだった。  挨拶を交わして、ハーブ園の庭を一通り見てまわる。彼女と藤田さんは温室でハーブの苗を、松野さんは鉢を買った。 「くっしゅん!」 「仁くん、大丈夫?」  ハーブだの香料だのに弱い仁にはちょっと温室は辛そうだった。 「じゃあ食事にしましょうか。ここにはね、喫茶室があるんですよ」  松野さんはハーブや植物が好きで実際自分でも少し育てているようだった。 「ハーブを使った料理を出してくれるんですよ。私なんかはハーブを沢山使いますので苦手な方は近寄らない方がいいですよ」  穏やかな微笑みは、紳士という言葉にこれ以上はないほど相応しかった。すすんで彼女が松野さんの隣に座り、僕はその斜め向かいに腰を下ろした。仁は慣れっこになっているのだろうか、笑いながら松野さんの向かいに座った。とりとめのない雑談と、松野さんのハーブの話が続いていた。  星見のリーダーは初瀬川さんで、今夜の予定を既にたてていた。 「今日は良く晴れたから期待できるんじゃないかな。後は大気の状態次第かな」 「そうだな、遅刻してまで毛布積み込んだんだから、役に立って貰わなきゃな? 春霞」  仁の言葉に大野さんが追い討ちをかける。 「春霞の遅刻はいつもだよね」 「きっついなあ、昭(あき)は! 確かに認めるけどさ、最近減ったのよ」 「減るのと直るのは別だよ」  にこにこと割って入ったのは藤田さんだった。 「まあまあ、来れたんだからいいやん」  確かにその通りだった。 二  出会いはインターネットだった。趣味のHPで知り合い、リアルタイムで接続してる何人かの人と同時に意見を交換しあえるチャットで親しくなったのである。僕はまだインターネットを始めたばかりで、何もかもが珍しくて仕方がなかった。ある日、仁と彼女―――ハンドルを春霞といっていたから、この名で呼ぶことにしよう―――がオフ会の打ち合わせをしてたチャンネルに僕が誤って入ってしまった。社交辞令だと思うが、当然のことのように彼女は僕を誘い、二つ返事で参加を決めた。もしこの時、彼女が僕の住所を知っていたら、出会いはまた違うものになっていたかも知れない。少なくとも、この時点で僕に「おいで」とは言わなかったろう。僕の住所を知って彼女は驚いたが、東京からの行き方の説明を事細かに説明してくれ、途中から同じルートを使う仁とうまく合流できるよう、心を砕いてくれた。方向音痴の僕が迷わずに来れたのも、彼女の丁寧な説明の賜物と言える。大まかなことをメールやチャットで毎日のように連絡し、前日だけ電話で細かい打ち合わせをした。 「目印に私、ワインレッドのベレーを被るわ」  初めて聞く彼女の声に、僕は期待が成長するのを感じていた。 「オフ会、楽しみにしてるよ」  胸の動悸が電話ごしに聞こえるんじゃないかと心配になるくらいだった。その電話を切ってから半日後、僕は初めてのオフ会に参加していた。 三  プラネタリウムは思いのほか人がいなくて、静かだった。時々ちょろちょろ歩き回る小さな子供もうるさいという感じはしない。建物は古かったが、設備はなかなか良かった。冬の星座の特集と、月の満ち欠けについてのビデオを上映していた。説明は子供向きにつくられていたけど、割とよく出来ていて、楽しかった。 「プラネタリウム主張したの、誰?」  いいセンスだなと思った。 「んーとね、昭。プラネ見たいっていってたから。今度のオフは『知的に』がテーマなの」  ちょっと上を向いて「いいでしょ」といわんばかりの挑戦的な瞳はまるで猫みたいだった。 「で、幹事は?」 「あはははは! 本当はね、仁くんに押し付けるつもりだったんだけど、結局逃げられたのよ、当日まで参加がはっきりしないからって」 「で、いいだしたのは誰?」  僕は思わずにやにや笑いながら、畳み掛けるように聞いてみた。 「はい、私です」  神妙にというよりは、悪戯を指摘された子供が悪びれずに謝っているみたいだった。  