私達の教育改革通信

  9  2006/10

 

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九州でのイレーヌ ランジュバン−キュリ−博士      伊 藤 榮 彦

私は、1967から1980にかけて数年間、パリの南郊オルセー研究学園地区にある線形加速器研究所(LAL)の高エネルギグループに属していたが、 LALから800mほど離れた隣には、ジョリオ−キュ−リ−博士(ジョリオ博士)が中心となって設立した原子核研究所(IPN)があった。

 ジョリオ博士は、人工放射性同位元素の発見により、1935年、夫人と共にノーベル化学賞を受賞し、国立中央科学研究所長、原子力庁長官などを務め、フランス科学界の指導的存在だったが、1950年、フランスの核兵器開発に反対したことを主たる理由に、原子力委員長の職を解任された。 いらい1958年亡くなるまで、彼が設立に尽力したIPNの所長に任じられていた。 その間、自分の研究と若い研究者の育成に尽力する傍ら、世界科学者連盟(WFSW)会長となるなど、自由のため、平和の科学と推進のため、活躍したことは周知の通りである。

2次大戦以前から、ジョリオ博士が亡くなるまで、博士のもとで弟子として薫陶を受けた湯浅年子博士から、折に触れて、ジョリオ博士の科学者としての優れた資質や、優しく公平な人柄などを聞いていたし、ジョリオ博士と共に地下に潜りファシズムに対する抵抗運動を闘った老技官達が、博士の素晴らしい人となりを懐かしそうに語るのを聞くと、人間には学識・思想もさることながら、人格的魅力が如何に大切かを痛感した。 確かに、ジョリオ博士は、その思想や立場を越えて誰もが

敬愛するフランスの国民的英雄であろう。

 IPNには、かのキュ−リ−夫人を始めジョリオ博士夫妻の活躍もあってか、女性研究者が多いのが特徴だった。 ジョリオ博士夫妻のお嬢さんであるイレーヌ ランジュバン−ジョリオ博士(ランジュバン博士、夫君は固体物理学者)もその一人であり、IPNの上級研究員として、150MeVの陽子を用い、原子核物理の研究で活躍した。

 私は、ランジュバン博士とは顔見知り程度で、一緒に仕事をしたことは無いが、坂井光夫東京大学名誉教授は、かってジョリオ博士の研究室で、研究生活を過ごされ、日仏共同研究のリーダーでもあった関係で、ランジュバン博士ともファースト ネームで呼び合う親交がある。

 1998年には、ラジューム発見100周年記念行事が、世界各地で繰り広げられた。 ランジュバン博士も講演に引っ張りだこで、世界各地を回り日本を経て帰国の予定だった。 東京での行事が終わった頃、坂井教授より「博士が佐賀方面の旅行を希望している。 私が案内して行くから、そちらさえ良ければ宜しく頼む」との電話があった。 本来なら、日本の風景にも関心のあるランジュバン博士に、ゆっくりと九州を楽しんで貰うのが望ましいが、地方に住む若い人にとっては、願ってもない機会なので、講演をお願いしたところ、坂井教授の口ぞえもあり、ランジュバン博士の快諾を得た。

 初日の講演会は、当時私が関係していた福岡大で、大学挙げての歓迎のなかで行われ、質問も多く出て成功だった。 71歳だったランジュバン博士はとても若々しく、「今でも、冬には若い人たちとスキーに行き、標高差700mのダウンヒルをやる」そうだったが、空港から福岡大へ着くやいなや更衣室を所望し、衣服を改め身だしなみを整えて講演に臨まれ、流石はフランス女性と感心した。

 その晩は、佐賀県庁の配慮によって、唐津で宿泊し、虹ノ松原など博士の好きな松の木のある景色を堪能してもらい、翌日は佐賀市に移動し高校生対象の講演をしてもらった。 佐賀市内の高校の講堂には、県内の理系志望の高校生1500名が集まった。 講演会の冒頭、坂井教授のランジュバン博士の紹介や高校生の在り方について、前置きの話があった。 教授のまことにユーモラスな語り口に会場が大いに沸いた。 

