紅焔−Without2−  その人は、既に人妻だった。  私の手の届かない所にいて、いつも笑っている人だった。暗い表情をしている姿など、見たことがない。いつも親友と一緒で、そして楽しそうにしていた。名前を、大野昭乃さんと言った。  アウトドアが好きな主婦で、犬が大好きだった。以前に中型犬を飼っていたそうだが、病気で死なせて以来、飼うのが怖くなったといってそれから二度と動物を飼おうとはしなかった。私はこうしたことを本人から聞いた訳ではない。昭乃さんの親友である女性から聞いたのだ。その女性はハンドル・ネームを春霞といい、明るくて社交的な人だった。二人は「昭(あき)!」「春(はる)!」とお互い呼び合っていて、聞いているだけだと季節に間違えてしまいそうなところから、友人達の間では「春秋コンビ」と呼ばれていたらしい。ちょっと口が悪い二人の掛け合いは、傍目から見ていると喧嘩と間違えそうだったが、その言葉の裏に深い思いやりや友情が感じ取れたのは、その表情がいつも明るく澄んだものだったからかも知れない。そして二人は子犬のようにはしゃいでいた。  いつからか、春霞さんの笑顔が、影を含んだものになったのに気付いたのは、秋も押し迫ったころだった。昭さんは気付いていて、でもそれをどうすることも出来ない自分に苛立ちを憶えているようだった。 「あの子はね、手の届かない人を好きになったのよ」  一度だけ、そう教えてくれたのは、私が春霞さんを好きだと思っていたからだろうか。私はいつも無口だったから、誤解されることは多かったし、恋人もいなくて誤解を恐れることもなかったから、そのまま訂正しないでいたら、いつの間にか春霞さんに伝わっていたらしい。 「ちゃんと言わないと、昭には通じないわよ」 「え…っと。だって、昭さんは結婚してるし」  そういう問題じゃないでしょ、と春霞さんは人差し指をちっちっちと振りかざした。 「ちゃんと失恋しないと、前に進めないわ。私みたいに」  告白はしたけど、受け入れられなかった春霞さんは、ずっと気持ちを昇華できずに苦しんでいた。和佐君という青年が春霞さんの前に現れたのは、その少し後だった。和佐君が初対面から春霞さんに惹かれているのは、私にも良く判ったけれど、和佐君が告白したことで春霞さんは更に苦しみ、自分を追い詰めていくことになった。昭さんはずっと見守っていた。それしかないと思ってたみたいに。  春霞さんはオフ会の幹事役をつとめなくなって、インターネットの世界から身を退いた。でも私や昭さんは自宅の住所や電話番号も知っていたから、時折食事をしたり星を見に行ったりということはしていた。松野さんには当初誘いのメールを送ったけど、仕事が忙しいとかで何度かキャンセルされ、次第に誘えなくなりつつあった。仁君は転職したとかで都合が合わなくなり、遊びに行かなくなっていた。  プラネタリウムと星を一緒に見に行ったオフから、二年程過ぎたある日。突然電話が鳴った。 「康臣、大野さんって女の人から」  取り次いでくれた母はつっけんどんに受話器を寄越した。 「初瀬川さん? 大野だけど」 「昭さん? どうしたの?」  酷く動揺していることが電話の声から伺い知れるほどだった。 「春が……」  昭さんの動揺は、そのまま私に感染した。私はこんな時に言うべき気の利いた言葉も見つからず、立ち尽くした。  駆けつけた病院のベッドで、春霞さんは静かに横たわっていた。いつもはふっくらとした赤みを帯びた頬も、いやに白っぽくて、薄い唇は青ざめてさえいた。昭さんはその隣の小さなスツールに腰かけて、声を殺して泣いていた。私は昭さんの隣に居る男性に気付いて、軽く頭を下げた。 「初めまして、大野です。妻がいつもお世話になっています」  商社に勤めるサラリーマンだと聞いていた。高そうな生地の、アイロンがぴしっと掛かったスーツを着こなして、フレームのない眼鏡が隙のない笑顔をぼんやりとさせていた。 「初めまして、初瀬川です。こちらこそお世話に…」  そんな意味のない挨拶をしてしまうと、次はもうどうしていいか、判らなかった。 「松野さんや仁君や…和佐君には……?」  膝の上で握られていた拳に一層の力が加わった。きっと顔を上げて、血を吐くような凄まじい形相が見えた。能面の、鬼女のような顔がそこにあった。いつもの笑顔は、もうどこにもなかった。 「あの男……『ご愁傷様です』、それだけよ!」  葬儀と初七日があって、それから一週間毎に法要が営まれる。四十九日と百か日、それから一周忌が終ると、喪が明けるという。昭さんの喪はいつ明けるのだろうと私は思った。春霞さんは事故だったという。だが、春霞さんが昭さんの笑顔も奪って行ったようだった。あんなに笑顔の絶えない人は見たことがなかったのに、今は笑顔を見ることがないなんて、思いもよらなかった。私は胸が塞がるようだった。一周忌が終ったあと、昭さんと会うことはなくなった。  それから三年ほどが過ぎ、私はあの頃の昭さんを思わせる明るい笑顔と、春霞さんを思わせる行動力を持ち合わせる女性と縁あって結婚することになった。戸惑いながらも、昭さんと仁君、和佐君と松野さんに招待状を送ったのは、梅の花が咲く頃だった。四人は迷惑がるかも知れない。しかし、前へ進まなければ、と言っていたのは誰よりも春霞さんで、希望を断ち切られてしまっても、それを継ぐ者が居れば。そう思ったからだった。  太陽はいつも同じように輝き、同じように紅焔を吹き上げている。しかしその輝きをしっかりと見ることが出来るのは、日食の時だけだ。真っ暗にのしかかる月の影があって初めて見える、生命力そのもののような紅焔。それは春霞さんが受け入れられない辛さを胸に抱えつつも前へと進もうとしていた姿に良く似ている。そして、昭さんのあの深い感情も、春霞さんを失うというアクシデントがなかったなら。私には伺い知ることが出来なかったに違いない。  招待状の返信を見ていた婚約者が、にっこりと微笑んで私を見た。 「ねえ、春霞と一緒に会ったとき以来ですねって書いてあるわ。私と同じ名前の友達が居たの?」 「うん。もうだいぶ前のことだけどね。とても素敵な人だったよ」  そう言って次の返信に目を移した。