星見のメインは「カノープス」という星で、日本だと地平線すれすれにしか見られず、北限が関東だと言われている。地平線の向こうに姿を隠した太陽のあとがなくなるのを確認して、僕たちは星見の場所に選んだポイントへ向かった。だいたい三百六十度の展望が広がるこの場所を見つけたのは春霞だった。雲がなく、晴れ渡った空に冬の星が瞬きはじめていた。 「毛布持ってきたのに殆ど使わなかったわね」  春霞が遅刻してまで持ち込んだ毛布は役に立たなかった。何しろ寒くて、毛布を被ってまで星見をしようという奇特な人間が七人の中に居なかったからである。 「車の中で温かいからいいさ」  仁が慰めるように春霞の頭をちょんと突ついた。 「そうだ、オリオン座の三つ星って、目印になるんだよ。知ってる?」 「目印?」 「丁度ね、ほぼ真東からのぼって真西に沈むんだって」  大きな瞳が楽しそうに踊っているようだった。 「ほお〜、それは知らなかったな」  感心したように仁が肯いた。 「あ、見えた!」  寡黙な初瀬川さんが叫んで、僕たちは一斉に声のほうを振り向いた。双眼鏡を片手に興奮した様子で顔が少し上気してるのが見てとれた。 「あそこに鉄塔があるでしょう? そこからね、右に少しずつ視線をずらしてみて下さい」 「あ、ほんとだ。すごい! 初瀬川さんのいうとおりね」 「位置的にはシリウスのほぼ真下かな」 「あ、あれか!」  初瀬川さんの誇らしげな顔に優しい微笑みを向けて、春霞は順々に皆が見られるよう世話をやいていた。 「冷えてきましたね」  藤田さんが肩をすくめて空を見上げる。 「ぬきぃの(温かいの)がいいやねえ」  春霞はそっと松野さんを振り返った。長い髪が僕の体に一瞬まとわりつくかのように見えたが、僕の服の鳩尾のあたりをそっとかすっただけだった。 「温まるもの、ですね」  にっこり笑って松野さんはちょっと考える仕草をした。  辛いものが好きな松野さんのおすすめの店で、ちょっと遅めの夕食はメキシコ料理だった。運転手の二人、春霞と藤田さんだけはアルコールを口にしなかったが、松野さんをはじめ四人はそれぞれにフルーツのフローズン・カクテルを楽しんだ。例によって彼女は松野さんの隣に座り、僕はそこから一番遠い席を選んだ。 「松野さん、干支は丑ですか?」 「丑です」  当たった事が本当に嬉しそうな顔だった。 「和佐(かずさ)くんは何ですか?」  いきなりお鉢が回ってきた。 「丑です、松野さんと一緒ですね」 「同じですが、私とは一回り違いますね。私なんてどう老後を生きようかなんて考えてますよ」 「まだお若いじゃないですか!」  頬を染めながら春霞がそう言ったとき、女性の赤面した顔って美しいんだなと不意に感じた。 「ありがとう」  微笑んで松野さんは彼女に笑いかけた。 「そろそろ移動しませんか? カラオケでいいですか?」  浮いた間を埋めるように仁が誰にともなく聞いて、その場は何とか落ち着きを取り戻した。 「カラオケの鉄人が入ってるところがいいですね」  それで決まりだった。  お茶を飲むためにファミレスに入ったのは、午前零時を過ぎていた。カラオケは二時間だったろうか。春霞の歌にバックコーラスをつける松野さんは、ちょっとその辺にはいないと思われるほど巧かった。勧められるままに何曲か歌い、気づくとファミレスに行くことが決まっていた。お茶とケーキと珈琲がいくつか並び、ちょっと気怠げな夜のお茶という様相を呈していた。話題の中心はやはり松野さんで―――嫉妬したくもなるのだが、男から見ても恰好いい男というのはそう思う前に感心したくなるのかも知れない―――彼女は熱心にその話を聞いて、頬を染めていた。それは駅ビルの階段を上ってきたあの赤さではなく、もっと中から滲みでてくるような赤さだった。触れてみたい衝動に駆られて指を伸ばして彼女の頬を突つきそうになった瞬間、松野さんが不意に話題を変えて、慌てて僕は指を引っ込めた。僕を見つめてにこやかに微笑む。 「和佐くん、今日はどちらかに泊まるんですか?」  