そのあとを受け、ランジュバン博士の講演行われた。 講演は、生真面目な博士を反映して、原子物理の基礎からラジューム発見の意義に至るまで、克明なもので、延々2時間に及んだ。 その間、生徒は私語もせず熱心に講演に聞き入っていた。 質問も活発に出て、最後に一人の女生徒が立ち上がり、堂々とフランス語で謝辞を述べたのには驚いた。 いま手元には、博士が講演する前に走り書きした講演メモがあるが、それを見ると、このときの情景が浮かんでくる。 

博士は高校生のような若い人相手に講演したのは始めての由だったが、後で貰った礼状には、「佐賀の高校での講演の体験は、私にとって素晴らしく良い思い出である」とあった。

その後、ランジュバン博士は東京を経て帰国されたが、その直前にも疲労を押して、間もなく上演される演劇で、キューリー夫人役を演じる女優の求めに応じ、疲労を押して会見を行うなど、まことに精力的な活動には感銘を受けた。 そしてランジュバン博士の、何とかして物理学を若い人に理解してもらうとする情熱と、気さくな明るい人柄に接した数日であった。 (NPO 科学カフェ京都代表)

 

ヒルデガルトとモーツアルト:石井誠士さんと癒しの原理     法橋 登

 花岡永子さんからの便りで、同じ久松真一門下の宗教哲学者石井誠士さんがなくなったことを知った。東洋的無と仏教の死生観を追求した久松先生の命日に自宅のある比叡平を早朝ジョギング中とのことだった。今年は石井さんが大好きだったというモーツアルトの生誕250年でもある。    

私が石井さんに最後に会ったのは、10年ほど前京都で開かれた「癒し」をテーマにしたフォーラムだった。石井さんが昔ドイツで医療哲学の研修をうけたフォン・ワイゼッカー学派の哲学者を囲むフォーラムである。石井さんは、ドイツまで旧師を迎えに行く旅の途中で「モーツアルトの死生観と創造性」を書くための資料探しをした話をした。ちょうどドイツ国鉄の 「普通列車途中下車の旅」のキャンぺーン中だったとのこと。石井さんは、旧師たちとの討論やドイツで発見した資料をもとにまず「癒しの原理―ホモ・クーランスの哲学」(人文書院1995) を書いた。そこには、モーツアルトの後期(とくにクレタ神話をモチーフにした「イドメネオ」以後)のオペラが悪魔的なものの表現の掘り下げに向かっているという指摘がある。モーツアルトがキリスト教より古い起原をもつ石工の結社から発展したフリーメーソンに28才で入会したことと関係があるのかもしれない。フリーメーソンは、自由、事実、真実、といいう三つの合言葉と秘儀で結ばれたヨーロッパ最古の結社とされる。モーツアルト生誕250年という機会に、石井さんに訊いてみようと思っていたところへ届いたのが花岡さんからのしらせだった。いまは「癒しの原理」に答えのヒントをみつけるしかない。モーツアルトの死生観については、石井さんが指摘していたように、モーツアルト自身が父親と交わした手紙の中でたびたび言葉にしているので、石井さんがドイツで探していたのはヨーロッパの宗教哲学者や音楽家が書いたモーツアルトの死生観だったと思う。

