きかいのからだと人の心と
ボクのママは病気だった。毎日をベッドの上で過ごす日々が続いていた。
ある日薬が切れた。いつもなら重い体を起こしてママが薬を買いに行く。ボクには行かせてくれなかった。
けれど今日はそれも無理だった。いつにもまして苦しそうなママの姿があった。でも、それでもママはボクに行くようには言わなかった。
なんでだろうと思いながら、ママの額の熱いタオルを何度も代えた。ボクにはそれしかできないから。
しかしもう限界だった。ママの容体は悪化するばかりだ。ボクはママに内緒で家を出た。
ボクの頭にはこの街の地図が入っている、迷う事はなかった。ママが話していた薬屋さんに着いた。お金もある。これで大丈夫、そう思っていた。
「悪いがこの薬は人様のためにあるんだ、オマエには売れないよ」何のことだかわからなかった。「ボクはママのために薬がいるんです、それを売ってください」と頼んだ。
しかし答えは変わらなかった。やっぱりママが来ないと買えないのか、ボクが子供だから。
うつむきながら帰り道を歩いていると、お店のショーケースが目に飛び込んだ。
そこには一つの姿があった。人の形をしている。しかし耳や頭にきかいを乗せている。人ではない。でもそれなら何と呼べばいい、この人の形を模した物を。
ボクは振り返った。しかしボク以外には誰もいなかった。
この時ボクは知った。ボクが人でないことを。
家に戻った時ママはまだ眠っていた。少しだけほっとした。額の熱いタオルを代え、ママの側に椅子を置いて座った。それからは数分ごとにタオルを代える毎日が続いた。
その日からボクは眠る事をやめた。でもつらくはなかった。いつもはママが寝なさいと言えばすぐにでも眠れた。しかしもう眠いとは思わなかった。ボクはきかいだから。
そんな日々が何日も続いた頃、ボクはなぜ人ではないのだろう、人であればママのために薬が買えるのに。そんなことばかり考えていた。ボクは人になりたかった。ママと同じ、人になりたかった。
今日は朝から雨が降り続いていた。とても強い雨だった。何度取り替えたかわからないタオルを洗面器で絞っている時、水滴が落ちてきた。上を見上げると、ボクの頬にも一粒落ちた。雨漏りしていた。
他の洗面器で雨漏りを防いで、ベッドに戻るとママが目を覚ましていた。ボクはママの横に行き大丈夫かと聞いた。痛いところはないかと聞いた。苦しくはないかと聞いた。
ボクの言葉をすべて聞いた後、ママは優しく微笑みボクを撫でてくれた。ボクのきかいの部分と一緒に。
しかしママの呼吸はどんどん荒くなっていった。汗もいっぱい掻いている。ボクはじっとはしていられなかった。家を飛び出すと外は凄い雨だった。でもボクには関係ない。ボクはきかいだから、風邪なんてひかないから。
どしゃぶりの中、頭の地図を頼りに何件もの薬屋さんを回った。しかしどこのお店でもボクに対する言葉は同じだった。ボクが人じゃないから、ボクがきかいだから、誰も売ろうとはしてくれなかった。
そして最後に行き着いたのは、ママが話していたあのお店だった。ここは前に来て断られている。でも今日は引けなかった。何度も何度も頼み込んだ。きかいのボクが使うんじゃないと、ママは人だからと。
そして渋々ながらも薬を売ってくれた。ボクは急いで家に帰った。これでママは助かる、ママは元気になると信じて。
家に戻るとずぶ濡れになった身体から、濡らさないように大事に抱えていた薬を取り出してママに飲ませた。けれどママは飲んでくれない。お水と一緒にしても飲んではくれなかった。だからボクは待った、ママが目を覚ましてこの薬を飲んでくれるのを。
しかしその日は来なかった。数日立ってもママは起きてはくれなかった。そしてボクは知った。ママの頬に、腕に、胸に手を当ててそれが何を意味するのかを。ママが目を覚ますことはもう、絶対にないことを。
しばらくはタオルを取り替えるのをやめなかった。信じたくはなかったから。でも、何度代えてもタオルは冷たいままだった。
ママの手に何かが握られているのに気づいた。それは手紙だった。ボクはタオルから手紙へ持ち替えてそれを読んだ。
大きな紙にたった一言、震える手で書いたのだろう、文字はぐちゃぐちゃだった。
*あなたはママの子だから*
ボクは天井を見つめた。雨漏りの水が目に落ち頬を伝って流れた。何度も、何度も、雨の水は流れていった。
ボクは人になりたかったんじゃない。きかいの姿が嫌だったんじゃない。ただ、ママの子供でいたかった。
雨に打たれすぎたせいだろうか、身体がどんどん重くなっていく。ボクの、きかいの部分が壊れていく。
ボクは、ゆっくりと人に近づきながら目を閉じていった。
ボクのきかいが終わる時、ボクの心は人になっていた。