僕が遠いことを知って春霞がとってくれたホテルに、もう荷物は置いてきてあった。 「はい、駅前のホテルに」 早めにチェックインを済まさせてくれた彼女の配慮に感謝した。 「荷物はもう?」 「ええ」 「それなら安心ですね」  それから三十分ほどしてからそこを出た。松野さん達と挨拶を交わし、そこで三々五々に別れることになった。 「春霞、眠い?」  さっきから夜遊びの虫が騒ぎ出してる仁が猫撫で声を出していた。 「まだちょっとは平気だけど。夜遊び? 飲み?」 「飲みたい」 「昭、呼ぼう」  大野さんは藤田さんや初瀬川さんと話していた。 「昭、仁くんが飲もうって」 「悪い! 明日家に人が来るのよ」  残念そうな顔だった。 「お義母さん?」 「そ!」  何時の間にか僕もメンバーの中に巻き込まれていた。でも結局来れるのはその三人だけだった。 四  手玉はグリーンのボールに触れ、そのままコーナーのポケットへ落ちた。ポケットのすぐ傍にあった黄色いボールには僅かに届かなかった。 「惜しかったね、和佐くん」  チェシャ猫みたいに笑い、悪戯好きな瞳を片方だけ閉じて狙いを定める。フリーになった手玉を掌のなかで玩んでる姿は鼠を楽しむ猫のようだった。 「さあて、わたし」  細い指でキューを挟む。スッと差し出す瞬間にはもうためらいがない。鮮やかなフォーム、指先が綺麗にブリッジを作る。今にも舌なめずりしそうな猫の瞳が細くなり、狙いを絞っていく。シュ、シュ、シュ。そして最後に力をこめる。  カン!  手玉はグリーンのボールに当たり、グリーンは黄色に当たった。そして、いまでも信じがたいのだが―――黄色いボールはコーナーの反対側のポケットに静かに落ちていた。 「ヒューッ。かっこいー!」  仁が口笛を吹く。濡れたような睫毛が微かに震えて、彼女の瞳は露を含んだかのようにみえた。微笑みを湛えた口元が皮肉っぽく歪み、細い指先がキューをゆっくりと降ろしている。  不意にふらつきそうになった。 「和佐くん? 大丈夫?」 「いや、大丈夫。ちょっと飲みすぎたかな。頭を冷やしてくる」 「そう?」  僕は早足で店を出た。東の空を見上げると、春の星が上ってきていた。僕はいつしか捜すのをやめていたことにふっと気がついた。頭を巡らすと傾き加減のシリウスが綺麗だった。 「焼き焦がすものって意味なんですって」  振り向くとすぐ近くに傾き加減のベレーが見えた。 第二章水妖記 序  オンディーヌと呼ばれるものが水の妖精だと教えてくれたのは春霞だった。人魚姫が海の水の妖精ならオンディーヌは陸の水の妖精だねと笑った顔を今でもはっきりと思い出せる。オンディーヌはね、と春霞がどことなく淋しげに呟いた。愛した人を殺すのよ、と。  人魚姫が愛した人を殺せずに愛した自分を殺したのとは対極に、オンディーヌは愛した者を殺す。誓いを破った行為のために。「誓い」は北欧では「誓約(ゲッシュ)」。守らなければ恐ろしい呪いがあるとされる約束事だ。春霞が何故僕にこんな話をしたのかはよく判らなかった。けれど今は少し判る気がする。生と死の狭間に人間の本能が見え隠れするなら彼女はその究極の狭間で何を思っていたのだろう。今はもう知る由もない。 一  夢に誰かが出てくるとき、不思議な気分にならないだろうか?でも意味のある夢なんて見たことがなかったから、多分それは単なる「雑夢」ってやつで、偶然出てきただけなのだろうと想う。例えば印象が強かったとかで。でも目覚めた後に僕は思い悩んでしまうのだ。  ―――静かに雨が降っていた。こんな日の春霞は本当に嬉しそうに傘もささずに雨の中を走っては僕達を心配させたものだった。体も強くないのに何故雨の中を走り回るのかと聞いたら、零れそうな笑顔で好きだからと応えた。でも雨に濡れたら良くないのは判ってるからちゃんとウィンドブレーカーを着てるのと言う彼女の頬が、少し上気しているのが眩しかった。  彼女が走っていく先に松野さんの姿が見えた。