  「癒しの原理」のハイライトが第五章「直視の世界―ヒルデガルトの癒しの世界―」にあることは目次の構成からわかる。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが生きた12世紀は、イスラム文化の拡がりを受けたヨーロッパがルネサンスから近代に転換する時代だった。1098年に南ドイツで生まれたヒルデガルトは、幼少のときから幻視・幻聴経験をたびたび家族に話していたが、8才のときべネデイクト会修道院に入り、孤高、博学、万能の修道女・予言者として81才まで生きた。しかし彼女が自身の幻視・幻聴経験を直視とよんで文字にすることを始め、修道院の外で存在が知られるようになったのは、40才を過ぎてからである。49才のとき女予言者としてトリヤの公会議にかけられるが承認され、パリ大学の教授たちとも神学論争を交わした。ヒルデガルトはその後の30年の間に、人間論、博物学、自然医療、神学などの著作と並んでおよそ70曲の典礼歌と音楽劇の作詞・作曲を手がけ、かつ歌い、ドイツ語で書かれた学術書と音楽劇の最初の著者・作者になる。ヒルデガルトの典礼曲はグレゴリオ聖歌に通じるものがあるが、きわめて個性的で、ルネッサンスの作品により近いという。石井さんは、ヒルデガルトの音楽劇をこう紹介している。「悪魔は歌わない。悪魔が魂と徳にささやくときは、すべての楽器が奏でることを止め、ささやきにメロデイーが伴わない。悪魔の沈黙も、魂と徳が一体となって高揚するハーモニーによって超克されてゴシック的音楽建築が完成する」。キエルケゴール学徒でもある石井さんは、魂と徳が一体になったものが「真摯」であり、その真摯に導かれた回心から自己を超えた永遠が見えるという。

 1970年代後半にヨーロッパで起こった「緑の運動」がヒルデガルト・ルネサンスと呼ばれていることや、ヒルデガルトの医療書が現在医食同源の書として読まれていることは石井さんの本で知った。前記ドイツ国鉄の途中下車運動やソフト・フード運動はその例である。石井さんはこう書いている。「キリスト教が人間以外の被造物―動植物―にあたえた地位を人間の地位まで高め、その運命まで配慮したことは今日のエコ思想に通じる」。

石井さんのいう「ホモ・クーランス」は「配慮する人間」という意味で、ホモ・サピエンス(知恵ある人)に対して石井さんが提示した21世紀の人間像である。石井さんの「癒し」は、生涯不治の病に苦しんだヒルデガルトの共苦の思想から発しているが、ヒルデガルトの病苦やモーアルトの死の予感が創造性と多産性を高めた可能性から、石井さんは先師の「健康とは創造性の自由な発現」という定義を継承し、「癒し」とは「創造性への奉仕」だと考える。石井さんはまた、ブッダの言葉を借り、自由な創造は「不生の生を生き、不死の死を死なない」、つまり「生かされて今生き、避けられない死を今死なない」境地から生まれるとする。ブッダは、生かされて今生きる弟子には「機根 (動機と素質) に応じ類 (文化的背景) に従い」法を説き、死ぬべくして今死なない弟子には「一音にて」法を説いたと伝えられる(維摩経)。そのような今をモーツアルトの一音に聴いた石井さんは、瞬間を「永遠のアトム」とよんだキエルケゴールにも注意している。

 

冥王星と憲法    海野和三郎

9月3日、産経新聞第一面に「なお未練・・米科学者ら冥王星降格「待った」の記事が出ていた。準惑星に降格させて、その筆頭に起き、こらから何百何千と発見されるであろう太陽系準惑星の描像への発展に将来を期待するか、それとも、K.トンボーによる科学史上の偉業を記念して、惑星の持つ宇宙観の科学史上の意味を重んじて、これまでどおり、冥王星までの九つの惑星という描像を支持するか、両者共に学問的・文化的に根拠があり、どちらも正しい見解である。しかし、少くも暫定的にはどちらかに決めなくてはならない。

 私見では、トンボーの発見は、ニュートン力学による惑星摂動論に基づいて探査した結果であり、逆に言うと、ニュートン力学が少なくとも太陽系空間では適用できることの最初の確証という意味があるので、冥王星を惑星から除外しない方がよいと考える。他方、準惑星の発見が今後ますます増えるであろうから、その張り出し横綱として冥王星を置いておくのも悪くない。大げさに言うと、冥王星は、東洋西洋を結ぶ古来の宇宙観と現代的ビッグバン宇宙観との掛け橋なのである。しかし、問題を複雑にしているのは、冥王星の質量が小さすぎて、海王星の軌道運動に影響を与えないという議論があり、他方、冥王星が海王星と交叉する軌道を持つにも拘わらず、なるべく近付かないですむような一種の共鳴運動がをしており、その反作用としての海王星への影響がどれほどになるのか、よく分かっていないことのようである。トンボーの発見の動機となった、海王星軌道運動のよたつきが、単なる観測誤差による誤解に基づくものであったのか、あるいは、小質量ながらそれだけの効果を冥王星の存在が引き起こしたのか、明らかにする必要がある。

