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薄暗い暗がりの、ネオン街から一歩それた横道に、片瀬修二(かたせ しゅうじ)はいた。

街の明かりは届かず、雑踏だけが響くそんな路地裏。

だからこんな事が起こっているなんて、表通りを歩く人達には分かるはずもなかった。

修二に相対する男は怯えていた。

自分が殺されるのかも知れない・・・・・・いや、間違いなく死ぬであろう事実に。

ならば逃げ出せばいいのではないか。その考えは、この場にいない者だからこそ言える。

修二の左目は冷たさを纏わり、赤黒く染まっていた。右目には西洋の彫物を施した、おそらく鉄製であろう眼帯をしていた。だからその奥がどうなっているかは判断出来なかった。

「人間の目ではない」 男は心の中で思った。どんなに鋭い刃物や、殺傷力のある拳銃を突き付けられるよりも恐ろしいと。

「ぅ・・・・・・」

男は唸った。喉がつまりそうなくらいに渇いた口内に、再び潤いを与えるため。

もし、大声で助けを呼べば助かったかもしれない。もし、力の限り叫べば目の前の男が逃げてくれたかもしれない。男は考えた、ほんの一瞬、瞬きほどの時間。だが、それでは遅かった。

男が息を吸い込むと同時に、暴力的な破壊音がした。

肉と骨が押し潰され、粉々にくだける音。辺りには血と肉が飛び散り、薄暗い路地裏に真紅が飛び交う。

修二の左手からは、生暖かい血液が滴り落ち、その先にある男の顔は原型が分からないほどに潰されていた。

修二は事が終わるとすぐにその場を離れようとした。

逃げるわけではない。見つかるのが怖いわけでもない。ただ、ひどく疲れた目をしていた。

左目の充血を抑えるようにして、右目にしていた眼帯を左目へと当てがう。左手は血で汚れていたので、作業は右手一本で行われた。

手馴れた物だ。

そのまま修二は、街灯の明かりのさらに届かない奥へと、消えて行った。

 

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左手が熱い。ぬるぬるとした感触も気持ち悪い。まだ血液だけは生きていて、それが表面上で脈を打っているみたいだ。

早く、洗い流したい。

焦る気持ちを抑えて、修二は近くの公園へ向かっていた。定期的に点在する街灯を頼りに、おぼつかない足取りで。

少し歩くと、目的のそれは見えてきた。住宅街から孤立した場所に、ひっそりと存在していた。

誰か、いる。

公園の入り口の柵に腰掛けている人影が見える。いったい誰だ、こんな時間に。

さらに近づくと、頭上から下りる光がもうひとつの影を照らしだした。

犬? なのか。あまりに時間に相応しくない光景に、自分の目を疑った。

遠巻きに見ても*犬の散歩の途中で一休み*しているようにしか見えない。ただしそれは太陽が落ちる前の話だが。

どうする。まだこちらには気づいていない。別ルートでも水道のある所へは行ける。ただしかなりの遠回りになってしまう。

頭の中で遠回りをする自分を想像したら、左目が疼いた。

どうでもいいか。

今は一刻も早く洗い流したい。すでに乾き始めているこの左手を。

修二は、わざと小石を蹴って音を立ててみた。

このまま行くと、目の前で自分に気づくと思ったからだ。人影は先ほどから犬と戯れている。

急に驚かれたりすると、こっちが困る。もし驚きで悲鳴なんか上げられたりしたら、たまったものじゃない。

それか一番いいのは、自分に気づいてこの場を立ち去ってくれることだ。

あの人間がなぜここにいるのかは知らないが、こんな時間に人が近づいてきたら普通は怖いはずだ。

修二にもそれが一番の望みだった。

だが、そうはならなかった。

女は振り返った。驚くような仕草ではなく、ゆっくりと。

そして目が合う。そのまま数メートルほど互いの姿を確認していたが、先に目線を逸らしたのは修二のほうだった。

女は不思議な目をしていた。何も感じず、何も興味がなく、ただ目の前の物事を事務的に見るような眼差し。

女の前まで残り5メートル。女はまだこちらを見ていた。犬を撫でているのが見える。

修二の事が気になるのだろうか。怖いなら逃げればいい、誰も追いはしない。

修二が外灯の真下、女の前を過ぎようとした時、女は声を発した。

「あ」

それに釣られ、女のほうに顔を向けてしまった。けれど目は合わず、女の視線の先は修二の左手へ向けられていた。

修二は足を止めた。違和感。

「ねぇ」

修二の思考が考えから結論に達する前に女は続けた。

「その手、どうしたの?」

まるで見知った顔、もしくは友達と話すかのように女は喋りだした。

「血、だよね? そこに水道があるから洗ったほうがいいよ。あ、でも貴方のだったらごめんね。沁みちゃうよね」

一方的に話をする女を横目に、修二は別のことで頭がいっぱいだった。女、外見から判断するにまだ15,6歳の少女。

たしかに、公園の中にある時計台の時刻は夜中の12時を回ろうという所だ。犬の散歩であろうとなかろうと、一般の少女が気軽に外出していい時刻ではない、不自然だ。

だが、修二は別のことで違和感を感じていた。この女、いや少女には―――

「何怖い顔をしているの。まさか私を襲う気?」

少女は笑いながら言った。まるでそれも悪くないとでも言わんばかりに。

「こっちよ」

反動をつけて柵から身を投げ出す。少女は外灯の光から外れ、公園内へ消えて行った。その後ろを、毛並みのいい大型犬が歩いていく。

着いて行くべきか、行かざるべきか。

犬には首輪も紐もされていなかった。

 

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修二が水道の蛇口を力いっぱい捻った所で、少女は尋ねた。

「喧嘩でもしたの?」

目を向けると、木製で出来た屋根のある休息所の椅子に座っていた。

返事をしないまま視線を手元に落とす。早いとこ洗い流したい。

「目は、怪我しているの?」

今度は目を向けずに、返事もせずに相手をしなかった。

質問を諦めたのか、事がすむのを待つことにしたのか、少女はそれっきり静かになった。

その後しばらくの間、水が腕に叩きつけられる音と、少女の犬ではない遠吠えだけが耳に入った。

ひとしきり血を洗い流し、体勢を上げる。それに合わせるように少女の体がピクッと跳ねた。

修二はずっと考えていた。血を洗い流している間、無視をしていたわけではない。少女に感じた違和感の謎をずっと考えていた。

「お前は、何故ここに」

言葉足らずな質問だった。けれど少女は少し考える仕草をしたあと、答えてくれた。

「んー、なんとなく」

指先で髪の毛を絡め取り、それを解くと緩やかな風が少女の髪を撫でた。

「ただ、家にはいたくなかったから」

冷たい風が修二の前を横切り、その向こうにある少女の顔は虚ろな表情をしていた。

しかし、瞬きほどの間にそれは元に戻った。

修二の目に焦点を合わせ、真っ直ぐに見据えようとする。だが、何かを躊躇うように、迷うように俯いた。

「?」

困惑する修二が、蛇口を捻り水を止め、周囲の雑音が排除されると少女は話した。

「親を・・・・・・」

一拍の間のあと少女は告げた。

「殺してきたの」