僕は手を伸ばして春霞をつかまえようとした。何故そうしようとしたのかは判らない。ただ、どこかに飛んでいってしまいそうな春霞を捕まえていなくちゃいけないと思ったのかも知れない。伸ばした手は、届かなかった。―――  春霞は、朝が弱くて有名だった。低血圧というわけでもない。それでよく遅刻しては親友の大野さんに叱られるのだという。  発信音が鳴り響いている。2回、3回。いったん受話器を置こうかなと思った瞬間、息せき切った声が聞こえた。 「はい、もしもしっ!」 「モーニングコール・サービスでございます」  瞬間、はじけたような笑い声が電話口の向うに聞こえた。 「ありがと。…吃驚しちゃった」 「じゃ、仕事頑張れよ」 「うん、和佐くんもね。無理しないで頑張って。気をつけて行ってらっしゃい」 「行ってきます…ってなんか妙な気分だな」  もう一度、はじけるような笑い声が起って僕は幸せな気分に包まれながら受話器を置いた。  春霞と僕は生まれ年が一緒ということも手伝って、自然に仲良くなった。毎晩のようにチャットで会っていたのだが、たとえていうならそれは毎日電話で話しているのと感覚的には変わらないものなのである。  ある夜のチャットで何人かの人が居た時、「二人は付き合ってるの?」と聞かれたが、念頭にそんなことがなかった僕達は吃驚してしまい、慌てて否定した。でも彼女が僕との関係を否定する際に「距離が遠い」と言ったことが僕にはちょっと不服だった。その事が頭から離れず、「じゃ近所だったらどうなってるんだよ」といってやりたかった。近くても遠くても大丈夫だと僕は信じていたから。 二  春霞はいつも松野さんが行ってしまう後ろ姿をずっと見つめていた。泣きそうな、切ない瞳で。僕はそれに気がつかないふりをしながら、彼女の車に乗り込んで、行き過ぎる車のヘッドライトを見つめていた。ふりかえって車に乗り込むと、エンジンをかける。振り切るように「よっしゃ!」とかけた声が、どこか切なかった。 「付き合おうか?」 「いいわよ。それでどうにかなる訳じゃないもの」  車は滑り出した。春霞の目は潤んでいたけれど、涙は流れてはいなかった。 「じゃ、俺に付き合ってよ。春霞とドライブしたいな」  春霞は僕を見つめ、それから視線を落して「少しだけ、ね」と呟くように言った。  何時の間にか空は白々と明けていくところだった。春霞の車で宿まで送ってもらった僕は、車の中で泣きそうな顔をしながら―――泣かないときめていた彼女はそれでも決して僕の前で泣こうとはしなかった―――松野さんへの想いを途切れがちに話していた。  心臓が痛くなるほど、心から人を愛せる人というのは、どれだけいるものだろうか?「目の前で喉を突いて死んだら忘れないでいてくれるかしら?って思ったりもしたの」明るく笑い飛ばそうとして、それは果たせなかった。彼女は自分が愛されないと知っていてもつい言わずにいられなかったという。それなら僕も一緒かも知れない。彼女の傷口につけ込んだと言われてもいいとさえ思った。 「春霞」  泣き出しそうな顔が僕を見つめる。 「好きだよ」  僕は春霞の肩に手をまわした。ひどく愛おしいという感情がこみあげてきて、もう片方の手を回して彼女を抱きしめる形になった。驚愕に目を見開いていた彼女は、殆ど泣きそうな声を絞り出すようにしていた。 「松野さんが、好き。今も…」 「判ってる」  顔を伏せて、両手で顔を覆う。僕は胸の中に彼女の顔を埋めるようにして抱き、か細い体にまわした手に力をこめた。……。  愛した人を殺すことが出来ない人魚姫は、愛した人の代りに自分を殺した。愛した者を殺さねばならなかったオンディーヌは、どういう思いで殺したのだろうか。願わくば、それはない方がいい。それでも殺さねばならないとしたら、やはりどちらかしかないのだろうか?これは僕の持つ「業」なのかも知れない。叶うなら全てのものを生かしたいと思うのは。しかしそれも若さゆえの傲慢さの現れなのだろうか?