変な連想だが、この問題は憲法改正の問題に似ているように思える。憲法にも第九条に関連して防衛問題などいろいろとあり単純でないが、憲法の最も根元的な役割は国体の記述にあると考える。従って、一旦、国民が尤もな憲法として受け入れたものは、国体が大きく変化しない限り、少なくとも人の一生か二生、即ち、百年くらいは、ボロボロになっても変えない方がよい。ただし、憲法の中にも、直接国体を定義しているわけではない実務的な部分があり、それに関しては、時局に合わなくなれば部分修正をするか、解釈を変えて済ますなどが適当である。それに対して、教育基本法は、教育行政の実行に関わる法であるから、時局に合わない部分は大幅に改訂する必要がある。現行の教育基本法が制定された時には、現在のようなエネルギー問題も地球環境問題も意識されていなかった。21世紀になって、初めて、それが人類存亡の危機に深く関係し、それによる世界的な閉塞感が、青少年の生きる力を育てる教育を阻害していることが実感されてきたのである。これは、教育基本法の生半可な修正や制度改定ですむ問題ではない。100万年の進化で出現した現代人が100年で姿を消すかどうかという宇宙性の問題なのである。新教育基本法の第一の基本思想を地球環境と人類との一体観に置く必要がある。それが、平和憲法に新らしい解釈を与えることにもなるであろう。明治憲法を作ったときの意気込みで、新しい哲学を織り込んだ教育基本法を制定する必要がある。

 

音楽とは          増井容子 

新内閣が発足し、教育基本法改正問題がクローズアップされているが、正直言って肝心の「教育基本法」なるものの内容がいったいどういうものなのか、私にはよく理解できていない。その程度の知識だから、与党が提示する案も野党が提案する内容も、恥ずかしながらよく判からない。だが現在の教育がこのままでよいなどと、私は勿論のこと国民の誰もが思っていないと思う。

私は教育と言っても音楽教育で、しかもギターという特殊な楽器だから、そのごく一端を担っているに過ぎないが、音楽教育は人格形成上不可欠で重要な要素であると、かねがね考えてきたので、これを契機に「音楽とは」を改めて考えてみようと思う。初心に返る気分で、自分自身のためにも先ず「音楽教育の起源」について整理をしてみることにする。

楽典その他の資料によれば、いかに古くから教育科目の一つとして音楽が重要視されていたかがわかる。それは古代ギリシァ、ローマ時代にまでさかのぼる。良く知られているリベラル・アーツ(自由七科)は古代ギリシァ時代に起源があり、学問として定義されたのはローマ時代末期、5世紀後半から6世紀にかけてと言われているが、更に三学(文法、修辞学、論理学)と四科(算術、幾何、天文、音楽)に分けられた。これを見ると音楽は数学的学問として取り扱われていたことがよく判る。

その後13世紀ヨーロッパで大学が誕生し、自由七科は学問の科目として公式に定められたが、今なお大学での一般教養課程という意味で用いられている。因みに哲学はこれらすべてを統括する学問として最上位に扱われていたようだ。 

古代ギリシァ・ローマ時代、優秀な騎士を育てるのに、武道(剣)と同様に音楽は不可欠な教科であったと、フルート奏者の故吉田雅夫氏が徹子の部屋で話していた。また、ギリシァでは「肉体には体育を精神には芸術を」という教育の二大モット−があり、今も尊重されていると、楽典(黒沢隆朝著、音楽之友社刊)の中でも説かれている。

 日本での音楽教育起源(洋楽)は明治政府発足以来と思われるので、おそらくここ130年ほどのものではないだろうか。邦楽に関する教育起源については、上原一馬著、音楽之友社刊「日本音楽教育文化史」で解説されているようだが、出版社の在庫切れでその内容を確かめることが出来ない。専門外でもあるので割愛させていただくことにする。

 このように音楽教育の起源について調べてみると、人間形成上いかに不可欠な教科として重要視されてきたかが窺える。近年、特にここ10年ほど前から子供の音楽離れが目立ちはじめた。電子オルガンが雨後の竹の子のように普及された頃、何百人もの生徒を抱えていた楽器店の音楽教室が、最近どんどん閉鎖され、延いては倒産する楽器店が増加している。最近の年少者が起こす凶悪犯罪の増加とこの現象が比例しているようで、これだけが要因とは思えないが、全く無関係とも言えないと音楽に携わるものとしては、つい関連づけたくなる。

 さて、標題にした「音楽とは」を整理しなければならない。「音楽の定義」を検索すると「ウィキペディアフリー百科事典」で以下のように定義づけられていた。

【音楽とは、川の流れなどで生じるランダムな音(これを音響学では雑音という)以外の、時間的に規則性がある・周波数に規則性があるなど、ランダムさが低い特性をもち、かつ人間が楽しむことのできる音のことをさす。またこのような特性をもつ音を様々な方法で発したり、聴いたり、想像したり、それに合わせて体を動かしたりして楽しむ行為のことも音楽という。音を発生する方法には声、口笛、手拍子、楽器などがある。】  

また「広辞苑」では【音による芸術。拍子(ヒヨウシ)・節(フシ)・音色(ネイロ)・和声などに基づき種々の形式に組み立てられた曲を奏するもの。器楽と声楽とがある。】などと複雑に解説されている。   

出版は古いが、前出の楽典(黒沢隆朝著)の中に、とても判りやすく定義されているのを見つけた。【ベルギーの有名な音楽学者フェティス(Fetis 17841871)が『音楽とは、音の配合によって、人の感情を感動させる芸術である』と定義してから、この短いことばが一般に音楽の定義として、用いられるようになった。】とある。この『音の配合によって人の感情を感動させる芸術である』を私も引用させていただこう。自然界の中からより美しい音を更に美しく表現し、人の心に訴え感情を揺さぶる。人が感動することの一部分でしかないが、感動を呼ぶ状態はそうそう訪れるわけではない。しかし音楽は常に巷に溢れている。どんな苦境の中にあっても、音楽が勇気を与えてくれたといった有名な話を、昔からいくつも聞いてきた。美しい音楽を感じ取ることが出来る感性を養うために、音楽を疎かにしない教育を家庭でも心がけて欲しいものと願っている。

                               

むすめ歌舞伎と人情    市川櫻香

 日本が世界に誇る演劇、歌舞伎は「歌」音楽、「舞」踊り、「伎」お芝居の要素をもっております。それは日本の衣食住の要素を含む幅広い文化です。私は名古屋むすめ歌舞伎を結成し、その成長に長年努力してきました。でも「なぜ、歌舞伎?」と、結成当時からいつも聞かれるこの問いに、言葉の未熟さでなかなか自身も納得出来る答えが出来ず、20年を越しましたが、このところ思うことの中にこの問いの答えがあるように思われ書いてみました。

 私達は、先祖がこの地で経験したささやかなことから、また、歴史に残る大きな出来事など、かならず影響を受けて今このように暮らして生き、私達のこの感性、感覚もさまざまなな過去から現在のその流れの中にあると考えます。

 伝統芸能は、その時々のエネルギーを、型を通し今の私達の肉体に蘇らせ、ご覧頂く皆様にもそのエネルギーは伝わっていくもののように思います。 「我田泥水」も必要ですと、ある日、尼僧老師様から教わりました。私の心の中に歌舞伎の演目への不満を感じていた時です。 時代狂言の(首実検)、世話狂言では(姦通)や(心中)、親殺しに子殺し、訳あってのドラマではありますが、現代の日常に嫌という程起こる事件と並べてしまうと、とてもやりきれるものではありません。見たくない、聞きたくない、そして関わりたくないと思ってしまうのです。 しかし、それでいいのでしょうか、私達は歌舞伎という美しく仕立てられたお芝居の世界の中に、現代に起こっているさまざまな事件と繋がっていく感性、感覚があると、{ふと}感じておく必要があると思うのです。