春霞が苦しみの中に立っているなら救いたい。僕の方を向いてなくても構わない。ただ、幸せでいてさえくれれば。彼女を幸せにするのは僕だ、とその時思った。 三  僕が春霞に告白した夜から二週間が経っていた。どちらからともなくメールが頻繁になって、モーニングコールの回数も増えた。夜は夜でチャットや電話をしていたけれど遠距離ということは僕にとっては大した負担ではなかった。春霞は付き合っている時とそうでない場合を明確に分けて考えていて、きっちりとラインを引こうとした。基本的に僕は彼女のしたいようにさせたけれど、もっともだと思われることが多かったから僕が反対するようなことも特に無かった。僕はオフ会以外に二人で会う時間を作りたくて、その旨を申し出た。春霞はちょっと戸惑って…それから「いいよ」と応えた。そして、これから彼女と僕は月に一度二人だけで会うようになる。それまで「オフ猿」とまで呼ばれる程いろんなところに顔を出していたけれど、僕の変化に気がついたのは仁だけだった。ある夜のチャットにいると、仁が僕にだけしか見えないメッセージを送ってきた。 「和佐、春霞と会ってるのか?」  一瞬、僕は春霞が仁に話したのかと思った。でもそうではないだろうと確信が持てたから誤魔化そうと返事を考えた。 「オフ会で逢ったきりやなあ。あれって何時だったけ」 「そうか」  その時は、それだけだった。  彼女と二人で会う時は基本的に割り勘だったし、交通費は各自負担していた。ただ彼女が僕の住んでいる町に来ることはなく、彼女が住んでいる町にいつも僕が行っていたから交通費は当然僕の方が遥かにかかっていた。それを配慮して、なるべく彼女は途中まで車で送り迎えしてくれていた。いつも彼女は笑顔でいてくれた。だから僕は暫く気がつかなかった。遠距離が、彼女にとって大きな心理的負担を与えているということに。  彼女が僕の腕の中で泣いた日から正確に2ヶ月後には、僕たちは付き合っているような状態になっていた。そう言うのは、彼女の意識の問題にあるからであって、僕としては付き合ってるという気分ではあったけれど、物事をきっちりさせないと気が済まない彼女は断固として僕と付き合ってると認めようとはしなかった。それでも毎日のようにメールを交換したし、電話もした。少しでも彼女に近づいていたかったし、彼女に淋しい想いをさせたくはなかった。出来ればこのまま傍にいられたらいいと思ってもいた。何事も真剣に考える性癖のある彼女は、僕のことも真剣に考えていてくれたのだろう。いつも済まなさそうにしていた。思えばこの時に僕は気が付くべきだったのだ。それでも僕はずっと幸せだと信じていた。今思うと非常に間が抜けた話だと自嘲するしかない。自分一人で幸せに酔っていて、彼女の気持ちの揺らぎに気がつきもしなかったのだから。 四  二人だけで会うようになって、半年が過ぎた頃。春霞は距離を置きたいと言い出した。僕は当然反対した。逢えなくなる恐怖。それは僕の中の彼女への思いを風化させはしないけれど、春霞の心をしっかり手にする可能性を低くしてしまう気がした。彼女はそれでも実に根気よく僕を説得した。そして、今している約束全部を果たしたら、そうしようと決めた。  最後のデートは、TDLだった。僕は近くのホテルをダブルで予約し、春霞は迷いながらも一緒に泊まることに同意した。 五  人魚姫は、愛した人を殺せずに、自分を殺した。オンディーヌは、誓約を破った愛した者を殺した。自分を殺すか、相手を殺すかの瀬戸際に彼女達が思ったのは何だったのか。春霞から聞いたとき、僕は「誰も死なないお話にすればいいのに」と単純に思った。それは僕が単純であるせいもあったけど、僕はいつもハッピーエンドが好きだったからいっそ皆幸せになれる大団円の話にしちゃえばいいのにと単純なことを考えたりした。悲劇性のあるお話の方が人間の魂を揺さぶるものなのよ。そういったのは春霞だったけど、悲劇より喜劇の方が楽しいじゃないと僕がまぜっかえすと困ったように微笑んだ。僕は彼女のそういう表情が殊のほか好きだった。少女っぽい彼女が、ひどく美しく見える瞬間だったから。そして春霞はその微笑みのまま、ゆったりと言うのだ。喜劇は楽しい、でも魂に残るのは悲劇なの。楽しかった恋よりも辛かった恋の方が味わい深いものになるのは、よりその人を磨いてくれるからなの。楽しいばかりの人生なんて、辛いばかりの人生と同じくらいありえないけれど、辛さがあるから楽しいことの輝きが増すのよ。哀しいことがあるから嬉しいことがより嬉しく感じられるのよ。そういう春霞の言葉は、年下の女の子と思えないほど大人びていて、地面にしっかり根を下ろした大木のような印象さえあった。そして、春霞はゆっくりと二人の妖精について語った。どちらも女としての観点から言えば、理解出来る行動だと思うけれど、とことん愛したという印象があるのはオンディーヌの方だ。人魚はただ、流されるままに流されてそうなっただけにすぎないけれど、あれは男性の希望が形になったものじゃないかって気がする、と。美しく消えて儚く泡になってしまう人魚。それを求める男性はロマンティストで、女性に永遠に美しい、汚れのないものであって欲しいという願望があるのかも知れない。そして自分のために命も投げ出してくれるというのは願望以外の何ものでもありえない。僕は聞きながら「そういうものかな?」と呆けていた。今はそれが彼女自身の中にもあった願望だということが判る。男性の中に存在する願望とは少し違うそれは、男性から見た人魚姫と女性から見たそれの違いを浮き彫りにする。男性から見れば美しく消えた人魚姫も女性から見れば単なる復讐で消えたと解釈出来なくもないのだ。女はね。春霞がいつか言っていた。愛する人の心に残るためなら、何だってするの。光になれないなら、染みにでも傷にでもなりたいと思うの。そして男に復讐するのよ。手に入れなかったことを一生後悔させるように。失ったことを何度でも悔やむように。その瞬間を魂に刻み付けさせて。そういう時の春霞の顔は、凄まじさを感じさせる程美しかった。その美しさを、多分僕は一生忘れることはないだろう。この胸に残る痛みとともに、何度でも蘇ってくるだろう。彼女はそういう意味で僕に「復讐」したのだ。春霞自身がどういう思いであったにせよ。 第三章春霞  春霞 たなびく野辺の若菜にも     なりみてしがな 人もつむやと 藤原興風     (古今和歌集巻 第十九 雑躰 一○三一) 一  春霞という言葉の出てくる和歌はいくつかあるけれど、春霞がとくに好んだのは興風の歌だった。シンデレラというよりは眠り姫みたいだなと思ったけれど、そういう願望があったのかも知れないと今は思う。女の子なんだなあと感じるのはそういう時で、時に文学少女めいた利発さがあった。大きくはないけれどくりくりしてよく動く瞳、明るくて律動的な歩調はいつも夏の草原を渡る風を思い出させた。春の霞というぼんやりした言葉よりも夏のイメージの方が強かったけれど、彼女自身はどう思っていたのか、自分のハンドル・ネームを気に入っている様子だった。 二  キスの始まりはいつも彼女からだった。猫が主人に媚びるようにそっと上目遣いで僕を見ながら彼女お得意の「甘えのフルコース」がはじまる。ようやく彼女を口説くきっかけを目前にして勇んでしまうと、僕の浅はかな考えなんてお見通しよといわんばかりの彼女の瞳は、いつもの幼い、知性を包もうとして包みきれない少女のそれではなくなる。匂いたつ濃密な気を漂わせた女の瞳だった。貪るようにキスをすると、彼女はさりげなく体だけ拒みながら緩やかに僕を酔わせ、狂わせていく。そんな時僕はいつも初めてのキスを思い出す。違和感のない、甘やかで、可愛いキスだった。  夕暮れの空はセルリアンブルーに灰色を混ぜたような透き通った色だった。地平線の辺りはくすんだ朱で、その境界線よりすこし上に一番星が見えた。