 そうです。確かに、あの義理の親父を殺してしまう夏祭りの団七にも、封印を切ってしまう忠兵衛にも自身がなってしまう要素はあるのです。その証拠に封印切のお芝居で忠兵衛が封を自身できってしまう場面に観客席は「うっ」と息をつめ、「あーっ」とやってしまったかー、とでもいうような空気となります。

誰もが、悪事と解って見、そして人間のか弱さを感じることとなります。 どうぞ、日本の市井の人の心をもう一度振り返り、慈しんで頂ければと存じます。 演じる側、見る側が大切に、生きることを感じるお芝居をと思います。

政治・組織、そして判断  菅野礼司

日本の政治風土と教育

 「一言政治」といわれた小泉首相が首相の座を下りた。実行しようとする政策の内容や目的を説明せずに、スローガン的な短い言葉で表現するだけで、多くの政治家と日本の国民を引きつけて最後までそれで切り抜けた。最初は目新しい「改革なくして成長なし」とか「自民党をぶっ壊す」などの言辞に引かれたせいか、世論は稀にみる高い支持率であった。中盤からこの「一言政治」に対する批判が出るようになったが、最後まで比較的高い支持率を保った。

 そのことで、日本の教育と関連して思うことがある。この「一言政治」で、小泉内閣が長い間高い支持率を維持し得たのは、日本人の気質と思考形式のせいで、それには教育が絡んでいるように思える。戦後間もなく受験競争が激しくなった頃から、日本の教育がそれの傾向を助長したように思える。物事を理解するとき、順に筋道を追って考えるのでなく、結果さえ合っていれば良いという生徒・学生が増えてきた。個別知識を覚えることに一生懸命で、前提と結果にばかりに感心があり、その原因や過程の論理に興味がないのだ。しかも、教科縦割りの個別知識詰め込みが主で、物事を関連づける思考や総合的判断力を育てなかった。そして「○×式テスト」あるいは「2項の線結びテスト」に慣らされた結果、ますますそうなったと思う。だから、受けの良い語句やスローガンで国民を引きつけて、世論を煽ると簡単に騙される。なぜそうするのかの理由、そのプロセスと結果、さらにその結果から先はどうなるかに考えが及ばない。そのように教育されてきたからであろう。もともと、日本人ばかりでなく東洋人の思考形式は、現象的・直感的であって、論理的に掘り下げて考えようとしない傾向にある。表面的な現象だけで分かったような気になり、その場その場の現象で判断するから時流に流され、あるいは迎合してしまいがちある。これでは国民主権の民主主義は育たない。それゆえ、その思考パターンの短所を補うなり、または克服する教育をすべきなのに、逆の教育をしているように思えてならない。

 小泉首相が、最後に永田町を去るときには、5年間を振り返りこれまにしてきた施策について、自らの思いを何か言うべきだったがそれもなしに終わった。やるだけやって後の始末はよろしくといって、知らぬ顔である。特に、「イラク派兵」については、重大な責任がある。これは日本憲法よりもアメリカのブッシュ大統領にサービスすることを優先させたもので、日本の内政・外交が危険な方向への大転換の梶を切った非常に重要な事件であった。アメリカでは、イラク戦争に対するブッシュ批判が非常に高まっている。イラクには大量破壊兵器は存在しなかったこと、またフセイン政権とアルカイダとの関係もなかったことなどを、政府の機関が調査し発表をした。イギリスでも、アメリカに協力したブレア首相に対して強い批判が出て、ブレア首相は誤った情報を信じてアメリカに協力したことを反省した。しかし、日本では、首相は頬被りをしたままである。跡を継いだ安倍新首相は、当時そう信じる状況にあったから間違いではなかった、と誤りを認めようとしない。イラク戦争に関して、ブッシュ大統領に積極的に追随したことに対する追求や批判はほとんどでていない。野党とジャーナリズムはもっと強く執拗にその責任を問いただすべきだ。政治家のこの無責任さを見過すのは、第2次世界大戦の戦争責任者とその責任の所在を、日本人自ら明らかにして処理しなかったことと似ている。靖国問題の議論のなかで、今になってそのことが問題になっている。