色合いを見て、金星か木星だなと思った。昼間の雲は何時の間にか姿を消していて、頭上にいただく空は宇宙の色をしていた。  彼女は僕の腕の中で途切れ途切れに歌を口ずさんでいた。それは彼女の願望なのかも知れず、また単に雰囲気を好んでいるだけかも知れなかった。 「金星が綺麗ね」  微笑む彼女の顔はいつもと同じようにいとおしかったけれど、いつもより優しく慈愛に満ちていた。こんな時、僕は普段の彼女とのギャップに戸惑ってしまう。僕と二人の時だけしか見せない顔の一つ。可愛い彼女が「美しく」なる瞬間を。  そっと彼女の顔を覗き込むと、静かに涙を流していた。何時の間にか、僕の瞳にも涙が溢れていた。 「ごめんなさい」  何を謝るのだろう?僕を狂わせてしまうことを苦に思うのだろうか?それとも僕は単に彼女のボーイフレンドの一人に過ぎなくて、僕がどれだけ本気で愛しても、僕を愛せないと感じているのだろうか?どちらでも僕は一向に構わなかったのに。いつか僕に向き直って一緒に歩いて行けることを信じていたから。  温かい涙を僕に気づかれぬようにそっと拭い、僕の胸に耳をあてたまま彼女はそっと窓の外を見つめていた。日は完全に沈み、少しずつ冷えこみはじめている。彼女の髪の香りが、冷えて湿り気を帯びた空気のために強くなっていた。僕はかすかな目眩を感じながら彼女の肩にまわした手にそっと力をこめた。 「何があっても愛してるよ」  それしか言えなかった。 三  一月に一度のデートは、普通のカップルからすれば少ないと言えるだろう。でも遠距離の割には頑張った方じゃないかなと思っていた。それでも春霞に淋しい想いをさせているだろうという自覚はあったから、可能な限り彼女と話し合う時間を作った。僕達はいろんな話をした。趣味の話、家族の話。お互いの夢の話もした。それでもお互いの将来の話だけ彼女は可能な限り避けようとした。それは僕との未来を夢見ていなかったからなのか、それとも未来がないと思っていたからなのか。どちらかだろうなとは思ったけれど、僕には何も出来なかった。彼女の心の中のことだったから。  緑の濃くなる季節に、彼女が突然提案した。 「あなたのことを好きだけれど、友人としてなのか異性としてなのか、良く判らない。だから距離を置いて、気持ちを確認したいの」  今離れたら、ずっとこのままかも知れないと思った。そんな風に考えなくてもいいんじゃないかなとさえ言ったけれど彼女の意志は堅かった。何度目かのデートの後、僕はその提案を飲まざるを得なかった。でも同時に条件も出した。一年以内に結論を出すこと、結論が出たら必ず会ってくれること。それは僕がうやむやの内に自然消滅してしまうのを嫌がったからだった。約束を実行に移すことが決まったのは、秋になる頃だった。最後のデートをした後、彼女は僕を駅に送ってくれた。訣別のキスと、おやすみのキスをして、僕は駅に向かった。振返りはしなかった。車の中で彼女が泣いてるかも知れないと思ったから。 四  手紙を投函すると、返事が待ち遠しくなる。特にこのところの春霞の手紙は、更に長く、更に遅くなる傾向があった。彼女らしいきっちりとした文面は、いつも思いやりを感じさせたけれど、時々妙に切なくなったりもした。  最後の返事が来たのは、駅で最後のキスをしてから、十ヶ月あまりした時のことだった。 ―――今は申し上げるべき言葉も思い付きません。ただ、あなたの幸せを心からお祈りしています――――春霞  涙が溢れて、止まらなかった。僕は泣きながら手紙の返事を書いて、また投函した。―――返事は来なかった。 五  春霞の話を聞くのが怖くて、僕はインターネットから暫く遠ざかるようになった。以前よく会っていた友達も、連絡を取らなくなったので心配してメールをくれたりしたけれど、僕は気づかないフリを決め込んでいた。春霞、はもうどこにもいない。それを知ったのは、最後の手紙が届いてから数ヶ月後のことだった。  蝉の声が妙にうるさい真夏日だった。