組織のなかでの思考呪縛

  人間の思考や判断は、そのときの周囲の状況にかなり支配される。群集心理の場合は言うまでもないが、組織のなかにいるときや、精神的に高揚した集団の中にいるとき、全体の雰囲気に流されて、個人に思考や判断が狂うことはよくあることだ。特に、組織に属している場合には、冷静な状況判断ができるときでもそうなり勝ちである。閉鎖的組織の場合は、その組織の自己運動で雪だるま式に悪い方向に転がっていく。そのために、誤りに気付きにくいし、たとえ気づいたとしてもそれを言い出せない。戦前の日本軍部、そして日本全体の状況がその典型であった。現代でも、ことが終わって後になってから、反省したり改めたりすることがしばしば起こる。たとえば、政治的要職にある者がそのとき行ったことを、退役後に反省して誤りを認める例がよく見られる。アメリカのベトナム戦争遂行の中心的存在であった人物の何人かが、後にベトナム戦争政策を反省したり批判したりした。イラク戦争の場合も同様なことがすでに起こっている。今度はベトナム戦のときよりも気づくのが早かっただけ、多少救いがある。

自己中心的思考について

 他方では、無差別テロを行っているイスラム原理主義者のテロ組織も、閉鎖的集団の雪だるま式自己回転という点では、その本質はこれと似ているだろう。もっとも、彼らがここまでエスカレートしたのは、複雑な事情が絡んでいる。十字軍以来、長年のヨーロッパの政策、近年ではロシアや米英の政治に責任があろう。イスラエル建国のためにアラブ人をその地から追い出したことが、彼らをテロに走らせた契機だろう。また、ロシア(ソ連)のアフガン支配もテロの温床となった。それ以外に「貧困」という経済的要因もあろう。

 先の教育改革通信93,95号に、最近のアメリカの民主主義戦略、そしてまた唯物論弁証法に立脚する共産主義やイスラム原理主義が自己中心的なのは、ソクラテスの説く「無知の知」がないからだ、という意味のことが説かれていた。しかし、そう単純に割り切ることはできないと思う。

 もともとイスラム教の創始者モハメッドは、「知は宝なり」といって学問を強く尊重する教義を説いた。また、イスラム全盛時代にも、支配地の住民に対しては、税金さえ納めれば他の宗教に対して比較的寛大であったと言われている。そして、学問研究所を造り学者を優遇した。そのため、各地から優秀な学者が集まり、中世には「アラビア科学」として独創的な学問・文化が開花した。したがって、イスラム教は、本来は自己中心的とは限らなかったはずである。むしろ、政治的支配への反発から、キリスト教対イスラム教という「文明の衝突」へと発展してきたように思える。政治・軍事ともに常に支配的立場にあって、世界覇権を意図するアメリカの自己中心とイスラム原理主義のそれとは本質的に異なる。

 また、唯物弁証法は、「無知の知」とは異なる意味だが、知の探究は無限に続き、知識も無限に止揚されていくことを説いている。自然弁証法は唯物弁証法を基礎にしているが、その認識論の方法を私は肯定している。自然弁証法は、自然に関する認識は限りなく発展するのもで、「電子といえども汲み尽くすことはできない」というように、自然の探究には終わりがないことを主張している。この立場は「無知の知」と対立するものではないだろう。マルクス主義者にはマルクス−エンゲルスの理論を金科玉条として教条主義や独断に陥った者も多かった。これも組織の中での思考の呪縛の一種だろう。その上に、共産主義者、特にソ連の支配者は個人崇拝と官僚主義から独断的自己中心になったが、その原因は多くの要因が絡んでいると思う。マルクス主義そのものにも独断的思考に陥り易い欠陥があったろう。しかし、唯物弁証法にのみその原因を帰すことはできないと思う。         (編集 菅野)